※全文は以下に収録されています。読んでいただければありがたいです。
◆立岩 真也 編 2017/09/10 「解説 リハビリテーション専門家批判を継ぐ」,多田富雄『人間の復権――リハビリと医療』,藤原書店,多田富雄コレクション3,pp.269-287
■cf.
◆立岩 真也 2017/08/29 「多田富雄・上田敏――「身体の現代」計画補足・404」,https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1938649139735397
◆多田富雄/◆上田 敏
■批判の相手はかつて褒め讃えた人であったこと
この巻のUに収められた文章は、二〇〇六年、リハビリテーションの上限設定に反対し、その運動の前に立った多田の文章であり、最後の一つ以外は『わたしのリハビリ闘争』(多田[200712])に収録されている。この本が出されることによって十年ほど前にあったその記録が残ることはよいことだ。
多田が強く批判したのは医療にかける予算を削減しようとする当時の小泉首相、厚労省の役人といった政治に関わる人たちだったが、それだけではない。自分もその一人である研究者、そしてその人たちの学界・業界に批判は向けられた。ここで多田は遠慮していない。はっきりとものを言う。あのようなできごとに対するために、一つに多田のような直接的な怒りは必要だ。私はまったくそう思っている。
その上で、すこし別のことを書く。それが、かっこよい多田は多田で言うべきことは言ってもらって、私のような者の仕事だとも思っている。[…]
■相手はどんなところにいる人たちなのか
だから、かつて鶴見(ら)の賞賛の対象であった人(たち)は、ただ黙っているということではない。一番単純な、必要であり大切であるが、予算を削減したい政治勢力によってそれが後退させられているのに、何も言えない学者・学会が批判されるべきだというだけではない。それをどう見るかである。
[…]
この人(たち)はこんな立ち位置にいる。二〇〇六年の事件が起こるその前の幸福な時期においては、その人たちやその言論は肯定されてよかったのか。リハビリテーションは「全人的復権」であるという。全人的復権とは「あらかじめ」よいこと、よいに決まっていることである。だから文句は言わないとしよう。そして人間・社会の全体を良くしていくその全体の中で「所謂」リハビリテーションはその一部である。そのことを当の専門家も認めている。しかし例えばこの委員会は、広義の、「全人的復権」のリハビリテーションをリハビリテーションとしそれを論ずる場であるとされ、その中に(狭義の普通の)リハビリテーションをどのように配置するのかを(実質的に狭義の)リハビリテーション業者・学者が設計するという具合になっているのだ。ある部分を他のやり方の方がよいとして手放すのだが、手放しながら全体に関わるというそういう位置どりをしている。
これは単純な間違いではある。二つのリハビリテーションは違うのだから、狭い方の専門家が広い全体を担当する権限はもちろんない。そのことをまず確認しよう。だから、「全人的」とか言ってもらって感心している場合ではないということである。「よいもの」「全体的なもの」に安心するのでなく、このような形而下的な言葉や実践の配置、取り違え、そうしたものに敏感であらざるをえないということである。
そうして冷たく、しかし普通に考えていくと、鶴見がひどい目にあったのも、たんにリハビリ△294 テーションを職とする人たちの腕がわるいということであったかもしれないということだ。「しれない」ではなく、鶴見の本を読んでいけば、はっきりとこのことは言える。限定された仕事をきちんとできればよい、のだができない、できるような体制がない。他方で仕事がきちんとできる人、腕の立つ理学療法士等々もいる。このことも多田が述べている通りだ。読み取るのはまずここだ。ただ、このことをきちんと指摘しているのは、私の知る限りは、杉野昭博ぐらいだ(杉野[200706]、立岩[2005-(57)]で紹介、立岩編[201007]に収録)。そして、事実上の特別の権限があることによって、よりよい、しかし本来は「普通の」(普通であるべき)誰に対してもなされるべき技術の提供が、一九九七年一月以降鶴見に対してなされた(だけ)であるという可能性はある。歌集を出して自らの様子を知らせられる人もそうはいないし、それを読んでその人が入れる病院を(事実上有する権限によって)手配できる人もそうはいない。また多田は東京大学の名誉教授であり、附属病院を利用し、その病院の施設・処遇がよくないことを感じ、率直にそれを指摘できる。これもまた、当然誰によろうとなされてよいことだが、実際には難しい。
私はなぜここにこんなことを書いているのか。一つ、多田が闘った相手、闘った状況についてどうしたよいのか、どんな筋で、どんな道を行くか、私も気になってきた。細切れにされた科学に対して、なにか全体的な認識を対置するといったことがあって、多田もそそうした脈絡で評価され、それはけっこうなことだと思いつつ、別のこともしなければと思ってきた。△295」
■すくなくとも私が教わること
[…]
人の多くは、また一人の人の大きな部分は「よくなる」ことを求めていて、それは多田の本を読んでもまったくもっともなことだと思う。よくなりたいとまっすぐに言われると、医療はいら△297 ないと応える人はそうはいない。では何がどのように要るのか。そういうことを考えるのが社会科学、規範理論の仕事だと私は思う。ただ、例えば医療社会学と呼ばれるものが「医療化」「病院化」を批判だけしているのであるとすれば、それはあまり使えない。「障害学」も「社会モデル」の受け取りようによっては使えないかもしれない。だから、ただ哲学的であったり免疫学的であったりする知に社会科学的な知を対置すればよいということでもない。
その時、多田の文章はべつように読める。例えば痰を出せないとかそんなことの辛さ、苦しさが伝わってくる。多くの人がそんな経験をしているが、なかなか文字にするのは難しい。比べて多田の文章はよく書けているように思う。その記述は貴重なものだと思う。そしてその辛さはなんとかした方がよいし、そしてできなくはないだろうと思う。そして実際できなくはない。
他方、これは多田を取材したテレビ番組(NHKスペシャル「脳梗塞からの”再生”――免疫学者・多田富雄の闘い」、二〇〇五年十二月四日放映)を見たときも思ったことだが、発話への執着はすこしわかりにくいところがあるように思える。多田はPCを覚え、トーキングエイドを使うようになった。言語療法士のもとで訓練するのだが、声を出せるようになるのはかなり難しそうだ。他人ごとながら、そこにそれまで熱心になるのなら、別のことをやったらどうかと思った。しかし多田はそれを望んでいる。ならばどうぞ、ではないか。私も、無駄であっても、そして実際にほぼ無駄に終わったのではあるが、それでよいと思う。ただ、よいと言った上で、それまで十分にいろいろなことができてしまってきた人に、そこはそうがんばらなくてよいのではないかと言うことはできるだろうと思った。
それより何に感心したかといえば、そのテレビ番組にその場面があるのだが、彼がウイスキーにとろみ剤でとろみをつけて飲んでいるその姿にだった。その時のことは番組を作ったNHKのプロデューサーが著書に書いている。多田も「受け」を考え取材に応じ、この場面が撮られるからと妻に懸命に交渉し、いつもは高くて飲めないバランタインの三〇年ものを獲得したのだと言う(上田[2010:143-146])。
私たちの「生存学創生拠点」(いまは「生存学研究センター」と言っている)がかつて、二〇〇七年に文部科学省のCOE(卓越した(研究)拠点!)に応募した時、多田にその代表者になってもらおうという話があったことは立岩[201007]に書いた。それは一つに多田がもうしぶんなく立派で著名な学者であったからだが(後に立派で著名でなくともよいということがわかり、内部調達ということになって私が代表になった)、もう一つは、とろっとしたウィスキーを飲んでいるのがよかった、みなに評判がよかったからだった。
こうして多田の書いたものを読んでいくと、私たちは身体をなおしたり、別の手段を使ったり、何もしなかったりすることをどのように配置し、誰からどんな力を借り、どんな金をどのように使って生きていくかについて示唆を得ることができる。
その「リアル」を読んでいくと、その多田が過去に書いてきた生死・死生についての文章はどう見えるか。多田は、倒れる前から、生死・死生についていろいろと語ったり書いたりしている。△299 私は二〇一〇年の原稿を書く時に多田の山折哲雄や柳沢桂子との対談の本などを読んだ。多田は博識であって、専門分野に近いところでは「アポトーシス」の話などされると、なるほどそういうことかと思う。また、能に詳しく自らも作品を作ってしまう多田は、古いギリシアの詩の翻訳などをしてしまう中井久夫などとともに、もう私たちは絶対無理、な感じのする正しい文化人でもあって、その方面でも様々に書いていて、やはり感心することがある。ただまず、細胞はその死に向かうようにできているといった話があって、そしてそれは本当であるとして、その事実、その知が私たちが死ぬまで生きていることに何かをもたらすと思うのはなにか倒錯したことではないかと――これは多田のものを読んだ時に限らず思うことなのだが――思った。そして、結局、それらは、わりあい普通に考えつきそうなこと、考えつき言われてきたことを言っていると私は思った。人間は話す存在だから人である、から話そうとするのだと、人は歩行する存在である、から歩行しようとするのだといった類の話も、多田はわりあいたくさん書いている。「である」は普通は「べき」を導出しないのだが、自然科学的な「真理」がときにそのように使われてしまうことがあって、そのことには注意した方がよかろうとも思った――この話は立岩[201007]でもう少し長くしている。そして、このこととは別に、そして多田の教養と関係なく、普通の話だなと思った。
ただその意外に普通な感じは、本人が倒れてから少し変わっていったようにも思う。教養ある立派な人であるから、あるいはそのことと関係なく、淡白で潔くもあったのが、生に執着するよ△300 うになったように思う。われながらそうだと多田自身が書いてもいる。
そのこと自体はよくもわるくもないことだ。ただ、どちらを実際のこととして信用するかとなると、私は半身不随がどういうことであるか、痰のつまりがどういうことであるか、それを書いていく多田を信用する。」
■文献
◇Coleridge, Peter 1993 Disablity, Liberation and Development, Oxfam GB.=1999 中西由起子訳『アジア・アフリカの障害者とエンパワメント』、明石書店
◇ヒューマンケア協会地域福祉計画策定委員会 1994 『ニード中心の社会政策――自立生活センターが提唱する福祉の構造改革』、ヒューマンケア協会
◆石牟礼道子・多田富雄 200806 『言魂』、藤原書店
◆高齢者リハビリテーション研究会 200401 『高齢者リハビリテーションのあるべき方向――高齢者リハビリテーション研究会報告書平成16年1月』,社会保険研究所
◇向井承子 2008 「超高齢社会と死の誘惑」、『現代思想』36-2(2008-2):101-109(特集:医療崩壊――生命をめぐるエコノミー)
◆大川弥生 200404 「高齢者リハビリテーション研究会報告を読む」、『週刊医学界新聞』2581 ※
◇リハビリ診療報酬改定を考える会 2006 「声明文」(二〇〇六年六月三〇日)→多田[200712:69,21]
◆杉野 昭博 20070620 『障害学――理論形成と射程』,東京大学出版会,294p. ISBN-10: 4130511270 ISBN-13: 978-4130511278 3990 [amazon]/[kinokuniya] ※ ds r02
◇多田富雄 199512 『生命へのまなざし――多田富雄対談集』、青土社
◇―――― 199702 『生命の意味論』、新潮社
◇―――― 199909 『独酌余滴』、朝日新聞社
◆―――― 200604 「「リハビリ中止は死の宣告」」、『朝日新聞』2006-4-8→多田[200712:43-46]、多田[200707:127-129]
◆―――― 20061101 「患者から見たリハビリテーション医学の理念」、『現代思想』34-14(2006-11)(特集:リハビリテーション)→多田[200712:●]、多田[200707:●]
◇―――― 200611b 「老人が生き延びる覚悟――往復書簡・第三信」、『環』27→石牟礼・多田[200806:42-58]
◇―――― 200612 「リハビリ制限は、平和な社会の否定である」、『世界』2006-12→多田[2007:111-124]
◆―――― 200704 「ユタの目と第三の目――往復書簡・第五信」、『環』29→石牟礼・多田[2008:95-114]
◆―――― 200707 『寡黙なる巨人』、集英社
◆―――― 200712 『わたしのリハビリ闘争――最弱者の生存権は守られたか』、青土社
◇―――― 200803 「死に至る病の諸相」、『現代思想』36-3(2008-3):40-47(特集:患者学――生存の技法)→多田[201005:140-156]
◇―――― 200909 「疑念を招く李下の冠――冠落葉隻語・15」,『読売新聞』2009-3-3夕刊→多田[201005:63-66]
◆―――― 201005 『落葉隻語 ことばのかたみ』、青土社
◆―――― 201605 『多田富雄のコスモロジー――科学と詩学の統合をめざして』、藤原書店
◆―――― 201708 『多田富雄コレクション3 人間の復権――リハビリと医療」,藤原書店(本書,編集:藤原書店編集部)
◆多田富雄・鶴見和子 200306 『邂逅』、藤原書店
◆立岩真也 200510- 連載,『現代思想』33-11(2005-10):8-19〜
◆―――― 201007 「留保し引き継ぐ――多田富雄の二〇〇六年から」,『現代思想』38-9(2010-7):196-212→立岩編[2017]
◆立岩真也編 201707 『多田富雄/上田敏――リハビリテーションを巡って』,Kyoto Books
◆鶴見和子 199805 『脳卒中で倒れてから――よく生き よく死ぬために』、婦人生活社
◆―――― 200106 『歌集 回生』、藤原書店
◆―――― 200608 「老人リハビリの意味」、『環』26→[2007:169-171]
◆―――― 200701 『遺言―――斃れてのち元まる』、藤原書店
◆鶴見和子・大川 弥生・上田敏 199805 『回生を生きる――本当のリハビリテーションに出会って』,三輪書店
◆―――― 200708 『回生を生きる――本当のリハビリテーションに出会って 増補版』,三輪書店
◆鶴見和子・上田敏 200307 『患者学のすすめ――“内発的”リハビリテーション 鶴見和子・対話まんだら 上田敏の巻』、藤原書店
◆―――― 201601 『患者学のすすめ〈新版〉――“人間らしく生きる権利”を回復する新しいリハビリテーション』、藤原書店
◆上田 真理子 201007 『脳梗塞からの再生=\―免疫学者・多田富雄の闘い』,文藝春秋
◇上田敏 1987 『リハビリテーションの思想――人間復権の医療を求めて』、医学書院