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でも、社会学をしている

立岩 真也 2018/04/20

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2018/04/20 若林 幹夫・立岩 真也・佐藤 俊樹 編『社会が現れるとき』,東京大学出版会,384p.

若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき』表紙

■目次

 1 それでも社会学をしていると思う1
 2 そう思う2――社会の分かれ目について
 3 社会的、はパスした
 4 もっとよくできた話も結局パスした
 5 代わりに
 6 ポスト、もパスした
 7 戻って、素朴唯物論は使えるかもしれない
 文献

■紹介

 ・ツィッター

◆2018/04/12 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/984596694112264192
 「arsvi.com/b2010/1804wm.htm でも紹介始めました。まず若林幹夫さんの「はじめに」を掲載。若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき 』。佐藤俊樹さんの「解題にかえて」もそのうち、と。ただここは買ってもらって読んでもらうのがよいかも。私が書いたのは「でも、社会学をしている」。」
 ▽東京大学出版会@UT_Press
 「【まもなく刊行】若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹編『社会が現れるとき 』社会の現れはどのように経験され,思考され,人びとの行為や関係と結びついてゆくのか.社会学的な問いは,多様な研究対象や分析方法へとひろがる.研究の最前線を示す新しい社会学論集. 詳細目次掲載.https://buff.ly/2DFijXe

◆2018/04/20 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/987479169436024832
 「『社会が現れる時』(東京大学出版会)販売促進のために「でも、社会学をしている」(立岩真也、2018)ところどころ載せていくことにしました。→http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm

◆2018/04/22 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/988227038438801409
 「「多くの社会学者は、屈折した、斜に構えた人であるかもしれない。実際にそうであるかはともかく、自分のことをそう思っているのかもしれない。ただそういう人も、しばらく長く生きていると、いろいろと腹の立つこともあり、なにか感じ入ることもあり、なにかを言いたくなる」http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm

◆2018/04/23 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/988581492757483520
 「「年をとってから「ケアが大切だ」みたいなことを人はしばしば言い、それはそれで間違いではないとしても、もうすこし前もっていろいろと考えてあって、それで言った方がよいだろうといったことである。」http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm cf.「遠離・遭遇」→http://www.arsvi.com/ts/2000b1.htm

◆2018/04/24 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/988944889244147712
 「「二つめ。社会がいくつかの領域に分かれている、その諸領域の編成・境界設定がどうなっているのか(またどうあるべきか)という捉え方をし描き方をすること。…一つめの主題の後にやってきた。…その本〔『生の技法』〕になった調査をしているときにそのことを思った」http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm
 ▽リブロ@libro_jp
 「【新刊】『社会が現れるとき』若林幹夫・立岩真也・佐藤俊樹[編](東京大学出版会) https://www.honyaclub.com/shop/g/g19180437/
研究の最前線を示す新しい社会学論集。編者の他、西野淑美、中村牧子、五十嵐泰正、砂原庸介、太田省一、相馬直子、遠藤知巳、鶴見太郎、中村秀之。」

◆2018/04/25 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/989330904047747072
 「『社会が現れる時』(若林幹夫・佐藤俊樹・立岩編、東京大学出版会)の目次→http://www.arsvi.com/b2010/1804wm.htm 「でも、社会学をしている」は私(立岩真也)が担当した章。その紹介(の紹介)→http://www.arsvi.com/ts/20182494.htm
 ▽tu-ta@duruta
 「立岩さん 執筆分担が聞きたいです。」

◆2018/04/27 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/990115412665761792
 「「西部遭は経済学の授業ももっていて板書している途中で数式がわからなくなったり学生の私語に怒って教室を出て行ったりという可愛いやんちゃな人でもあったが、パーソンズのことを口にしていた。『ソシオ・エコノミックス』…左翼をいくらかやり、近代経済学に移ったが…」http://www.arsvi.com/ts/20170024.htm

 ・フェイスブック

◇2018/04/22 「『社会が現れるとき』で「でも、社会学をしている」――「身体の現代」計画補足・494」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/2048938762039767

■引用 ※いくつかの部分をここに掲載していくつもりです。

 「1 それでも社会学をしていると思う1
 
 私はこれから社会学について書くことがあるだろうか。またできるだろうか。長く社会学者が書いたものを勉強していないから、その意味では書けないように思える。山本泰先生がその最終講義で、普通の社会学(者)についての講義をきちんと学生にしてきたことがよくわかって、立派だと思った。そのようなことは私にはできない。
 ただそれでも私は社会学をしていると思っているし、肩書のところには社会学者と書いてもらうし、これからもそのように言おうと思う。それは一つに、社会学に定義がないからだ。例えば(近代)経済学者にはある範囲の知識があり手法を使うことが必ず求められることになっているのと違って、何が社会学であるかは不明であり、それで何をしても自由だということであった。社会学者だと名乗ったところで何も言ったことにならないが、だからこそよいというのである。ただもう一つある。私は本当に社会学をしていると思っている。そしてそれを二つに分けることもできる。
 一つめ。社会学は、近代社会がどんなものであるかを捉えようとする。そのまったく古典的な把握は、属性の社会から業績・能力の社会へというものだ。今さらそんなことは、学部向けの講義の初回ぐらいで簡単にふれてもあとはそのままということになっているのだろうが、それでも業績原理・能力主義はこの社会の最初にあって、おおまかには現在のものでもある。それについてとやかく言うのはまったく流行りではなかった。けれども私はそれが気になって、そのことについて考えて、ずっと書いてきた。[…]」(201804)
 
 「[…]そして私は、それを「規範論的」に考えてきた。よしあしの問題としてそれを考えてきたということだ。そのような道を行くのと行かないのと、どちらでもよいと思う。ただ社会学がその道を行ってならないというきまりはない。そして私の好みがそうだった。多くの社会学者は、屈折した、斜に構えた人であるかもしれない。実際にそうであるかはともかく、自分のことをそう思っているのかもしれない。ただそういう人も、しばらく長く生きていると、いろいろと腹の立つこともあり、なにか感じ入ることもあり、なにかを言いたくなる。そしてすこし偉くなると意見を求められたりする機会が増える。そうして「べき」を語る人たちの割合が多くなる。それも自由ではある。ただ、どうせ語るならば最初から種々考えて自分の立場を吟味しておいた方がよかろうとは思う。年をとってから「ケアが大切だ」みたいなことを人はしばしば言い、それはそれで間違いではないとしても、もうすこし前もっていろいろと考えてあって、それで言った方がよいだろうといったことである。
 そんな先々のことを最初から思っていたわけではないが、ともかく私には最初からそういう志向はあった。山本先生――ここまで敬称あり、以下略――からいつどんな文脈であったかは記憶にないが、あなたには倫理的な嗜好(という言葉ではなかったと思うが)があるようだね、橋爪(大三郎)さんもそういうところがあるけど、といったことを言われたことがある。」(20180423)
 […]

 「2 そう思う2――社会の分かれ目について

 二つめ。社会がいくつかの領域に分かれている、その諸領域の編成・境界設定がどうなっているのか(またどうあるべきか)という捉え方をし描き方をすること。これは私にとっては、一つめの主題の後にやってきた。一九九〇年に最初の共著の本『生の技法』を出してもらったのだが、その本になった調査をしているときにそのことを思った。学部の授業のその話の始まりなどでは、学生にわかってもらいやすいと思うから、その本に書いた話から始めることがあった。つまり、介助も必要でそれ以外にも暮らしていくためのものが必要な人たちがいる。その人たちは市場で自分の労働を売って必要なものをまかなうことができない。そうした人たちは、家族によって扶養・扶助されることになっていたし今でもおおむねそうなのだが、その家族を頼れない人頼りたくない人がいる。とくに頼れない人について、政府・政治が面倒を見るということになるのだが、そのために用意される施設がいやだという人がいる。そうして家や施設から脱走した人たちのことを私たちは調査したのだが、その人たちは当初、(介助については)ボランティアを頼った、しかし…という具合に話が続く。つまり市場、政治、家族、自発性の領域と社会は仕切られている。その仕切られ具合を見て、そのあり方を考えようというのだ。」(20180423)

 「私はそのように見ていくのもまた社会学の伝統に連なる道だと思う。政治学や法学は政治を対象にし、経済学は(主に市場)経済を対象にする。それはそれでけっこうなのだが、おもしろいのはそれらの間の境界、関係であり、社会学はそれを相手にすることができる。ただ四つという数が似ているというだけでないパーソンズの体系にもそんなところがあるだろう。ここでも一つ挿話。入学(一九七九年)したての一時、私はどんな性格のものであったのか記憶の定かでないゼミのようなものに出ていて、西部遭のグループ?にいてその話を聞いたことがある。彼は経済学の授業ももっていて板書している途中で数式がわからなくなったり学生の私語に怒って教室を出て行ったりという可愛いやんちゃな人でもあったが、パーソンズのことを口にしていた。『ソシオ・エコノミックス』(西部 1975)は一九七五年の出版。左翼をいくらかやり、近代経済学に移ったがそれにも馴染めなかった人が行く先としてそれはあっただろう。その後のことはよく知らぬこともあるゆえ略。その時にはそうおもしろいとは思わなかったパーソンズについても略。またやはり四の数になっているルーマンのメディア論と呼ばれるものも[…]」(20180426)
 ※西部は2018年の1月に自殺したそうだ。


■文献

◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
◆―――― 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』,藤原書店
◆―――― 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院
◆福岡安則 1979 「マルクス的諸範疇の再定位」,『ソシオロゴス』3
◆舩橋晴俊 1977 「組織の存立構造論」、『思想』1977-8
◆―――― 2010 『組織の存立構造論と両義性論――社会学理論の重層的探究』,東信堂
◆橋爪大三郎 2010 『労働者の味方マルクス――歴史に最も影響を与えた男マルクス』,現代書館
◆Macpherson, C.B. 1962 The Political Theory of Possesive Individualism, Oxford Univ. Press=1980 藤野渉・将積茂・瀬沼長一郎訳,『所有的個人主義の政治理論』,合同出版
真木 悠介 1977 『現代社会の存立構造』,筑摩書房
◆Morishima, Michio, 1973, Marx's Economics: A Dual Theory of Value and Growth,Cambridge University Press. =1974 高須賀義博訳,『マルクスの経済学――価値と成長の二重の理論』,東洋経済新報社
◆西部遭 1975 『ソシオ・エコノミックス――集団の経済行動』,中央公論新社
◆盛山 和夫・土場 学・野宮 大志郎・織田 輝哉 編 2005 『〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法(上)――理論知の現在』,勁草書房,201p. ISBN: 4326601884 3675 [amazon][kinokuniya] ※, pp.155-174
◆立岩真也 1992 「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」,『社会学評論』42-2:30-44
◆―――― 1994 「妻の家事労働に夫はいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」,『人文研究』23:63-121(千葉大学文学部)→立岩・村上[●]
◆―――― 1997 『私的所有論』,勁草書房
◇―――― 2000 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社
◆―――― 2000 「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」,『理論と方法』27号(日本数理社会学会,特集:変貌する社会学理論)(→立岩[])
◆―――― 2003 「家族・性・資本――素描」,『思想』955(2003-11):196-215→立岩・村上[2011]
◆―――― 2004a 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店
◆―――― 2004/12/31 「社会的――言葉の誤用について」,『社会学評論』55-3(219):331-347→立岩[]
◆―――― 2005/08/25 「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」,盛山他編[2005:155-174]
◆―――― 2006 『希望について』,青土社
◇―――― 2007-2017 「もらったものについて・1〜●」,『そよ風のように街に出よう』75〜●
◆―――― 2012-2013 「制度と人間のこと・1〜9――連載・78〜84、86〜87」,『現代思想』40-6(2012-5):42-53〜41-3(2013-3):8-19
◆―――― 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院
◆―――― 2013b 「素朴唯物論を支持する――連載・85」,『現代思想』41-1(2013-1):14-26
◆―――― 2016 On Private Property, English VersionKyoto Books
◆立岩 真也・堀田 義太郎 2012/06/10 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社
◆立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 2009/09/10 『税を直す』,青土社
◆立岩 真也・村上 潔 2011 『家族性分業論前哨』,生活書院
◆立岩 真也・齊藤 拓 2010 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』,青土社
◆上野 千鶴子 1990 『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』,岩波書店→2009 岩波現代文庫
◆山本 泰  1977 「共存在様式としてのコミュニケーション」,『思想』635:663-705
◆―――― 1979 『規範の核心としての言語』,『ソシオロゴス』3:663-705
◆吉田民人 1991 『主体性と所有構造の理論』,東京大学出版会

■言及・紹介

◆立岩 真也 2018/02/01 「社会科学する(←星加良司『障害とは何か』の3)――連載・142」,『現代思想』46-(2018-02):-

 「★02 なされてきたのが結局のところざっぱな話であったのに対して、私が社会学に意義があると考えるのは、一つにはできる/できないと社会との関わりを考えること(荻上・立岩・岸[2018]における私の発言)であり、もう一つは、社会にある所領域についてその境界について検討することのできる場に(例えば政治の内部にいる政治学、等より)社会学はいるし、実際、幾つかの社会学的営為はそうしたものとしてなされてきたということである。これらのことを、簡単にではあるが[201802]で述べている。」




UP:20170225 REV:20180102, 0324, 0421, 23, 24
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