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もらったものについて・17

立岩 真也 2017/09/05
『そよ風のように街に出よう』91:60-67
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■訃報

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ゆめ風基金創設者の一人、河野秀忠副代表 かねてより病気療養中のところ、本日午前12時40分、永眠いたしました。 享年74歳。
昨年6月末より14ヶ月に及ぶ闘病の末、私たちの願いもむなしく帰らぬ人となりました。
ここに生前のご厚誼に深謝し謹んでご通知申し上げます。

通夜ならびに告別式は 次のとおり執り行われます。

通夜  9月9日(土)午後6時〜
告別式 9月11日(月)午後0時30分〜

会場:シティホール箕面 https://www.bellco.co.jp/hall/search/sosai_view?sosai_id=642#access
大阪府箕面市西小路2-8-26 電話  072-725-4242
喪主 河野真介氏(ご子息)
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立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』表紙   『造反有理――精神医療現代史へ』表紙   『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙  
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

最終回
 これで十七回、長々と書かせていただいた。本誌終刊にともない、これで終わりということになる。最初、本誌編集部・小林敏昭さん(以下文中の敬称すべて略)から「障害者運動の抵抗の根拠のようなものを原理的かつ分かりやすく」ということだったが、そんなことにはけっしてならず、まったくとりとめのないことを書かせてもらった。連載の依頼でもなんでもなかったのだが、第七五号(二〇〇七年十一月)に書いた原稿が結果としては第一回ということになり、以来十年ほど書かせていただいたことになる。
 とくに連載?後半は広告に終始した――それでも、広告は大切だと思っている。前半は個人的な昔話のようなことをいくらか書かせてもらった。整理できたら本にするかもしれないが、そんなものを読んでもよいという人がどれだけいるかということもある。まずは、これまでの分をすべてこちらのHPに載せてある――「立岩真也 もらったもの」で検索してください。さて今回は、そんなに古くない昔のことを調べたり集めたり書いたりすることについて。

『相模原障害者殺傷事件』
 この連載の前回はいつだっただろう、つまり本誌の最終号の一つ前の発行はいつだっただろうとみたら、昨年一二月五日。そしてその回の原稿を、相模原での事件が起こって二月が経った九月二六日、国会議員会館で集会がありその後行進があったその時に書いていて、その後書き終えて送ったようだ。その時には事件を特集した『現代思想』の十月号が出て、その紹介をしている。そして私は、この号と、その前の九月号と後の十一月号に原稿を書いた。そしてその特集号に載っている杉田俊介さんの原稿と、そして杉田さんとの対談を収録した本『相模原障害者殺傷事件』をこの一月に出してもらった(初売りは二〇一六年十二月のJILの集会だったが)。その全体の紹介、いくつかの書評などはHPのほうにあるから、ご覧くださいなのだが、私の原稿を集めた第一部の第二章が、事件を特集した『現代思想』十月号掲載の原稿をもとにした「障害者殺しと抵抗の系譜」。
 そこで私は、一つ、重症心身障害児施設(いわゆる重心)島田療育園(現在は島田療育センター)への公的支援の拡大を求めた公開書簡「拝啓池田総理大臣殿」(一九六三年)によって知られている作家水上勉が同じ六三年、ベルギーでサリドマイドを服用した親から生まれたいわゆるサリドマイド児を親が殺した事件をきっかけに企画された座談会で、障害児が生まれたらその生死を決める政府の委員会を作ったらよいといったことを語っていることを紹介した。前者は社会福祉業界(学界)では知られているが、後者はそうでない。後者は知って楽しいことではないが、しかし前者と一緒に――この「一緒に」、というところが重要だ――あらゆる人が、とは言わないが、知っておいた方がよい。だからそのことについて、簡単にだが、書いた。それ以前に、業界の人は知っているはずの「拝啓」にしても全部を読んだ人は多くはそうはいないはずだから、二〇一五年に『与えられる生死:△060 1960年代――『しののめ』安楽死特集/重症心身障害児/あざらしっ子/「拝啓池田総理大臣殿」他』という資料集を「電子書籍」として(誰でもHP上で読めるファイルとして)作って売っている。  もう亡くなった優れた作家を非難しようというのではない。殺すことと救うことの間の距離はときにそんなに遠くはない。その遠くなさ、近さは何通りかあり、だからそれに対しても言うべきことは何通りかある。そのことについては本の第一部・第三章「道筋を何度も作ること」に書いたのだが、実際にこの人がこういう場にいてこんなことも言っている(まずそれを知っておこう)というような示し方でその近さがわかることもある。
 すべての人が知る必要はないのだろう。ただ仲間にそして社会に何かを伝え、社会を変えていこうという人たちがたくさんいる。まずその人たちには知ってほしいと思った。この事件に関わる催しはさきの国会議員会館での集まりの後もたくさんあった。。私が話をしに行ったものでは、二〇一六年末の福岡でのJIL(全国自立生活センター協議会)の集まり、年末から年を越して大阪で三度、そして六月三日は、京都で開催されたDPI日本会議の集会。こういう場というのがいったいどういう場であるのか、あればよいのかと思う。たいしたことを思いつかないが、一つには、そこがものを伝えたりものを言う立場にいる人たちの集まりであるなら、やはり知ってほしいと思って話すし、今度の本を大量に運びこんで会場で販売する。これからも呼ばれればどこでも行く。

島田療育園での脱走事件
 「拝啓」と座談会の約二〇年後(八二年一月)、その水上が公的な支援を訴えた島田療育園で、そこにいた斉藤秀子という人の「脱走事件」が起こった。とくに重症心身障害児施設の初期には、知的と身体の重度障害の重複する子どもが重症心身障害児という定義とは異なった人たちがかなりいた。斉藤は脳性まひの人で、発話に障害はあったが、作文を園の文章に載せたりしていた。サリドマイド児がかなりの数暮らしていたこともある。そしてかつて子どもだった人も、成人しても他に行くところもなく、施設にとどまっていた。斉藤は当時三二歳だった。その「脱走」を支援した施設職員は懲戒解雇された。その撤回を求めて裁判が闘われた。その中で施設側は、斉藤には知的な判断能力がないから施設を出る出ないの決定を本人がなすことはできない、勝手に職員たちが連れ出したのだといったことを主張した。島田療育園に連れ戻された斉藤には面会もままならないことになった。それに抗議した人たちがいた。本間康二(『月刊障害者問題』)、三井絹子(府中療育センター→かたつむりの家)らが八二年十二月、施設の前で泊まりこみ、呼びかけた。そこまでのことは、『季刊福祉労働』(現代書館)と荘田智彦『同行者たち』(現代書館、八三年)に書かれているから、ある程度のことはわかる。そして尾上浩二からもらった資料の中にそのときの抗議書、ビラが見つかった。そしてそこらあたりまでのことは今回の『相模原障害者殺傷事件』の第一部第二章に書いた。なぜ書いたか。これもおわかりと思う。それは、作ることを求められ、存在することがよいことであると賞賛された施設でのできごとだった。そして施設を出ること、どこで生活するか、それをどう考えるかどうするかに関わっている。家族、本人や、本人の意志をどう扱うかに関わっている。
 相模原での事件の後、障害者の親の会の人たちが、事件について発言をし、発言を求められ応えた。それが真剣なものであったことを疑わない。ただ、その名はこのごろよく口にされるようになった青い芝の会が七〇年に談判し批判したその相手は、そうした組織の人たちであった。そのこともまた『相模原』の同じ章で紹介した。そのことはどう考えるのか。すぐにどちらがどうだと、どちらを敵に回せと言いた△061 いのではないが、あったことは知っておいた方がよいと思って書いた。
 そう、すぐにどちらかを選べとか言いたいのではない。ただ、私たちには、「どちらの気持ちもわかる」といったことを言う以外に何か言えることはないのだろうか。ある、と私は思う。そう思うことと、その事件はいったい何だったのだろうと思うこととはつながっている。しかしその島田療育園(療育センター)について近年になって出版された書籍も、創始者小林提樹――さきに紹介した水上勉らの座談会にも出ていて、殺すことには反対であることを(出生前診断→選択的中絶には賛成するのだが)述べている――礼賛するものである。礼賛した書籍が出るのはかまわない。きっとよいことでもあるだろう。しかし、それだけのことがあったわけではないということだ。
 裁判が始まったことまでは書かれたもので知ることができる。だがその後どうなったのか。気にはなっていた。そしてこのごろようやく、すこし、人に会って話を聞くことができるような気持ちになれて、いくらか研究費もとれて、この原稿を書いている三日前、六月二二日、東京都多摩市で、私は、解雇され裁判の原告になった石田圭二――解雇されたのは四人だったが裁判に残ったのは石田だけだった――に話をうかがった。語りにくいこともあるだろうと思ったが、ずいぶん長く、詳しく話してくださった。何がわかったかは、どこかに、例えば月刊の雑誌『現代思想』(青土社)でさせてもらっている連載に書くことになると思う。

高野岳志
 施設を出ることについてもう一つ。高野岳志という人がいた。一九五七年に生まれて、六七年千葉県の国立療養所下志津病院に入院(入所)、八一年に「自立」、一九八四年、二七歳で亡くなった。筋ジストロフィー人だった。その人に関わることを、さきの『現代思想』での連載の五月号と六月号に書いた。
 私はこの人他幾人かを八五年から始まった調査・資料探しの過程で知った。そしてその人たちの書いたものはその調査の成果ということになる九〇年の『生の技法』(今は二〇一二年の第三版、生活書院刊)に文献としてもあがっている。私は六〇年の生まれだから高野が三つ上、そして亡くなったのは私が大学(学部)を出た翌年ということになる。そして、そんなに生年の違わない私はその後も生きていて、今はその人より三〇年より長くを生きているということになる。ただ八〇年代、その人たちが私とそう年の変わらない人だという実感はなかったように思う。私はただ前を行っている人を追いかけていたという感じだった。けれどその急がなければならなかったその人たちは若く、その時期を生きて、そして亡くなった。
 そして『そよ風』に高野に関係する記事が三つある。そんなことをなんで知っているのか。それらの記事に当たるに際して本誌を最初から通して読んでいったわけではない。八〇年代後半『生の技法』のためのメモをとっていたことがあって、それは「ワープロ」のファイルに記録してあったのだが、それをPCに保存し、そして今のサイトのもとになったサイトに載せて、そしてなにかの機会に人別のファイル=ページに小分けにしたりもした。高野についても、そういう頁があって、そこに「『そよ風』9:38-43, 20:39-40, 22:35」というメモがあって、それで現物にあたって読み直したのだ。読み直したというより、まったく忘れていたから、ほとんど新たに読んだ。一つめは九号、高野が「自立」を始めたちょうどその頃に小林が取材して書いた記事(八一年)。二つめは『そよ風』二〇号記念に高野が寄せた短い文章で、高野を支援してきた人と別れて活動をしていることなどが書かれている(八四年)。三つ目は二二号に、小林が追悼の集まりに出て書いた文章だ(八五年)。
 高野の人生は短く、これらの文章があって始めてわかる部分がある。私のようにいろいろなところで書かせてもらえる人、書くことが仕事になっている人、そしてまだ生きている人なら書けるけれども、そうでない人はたくさんいる。本誌はいろんな人たちのところに出向いて取材して、記事を書いて載せてきた。△062
 なぜ高野のことを今さら書いているのか。いくつかあるが、高野は国立療養所下志津病院を出ようとした時、父親に強く反対され、父から(やがて別れる)支援者を告訴すると言われた。その理由は、島田を出ようとした斉藤と似ている。「そそのかされている」、支援者(たち)の主張実現のために「利用されている」、というのである。他にも理由が言われる。その各々をどう考えるかということもあるのだが、一つ、素朴な疑問として、そもそも成人の高野が病院(療養所)を出るのに親の許可がいるのだろうかと思う。そこはどうなっているのか。これは、書かれそして残されているものを読んでもよくわからない。ただその後にも、家族に阻まれるということがしばしばあった。今もある。どうなっているのだろう。その家族同意であるとか本人の意向とか言ったことを、施設・病院は、また出ようとする人やそれを支援する側はどのように意識してきたか、あるいは意識してこなかったのか。高野に即してはわからないとしても、調べることはできるし、それはではこれからどうするかにも関わるだろう。

福嶋あき江
 『生の技法』が出たのが一九九〇年。その第七章は、長くはあるのだがしかし本来書くべきことなかのわずかしか書いていない。本は増補版(第二版)が一九九五年に出て、そして第三版(文庫版)が二〇一二年に生活書院から出ている。新しく書いた章にその後のことは加えたが、第七章自体はそのままだ。あの本全体もその第七章もかなり長いのだが、それでも書けたことはまったく最低限のことだった。それでももったいないとは思っていて、誰か調べる人が出てきたくれたらと思って、かなり細かなことに触れたり関連する文献をあげた注をたくさんつけたりはしている。
 その後、実際いくらかの仕事は現れた。山下幸子が『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(二〇〇八)を、定藤邦子が『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(生活書院、二〇一一)を書いた。深田耕一郎が『『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』(二〇一三)を、堀智久が『障害学のアイデンティティ――日本における障害者運動の歴史から』(二〇一四)を書いた(以上いずれも生活書院)。そしてそれ以前の田中耕一郎の 『障害者運動と価値形成』(現代書館、二〇〇五)、また廣野俊輔らの論文たち、他がある。こうして研究・記述は進んだには進んだ。しかし、多くの部分が、本(の初版)出てから二七年経ったのだが、そのままになっている。そこで仕方なくま△063 た調べ出しているという事情もある。
 例えば、高野岳志の協力者でありそして別れることになった加藤裕二――その後千葉市で活発な活動を続けている――にもインタビューさせていただくというのもありかもしれない。ただ別れ話をうかがうというのもどうかと思い、それはそのままになっている――そんなふうに、人は人に会う機会を逸するのだが。
 同時期、高野岳志と同じ一九五七年に生まれ、同じ六六年に同じ病院(療養所)に入院(入所)し、そして高野が下志津を出た二年後、八三年にそこを出て、埼玉県浦和市(現さいたま市)で暮らし、そして八七年、高野より約三年長く生きて、二九歳で亡くなったやはり筋ジストロフィーの人に福嶋あき江がいる(やはり『生の技法』に文献はあげている)。その人と関わりのあった佐藤一成が、福嶋が始めた「虹の会」で活動を続けて、福嶋のことを書いた文章をブログに載せている(再掲している)のを見つけた。福嶋についても本人が書いた幾つかの文章があり、亡くなった後に出版された本はあるのだが、そこには療養所を出た後のことはなぜだかほとんど書かれていない。佐藤の文章はその事情にも触れている。そしてそこには福嶋に関わった人たちが作った文集があると書いてあった。虹の会の初期からの機関紙もあるようだった。それで連絡をとってみた。文集の所在は不明、機関紙の初期のものは直接来てくれればということだった。それで、島田療育園(と多摩)のことを石田圭二他に聞いたその翌日、六月二三日、虹の会の事務所――埼玉大学のまん前にあった――にうかがい佐藤から話を聞いた。そして機関紙の初期の分を、コピーをとった上で確実に返すからということでお願いして、お借りした。〔→佐藤一成さんに聞く
 ここでもいくつかわかることがあった。福嶋のことについて『現代思想』連載の七月号でもう一回書いている(六月十三日に原稿を送った)のだが、佐藤の話や機関紙から得たことを足して、もう一回八月号に書くことになる。どのようにつながっているかきっとわからないだろうその「連載」(のここ約二年分)をなんでやっているかについてはやがて本になるその本で書くことにする。わりあい大きな話になると思っている。ただ、(原稿をあげようとしている今日、六月二五日の)一昨日感じたこともあった。福嶋は米国に行ってそこの自立生活センターを見学したり、自分でも介助者を雇ってみたりしている。それで日本に戻ってきて、「自立」し、虹の会ができる。ただなかなかうまくはいかない。福島を含め二人分に対する専従の介助者に月一〇万円払うのに福嶋が四万円(生活保護・他人介護加算)、もう一人が四万円。残りの二万円をバザーで稼ごうとするのだがなかなか、といった具合だ。そして残りの時間は学生ボランティアで、となる。学生はそのうちいなくなるし、気も使う。それはもちろんなかなかたいへんなことだ。ではそれは、「制度」がまだだったからしんどかった、という、たんにそういう話なのだろうか。その通り、そういう話だと私は言い切るほうの側の者だ。ただそのうえでも、いくつかあると思った。
 例えば、その初期の機関紙――「ガリ版」の表裏一枚とか二枚のものだ――を見ると「ケア付住宅」が出てくる。バザーで年に二十万とかの収入でなんとかやっているという団体でそれは普通に無理だろうと思うし、そんなことは本人たちもわかっている。ただ、この時期たしかにケア付住宅は志向され、いくつかは実現してもいる。一番有名なのは仙台の「あのまま舎」が設立したものだろう。そのためにまったく多くの力が使われた。山田富也らの立派な営みであった。しかし同じ偉大な力を投じるのであれば別の道もあったのでは、と以前から思うところがあった。東京には東京青い芝の会の運動によって「八王子自立ホーム」が建てられた。また『夜バナ』で有名になった鹿野靖明(一九五九〜二〇〇二)は「札幌いちご会」のケア付住宅設立運動に関わり、そこに入居し、しかしそこから出た人でも△064 ある――『夜バナ』を読む人はこういうこともわかって読むともっとおもしろい。(ちなみにこの鹿野の文献も『生の技法』に出てくる。そしてやはり私はこの人が私より一つだけ年上の人であることがぴんときていなかった。)そんな時期がしばらくあったことも、今はそう多くの人が知っているわけでない。だがそうした動きはなくなったわけでもなく、「対象者」を替えて、つまり知的障害者について、「グループホーム」が――この事件の後も――肯定的に語られた。
 ケア付住宅は、またグループホームは、だめだとかだめでないとかすぐに言おうということではない。私はこの件は「絶対」よいとかよくないとか言えないことだと思っている。しかし絶対が言えないから、微妙なところが大切なのだ。そして微妙なところを言うためには、何が言われたのかが、そして実際にはどうだったのか、今どうなのかが大切だ。過去や現在を調べることの意味の大きな一つは、そんなところにある。これはあまり気づかれないかもしれないのだが、わりあい大切なことだと思っている。あらゆる場合にこうすべきであるとか、すべきでないとか、言えるのであれば「現実」の細かなところはそんなに気にする必要はない。だがそうは言い切れないとするなら、「境い目」あたりがどうなっているかをきちんと見ておいた方がよい。

記述すること/「べき」を言うこと
 そんなこんなで知った方がよいことがある。ずっとこのことを言い続けている私自身が、この歴史研究的な営みにそう完全に乗り切れているわけではない。過去に学べば必ずなにかが出てくるとも思えていない。むしろ、言いたいことは他人に語らせたりせず、自分が自分の責任において言えばよいと思うこともしばしばだ。つまらないこともうんざりすることもたくさん言われたし、あった。しかしその上で必要なことはある。それを言ってきたつもりだ。つまらないことのつまらなさを明らかにする、その意味があることもある。
 次に、必要なことと私がやる必要があるということとは異なる。私よりそういう仕事が得意な人が、いや誰でも、誰かがやってくれるなら私は別のことをしたいとも思う。だが、しかしなかなか現れないので、今のところやっている。ここしばらくの仕事では、『現代思想』の連載がそうだし、それ以前の、同じ雑誌での連載がもとになったものだと『造反有理』(青土社、二〇一三)、そして『精神病院体制の終わり』(青土社、二〇一五)がある。別の会社の雑誌の連載からでは、『自閉症連続体の時代』(みすず書房、二〇一四)という本がある。これらはみな半端な歴史の本だ。簡単に手にはいる文献だけを使って、手間をかけずに作ったものだ。きっと本格的な研究がそのうち現れる、そのために私がざっと調べた感じではこうです、あとはよろしく、より本格的なものはどうぞよろしくお願いします、というつもりのものだ。そして私には、起こったことはしかじかに見ることができると思うと述べる。参考になるなら参考にしてもらってさらに検証してもらってもよいし、反論してくれてもよい。
 そして歴史・現在をしかじかと見ることができるとすると、私たちはどこまでのことができるか、またしない方がよいかを言う。つまり、事実の記述と「べき論」とが併存している。
 どちらか片方でもかまわないとも言える。ただ両方でもよい。社会(科)学者全般が、ではないが、私は「べき」が気になる人であってきたし、そのために現在や過去、起こったこと言われたことが気になって調べてきたのでもある。そして実際には記述に徹することの方が難しい。むしろしばしば、現実に「仮託」して「言いたいこと」を言うということがある。ただその気持ちはわかるがこれはあまりよくないやり方だと、言いたいことがあるなら直截に言えばよいと私は考えている。「事実」と「規範」とをこんがらがらせないためにも、両方ともを調べ考えることを、その分け目には気をつけながら、やってもよいのだと思う。
 そして、さきにも述べたように、微妙な△065 ところが問題になることがあるから、二つとも必要なことがある。例えばさきに施設を出ることが「そそのかし」であるという非難がされたことを見た。その指摘は一〇〇%間違っているか。私はそうは思わない。次に「そそのかし」は一〇〇%悪いことか。私はそうも思わない。しかしもちろん、いつもよいことであるとも考えない。このように考えるなら、「そそのかし」と言われたことがどのようなことであったのかを知る必要も出てくる。そして調べてみると、たいてい、実際にはそれほど乱暴なことが言われ行なわれたわけでないこと、むしろそのように非難された人たちこそが最も微妙なところにいたことがわかる。そしてそこから言えることが出てくるのだ。
 そして「べき論」の対象である領域、主題、問いが、現実から見えてくることがある。そもそも現実とは、価値が絡まないという意味での事実が起こっている世界ではない。何がいいとか悪いとか人々が言い合い争っている世界だ。そこから問いを見いだし、答を言おうとする人たちの営みを知り、では自分はと考えるのである。
 私は一方で理屈ぽい話が必要だと思っていて、『私的所有論』という本(一九九七、現在は生活書院から第二版、二〇一三)はそんな仕事をした本だ。一番基本的なことはそこに書いた。ただそれで終わるわけではない。さらに『自由の平等』(岩波書店、二〇〇四)を書くことになった。さらに例えば、分けることがよいことであるとして、仕事を分けるのか、お金を分けるのか。両方というのが正解だと私は考えている。しかしそれでも、両者の関係をどう考えるかという問いは残る。あるいは現れる。『ベーシックインカム』(齊藤拓との共著、青土社、二〇一〇)はそんなことを思いつつ、所得の分配の側を考えた本だ。さらに、分けるについては分ける「もと」をどのようにして得るかを考える必要がある。例えば、極端な場合、ある額を人から集めてその同じ額をその人に「分配」しても、まったく何の意味もない。ではどうしたよいかを考える。ついでに税を集めることに関わって何がよしとされてきたのか、仕方のないこととされてきたのか、それはどのぐらい妥当なのか/妥当でないのかを見ておく必要かある。それで『税を直す』(村上慎司・橋口昌治との共著、青土社、二〇〇九)を書いた。
 しかし、それにしてもお金で生活・生命が維持される、維持するための行いをするというのはどうなのか。仕方のないことであるかもしれないが、「本来は」よろしくないことではないか。介助(介護)は「本来は」無償の行ないとしてなされるべきことではないか。そのことをどう考えるか。それで『差異と平等』(堀田義太郎との共著、青土社、二〇一二)を書いた。
 知る人は知るように、今ここにあげてきた幾つかの問いは、実は社会において、もっと狭いところでは障害者運動において、議論になってきた。そこから答のすべてを得てきた、と言うほど私には先人たちを持ち上げる気はない。むしろ過去いろいろと言われたことはなにか混乱し混線していると思ったから、考えてきた。ただそんな議論があったということは知っておいた方がよい。そしてこれにいろいろとこんがらがっているものがあるとしても、そういう部分部分をみておくと、それを再構成して自分で考えていくときのヒントにはなる。そんなふうにして使える部分もある。

病者障害者運動史研究
 これまでずっとやってきたとも言えるのだが、しつこく宣伝し、ようやくずっと外されてきた文部科学省の科学研究費というものに当たった。それが「病者障害者運動史研究――生の現在までを辿り未来を構想する」。外れてきた理由はよくわからない。よくわからないが、一つ、大風呂敷を広げていると思われたのかもしれない。こういう研究費で当たるのは(片方ではあきれるほど「ばくっとした」ものであり、片方では)ひどくきちんと領域が狭められた細かなものだ。それに対して私が構想したものは具△066 体的だが大きなものだった。しかし可能だと思っているし、同じ金なら有効に使った方がよい、つまりいろいろとたくさん調べ成果をたくさん出す方がよいと思ってきたから、変えようがなかった。もう一つ、お金の大半を人件費に使う計画を出してきた。金を得られず、むしろ払って研究という仕事をしている大学院生にとって、本業(研究)に資する(可能性のある)仕事をして金を得て、自分の研究を続ける生活をしていく足しにしていくというのはよいとも思う。実際、今の職場に来てから十五年ほどになるが、金がある時にはそうしてやってきた。この方針も譲れない。もう一つ、たぶん、社会(科)学の「フレーム」とずれているところがあるのかもしれない。この仕事に社会(科)学的な「含意(インプリケーション)」があることに間違いはないと考えているのだが、そう思うことができない人たちもいるようだ。このことの説明は多少ややこしくなるので、ここではパスさせてもらう。
 とにかく今回(二〇一七年度から三年間)は当たった。十二人の以前から知っている研究者に分担研究者をお願いした。ここまで既に名前を出した人が多い。既にその人たちがしてきた仕事を引き継げる部分もある。まず分担研究者の廣野俊輔が青い芝の会の会報の書誌情報(目次等)を詳細に記録したファイルを提供してくれた。これに少し手を入れて公開したいと思っている。『そよ風』についてはたぶんないのではないか。だから新たに作成することになるだろう。『季刊福祉労働』についてはずいぶん前に、私自身が入力した書誌情報、すこし研究費が得られるようになってアルバイトの人に入力してもらったもの、現代書館からそうした情報をテキストファイルで提供してもらったものがある。それを増補する。また、このごろは今までのバックナンバーをPDFファイルにしている団体がある。それをいただくか購入し、HPで公開とはならないとしてもまずは貯蔵しておく。
 そして聞き取り、インタビュー。分担研究者の土屋葉の手許には東日本大震災の前に福島の白石清春橋本広芳らに聞いた聞き取りの記録がある。これを、ご本人たちの承諾を得て――こないだのDPIの集会でお会いした橋本さんはどうぞどうぞと言ってくれた――なんらかの形で公開する。等々。私も、これまでのように、こちらに来ていただいての公開インタビューといった怠惰な形のものだけでなく、話をうかがいに行くこともしようと思う。さきの石田たち、佐藤へのインタビューはその最初の二つということになる。
 そして書籍、報告書、パンフレット、ビラ、等々。まさに「もらったものについて」ということになるが、本連載の第九回(八三号、二〇一二年九月)、第十三回(本誌八七号、二〇一四年十二月)等で、広田伊蘇夫尾上浩二椎木章からもらったものについて記した。借りたものについてもコピーをとったり、PDFファイルにしたりする。兵庫の福永年久から借り受けたものを青木千帆子らがかつてこちらのセンターの仕事の一環としてPDFにしたものがたくさんある。ただそれがそのままになっている。その整理をすすめる。そうしたもらいものをいただいた方、借り物を拝借した方(+組織)とそのことについての記述をこちらのHPの表紙にある「病者障害者運動史」「いただいた書籍・資料」に掲載することにした。ご覧ください。そして本誌編集部からもたくさんの本の寄贈をいただくことになっている。それはこの最後の号が出て一段落着いたらということで、もらいうけにうかがうのは八月になるのではないかと思う。

私たちは辛気臭い仕事をしていく、から
 私(たち)は私(たち)ができることをやっていく。それは基本的に辛気臭い仕事だ。それだけでは元気がでない。そして元気がでる/出させるところに『そよ風』はいてきた。それが終わるのは残念だ。けれども様々な伝え方は様々なかたちで今もあるし、これからもあり続けると思う。思うから、私(たち)は辛気臭い仕事を続けていける。△067


UP:2017 REV:20170811
『そよ風のように街に出よう』  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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