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「死ぬ権利」を整備する前に考えるべきこと

立岩 真也 2017/01/26

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※取材かあって原稿化されて送られてきたが(A)、なおした方がよいと思ったのでなおしたものを送った(B)。さらに同日、字数超過を少なくしたものを送った(C)。それと別のものが送られてきた(D)。

■A 編集者から送られてきた原稿
■B 送られてきた原稿に代えて使ってほしいと送った原稿(26日16時頃)
■C 送った原稿を短くして字数の規定に合わせた原稿
■D 編集者から送られてきた原稿にコメントしたもの

■送られてきた原稿

<「死ぬ権利」を整備する前に考えるべきこと>
立岩真也・社会学者、立命館大学教授

 私は、この10年あまり「生存学」というプロジェクトに取り組んできました。そこで否定的に捉えられがちな老いや病、障害などを受け入れて生きることについて考え、論考を発表してきました。
 私は、尊厳死法制化に一貫して反対の立場です。
 終末期と呼ばれる段階で「延命治療を望まない」人が一定数いる。これは、まぎれもない事実でしょう。しかし、それを言葉通りに受け止めるべきかどうかは、慎重に考えなくてはいけない。また、法制化という観点で考えるなら、そうした気持ちがどういう社会的状況から生まれているかを、丁寧に見ていく必要があります。
 2004年に神奈川県相模原市で、60代の母親がALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の息子さんの人工呼吸器をはずし、嘱託殺人の罪に問われた事件がありました。結果として、執行猶予はついたものの有罪になった。そのあと母親は重い鬱病にかかります。そして5年後、今度は亡くなった息子の父親が、鬱で苦しんでいた母親を手にかけてしまった。非常に痛ましい事件です。
 ALS患者の息子さんは、生前、介護してくれていた母親に延命治療を望まないことを伝えていたそうです。確かに、もし「死ぬ権利」が法律で定められていたら、母親が思いつめて息子の呼吸器を外すことも、有罪判決を受けることもなかったかもしれない。
 しかし、それでも私は「尊厳死法制化が必要だ」とは思いません。「死ぬ権利」が担保されていれば、この事件の背景にある問題がすべて解決できる、とは到底思えないからです。
 これまで私は、治療や介護を必要としながらも、十分に受けられずに苦しむ障害者や難病患者とその家族を数多く見てきました。この事件の背景には、医療・介護を支える財源や制度の不足、難病患者への介護支援における地域的格差などの深刻な問題がある。「死ぬ権利」を法で整備しても、そうした問題が存在し続けることには変わりありません。
 ひるがえって、そうした課題に向き合い解決していくことが、法や制度を含めた「社会」の本来の役割ではないでしょうか。
 「尊厳死」を論じる前に、患者が「延命治療をやめてほしい」「生きていたくない」と思う理由は何なのかを想像し、その状況を作り出しているものを明らかにすることが必要だと思うのです。
 一つは、苦痛の問題があると思います。「治療による苦痛を避けたい」ということ。ただ、薬の開発や医療技術の進歩で、苦痛の問題はかなり減ってきています。
 次に大きな理由は「家族や周りの人に負担をかけたくない」、また「そうした(周囲に負担をかける)人生に価値がないと思う」ということだと思います。
 介護をめぐる問題は、確かに重い。とくに日本では介護負担が家族に集中しがちです。閉じた環境の中で、介護する方もされる方も追い詰められていってしまう。しかし、介護負担というものは、本来制度が整っていればおもに人手とお金でやわらげることができるはずのものです。また、人手はお金に換算できる。
 例えば、「借金がつらいから生きていたくない」という人が身近にいたら、多くの人は止めますよね。もし「借金苦」で亡くなる人が大勢生まれる社会があったとすれば、それは誰にとっても生きづらい社会であり、社会の側にも責任があると言えると思うのです。
 どんな理由であれ、「生きるのがつらい」という人に対しては「つらいかもしれませんが、なんとか生きてください」というメッセージを発していくほうが、社会としてまっとうなのではないでしょうか。
 そして、法や制度の整備においては、介護制度の見直しや、介護支援の地域的格差の解消など、あくまで「生きる権利」を支えるための改善を積み重ねていくことが先決だと考えます。

◆立岩真也(たていわ・しんや)社会学者。立命館大大学院先端総合学術研究科教授。1983年東京大学文学部社会学科卒業、1990年同大学院博士課程単位取得満期退学。2007年から立命館大学のプロジェクト「生存学」を立ち上げ、生命倫理や障害者、福祉、差別などについて研究。著書に『私的所有論』『弱くある自由へ』『良い死』『唯の生』など


■送られてきた原稿に代えて使ってほしいと送った原稿(26日16時頃)

<「死ぬ権利」を整備する前に考えるべきこと>
立岩真也・社会学者、立命館大学教授

 この10年あまり、「生存学」というプロジェクトに取り組んできました。そこで否定的に捉えられがちな老いや病、障害などを受け入れて生きることについて考え、文章を書いてきました。この主題だと『良い死』『唯の生』(筑摩書房)等があります。私は尊厳死法制化に反対の立場です。
 医療の多くは侵襲的な行為でもありますから、それを望まない場合はあります。しかし不要・有害なことをしないさせないことは現行の法のもとでも可能です。それと、死を招く行ないをする、死を防ぐ行ないをしないことを法で認めるかどうかは別に考える必要があります。法は自殺を禁じないとしても、自殺を是認するという法はありません。そう言うと、安楽死尊厳死と自殺は違うと言われます。また安楽死と尊厳死は違うという主張もあります。しかし「終末期」という言葉も「たんなる延命治療」という言葉も安楽死・尊厳死なら認められる理由をきちんと言えません。自殺の許容を狭い範囲に限定しようとしてこれらの言葉が使われますが、その限定はうまくいかないのです。この辺はすこし面倒な話になります。しかしその面倒な議論を避けて通ることはできないのです。ところが法制化を認めるという人たちはそうした議論をしない。していても、種々の論点について論理的に間違った議論をしてしまい、結果間違った主張をしてしまう。このことについては『良い死』他を読んでいただければと思います。
 認められるかもしれない一つの理由は苦痛でしょう。ただ、薬の使いようをうまくすれば身体的な苦痛はかなり緩和することができます。他方、欧米の一部では精神的苦痛による安楽死尊厳死が認められるつつある。鬱病を安楽死で救おうというわけです。それは乱暴だと多くの人は思うでしょう。ただ、日本で尊厳死を認めようという時にも、身体的苦痛をいま除けば、あとは、精神的な、少なくとも身体の苦痛でないマイナスがあって死ぬのを認めようという理由だけが残るのです。
 それは何か。一つは、家族や周りの人に負担をかけたくないと思うから、また実際にかけられないからです。一つは、できなくなり負担をかけるような人間・人生には価値がないと思うからです。
 あなたに迷惑をかけたくない、だから死ぬ、というのはある意味立派な態度と言えるかもしれません。しかし、法制化とは、私たちのことを思ってあなたが死ぬことを私たちが認めるということです。迷惑だから死んでもよい、死んでもらった方がよいというのとどれだけ違うでしょうか。迷惑ではない、あるいは迷惑であったとしても、死ぬな、死なずにいさせる、というのが社会というものだろうと思います。
 介助や治療を必要としながら十分に受けられない障害者や病気・難病の人たちやとその家族がたいさんいます。誰もが言うように日本では、実際には日本に限ったことでもないのですが、介護負担が家族に集中します。それをなんとかするのがさきにすべきことだと、そうしなければ死にたくない人が、死にたいと言ったり言わなかったりして死んでいく、またそういう人を家族が殺したり家族が自殺したりする現状は変わらないという、誰もが知っていることを言ってきました。尊厳死の法制化を言う人にも、むろんその主張に同意してくれる人もいます。ならばその「さきにすべきこと」をすることに力を注いでほしいと思うのですが、けっこう多くはあきらめているようにみえます。それでは社会が「もたない」からと思っている。
 私はそれは間違った思い込みだと考えていますし、そのことも書いてきました。そこも議論にはなると思いますが、議論以前に、「仕方がない」と思っている人たちは、結局、「もたない」から、迷惑だから、死んでもよい、さらに、死んでもらった方がよいと思っているということです。私もそう思うところはあります。だから絶対思うなと、そんな強いことは言えません。しかし、そう思うのと行なうのは違います。法制化とはそれを実際に行なうこと、それを社会が公認するということなのです。相模原の施設で起こった事件では、実際に人が殺されました。事件は悲しまれ、行為は非難されました。けれどもその認められない事件について公言された理由と、いま認められるべきだとされている行ないの理由の間にある距離は無限に遠いというわけではないのです。杉田俊介さんとの新刊『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(青土社)を一読いただけれど思います。
 このように言うときっと(安楽死でなく)尊厳死(の法制化)を認めてほしいという人は、きっと「とんでもない」と思うし、言うでしょう。その心情はよくわかります。私もいくつか論点を飛ばして乱暴な話をしたと思います。しかし、どのように「とんでもない」のか、そこをよく考えてみようということです。いくらでも議論には応じます。

◆立岩真也(たていわ・しんや)社会学者。立命館大大学院先端総合学術研究科教授。1983年東京大学文学部社会学科卒業、1990年同大学院博士課程単位取得満期退学。2007年から立命館大学のプロジェクト「生存学」を立ち上げ、生命倫理や障害者、福祉、差別などについて研究。著書に『私的所有論』『弱くある自由へ』『良い死』『唯の生』など(撮影:東谷忠)


■送った原稿を短くして字数の規定に合わせた原稿

<「死ぬ権利」を整備する前に考えるべきこと>
立岩真也・社会学者、立命館大学教授

 この10年あまり、「生存学」というプロジェクトに取り組んできました。そこで否定的に捉えられがちな老いや病、障害などを受け入れて生きることについて考え、文章を書いてきました。私は尊厳死法制化に反対の立場です。
 医療の多くは侵襲的な行為でもありますから、それを望まない場合はあります。しかし不要・有害なことをしないさせないことは現行の法のもとでも可能です。それと、死を招く行ないをする、死を防ぐ行ないをしないことを法で認めるかどうかは別に考える必要があります。法は自殺を禁じないとしても、自殺を是認するという法はありません。そう言うと、安楽死尊厳死と自殺は違うと言われます。また安楽死と尊厳死は違うという主張もあります。しかし「終末期」という言葉も「たんなる延命治療」という言葉も安楽死・尊厳死なら、それに限って認められる理由をきちんと言えません。この辺はすこし面倒な話になります。しかしその面倒な議論を避けて通ることはできないのです。ところが法制化を認めるという人たちはそうした議論をしない。しても、論理的に間違った議論をしてしまい、結果間違った主張をしてしまう。
 認められるかもしれない一つの理由は苦痛でしょう。ただ、薬の使いようをうまくすれば身体的な苦痛はかなり緩和することができます。他方、欧米の一部では精神的苦痛による安楽死尊厳死が認められつつある。鬱病を安楽死で救おうというわけです。それは乱暴だと多くの人は思うでしょう。ただ、日本で尊厳死を認めようという時にも、身体的苦痛をいま除けば、あとは、精神的な、少なくとも身体の苦痛でないマイナスがあって死ぬのを認めようという理由だけが残るのです。
 それは何か。一つは、家族や周りの人に負担をかけたくないと思うから、また実際にかけられないからです。一つは、できなくなり負担をかけるような人間・人生には価値がないと思うからです。
 あなたに迷惑をかけたくない、だから死ぬ、というのはある意味立派な態度かもしれません。しかし、法制化とは、私たちのことを思ってあなたが死ぬことを私たちが認めるということです。迷惑だから死んでもよい、死んでもらった方がよいというのとどれだけ違うでしょうか。迷惑ではない、あるいは迷惑であったとしても、死ぬな、死なずにいさせる、というのが社会というものだろうと思います。
 介助や治療を必要としながら十分に受けられない障害者や病気・難病の人たちやとその家族がたいさんいます。また負担が家族に集中します。それをなんとかするのがさきにすべきことだと、そうしなければ死にたくない人が死んでいく、また家族が殺したり家族が自殺したりする現状は変わらないと言ってきました。尊厳死の法制化を言う人にもその主張に同意してくれる人もいます。ならばその「さきにすべきこと」をすることに力を注いでほしいと思うのですが、けっこう多くはあきらめているようにみえます。それでは社会が「もたない」からと思っている。
 私はそれは間違った思い込みだと考えています。そこも議論にはなると思いますが、議論以前に、「仕方がない」と思っている人たちは、結局、「もたない」から、迷惑だから、死んでもよい、さらに死んでもらった方がよいと思っているということです。私もそう思うところはあります。絶対に思うなとは言えません。しかし、思うのと行なうのは違います。法制化とはそれを実際に行なうこと、それを社会が公認するということなのです。相模原の施設で起こった事件では、実際に人が殺されました。事件は悲しまれ、行為は非難されました。けれどもその事件において公言された理由と、いま認められるべきだとされている行ないの理由の間にある距離は無限に遠いというわけではないのです。
 このように言うと、(安楽死でなく)尊厳死(の法制化)を認めてほしいという人は、きっと「とんでもない」と思うし、言うでしょう。その心情はわかります。私もいくつか論点を飛ばして乱暴な話をしました。しかし、どのように「とんでもない」のか、そこをよく考えてみようということです。いくらでも議論には応じます。

◆立岩真也(たていわ・しんや)社会学者。立命館大大学院先端総合学術研究科教授。1983年東京大学文学部社会学科卒業、1990年同大学院博士課程単位取得満期退学。2007年から立命館大学のプロジェクト「生存学」を立ち上げ、生命倫理や障害者、福祉、差別などについて研究。著書に『私的所有論』『弱くある自由へ』『良い死』『唯の生』など


■編集者から送られてきた原稿にコメントしたもの

<「死ぬ権利」を整備する前に考えるべきこと>

 この10年あまり、「生存学」というプロジェクトに取り組んできました。そこで否定的に捉えられがちな老いや病、障害などを受け入れて生きることについて考え、文章を書いてきました。私は尊厳死法制化に反対の立場です。
 日本に「自殺することを認めた」▼」(の位置)が△▲法律は今のところありません。しかし、尊厳死法制化は、それをくつがえしかねないものです。そう言うと、「尊厳死は自殺ではないし、積極的な自死を手助けする安楽死とも違うでしょう」と思うかもしれない。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 尊厳死は、一般に患者が「終末期」であることや「延命治療の不開始や中止」を限ることなどを条件に定義されていますが、誰かの行為▼不作為も含むことを私の原稿では記してある▲によって、▼突然→△▲もたらされる死には違いない。それを自然な死と呼んでいいのか。その定義は、厳密に見ていくと曖昧なんです。
 そもそも、尊厳死が「認められるべき」理由は何かと考えると、まず大きな理由は、患者を「苦痛」から救うためだと思います。まず、「身体的な苦痛」についてどうかというと、今は薬をうまく使えば、かなり和らげることができます。実際、尊厳死法制化に賛成する方々も、身体的苦痛を理由にはあまり挙げなくなっている。
 では、「精神的な苦痛」についてはどうか。うつ病で苦しんでいる人が死にたい、と言っていたらどうでしょうか。
 実は、欧米の一部ではうつ病で苦しむ患者、つまり精神的苦痛を抱える患者に対しての安楽死や尊厳死(安楽死や尊厳死の定義は国によって異なる)が認められつつあります。これを聞いた人は多くの人が「いや、それは乱暴じゃないか?」と思うのではないでしょうか。
 しかし、私は、日本で「尊厳死を認めるべき」と主張される上で問題となっているのは、▼ある意味では同じ「精神的苦痛」だと思うのです。これは、あくまで例えです。→??「ある意味では」どういう意味?、「これは、あくまで例えです」?→「あくまで例えであるとは考えていない▲
 ▼しかし、→?ここの接続がわからない〜接続詞を変えたとしても文章が続かない▲延命治療▼ここで「延命医療」と言う必要はない▲において「患者の意思を尊重する」ことが単純に100%正しいと言えるのか、ということを一度考えてみてほしいのです。
 ▼例えば→なぜ「例えば」?▲、なぜ患者が「延命治療の中止や不開始」を希望するのか、ということを改めて考えてみると、理由の一つは、「家族や周りの人に負担をかけたくない、かけられない」ということ。そしてもう一つは、「自分で身の回りのことができなくなり負担をかけるような人間・人生には価値がないと思う」ということだと思います。
 ▼例えば→△▲「周囲に迷惑をかけたくない、だから死にます」というのは、ある意味、人間としては立派な態度と言えるかもしれません。しかし、それを受けて「自分たちのことを慮って誰かが死ぬことを、自分たちが認める」ことは本当に正しいのか。
 それは、介護や治療を必要としている人に「迷惑だから死んでもよい」「死んでもらった方がよい」と告げるのと、いったいどれだけの違いがあるのでしょうか。
 尊厳死法制化とは、突き詰めていけば、「周囲を慮った自死」を社会が肯定し、認めることだと思うのです。
 そうではなく、「あなたが生きていることは負担や迷惑などではない」と伝える、あるいは負担であったとしても「死ぬな」と伝える、死なずにいてもらう、というのが、本来あるべき社会の姿なのではないでしょうか。
 ▼日本は、→日本でとくに、とは考えていない▲▼介護制度や地域支援→この二つの語は並列される言葉ではない▲の基盤がまだまだ弱い。介助や治療を必要としながら十分に受けられていない、障害者や病気・難病の人たちとその家族が大勢いる。そして、介護負担が家族に集中するという大きな社会問題がある。法制化を議論する以前に、それらの問題を何とかするのが、あくまでも先でしょう。
 「患者の意思尊重」の問題以前に、そもそも「生きる権利」を支えるはずの制度がうまく機能していない。だからこそ、死にたくなくても「死にたい」と言わざるをえない人が大勢生まれている。そのことを、私たちはよくよく考えるべきだと思うんです。

◆立岩真也(たていわ・しんや)社会学者。立命館大大学院先端総合学術研究科教授。1983年東京大学文学部社会学科卒業、1990年同大学院博士課程単位取得満期退学。2007年から立命館大学のプロジェクト「生存学」を立ち上げ、生命倫理や障害者、福祉、差別などについて研究。著書に『私的所有論』『弱くある自由へ』『良い死』『唯の生』など、杉田俊介との共著に『相模原障害者殺傷事件--優生思想とヘイトクライム』がある


UP:20170130 REV:
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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