物事を考えること自体は、みんな各自勝手に考えればよい。ただ、その考えるための材料が、今までそんなにたくさん生産されてこなかった。「センター」ではこれまで出版されてきた病気や障害、老いなどについての刊行物を、単純に出版年別に、並べる仕事をしている。
そして一冊ずつのファイル(ページ)を作る、HPにアップし、事項別や人別や組織別のページに関連する文献を並べ、それそれのページにジャンプできるようにしている。例えば筋ジストロフィーの本を集め、その文献リスト(のページ)を作り、そのページから個々の本のページに行けるようにしている。本を分類して書架に並べるといったことも考えたが、どんな分類法をとっても、うまくないところは残る。この方法をとれば、ある分野にどんな本があるかわかると同時に、その現物を書架から取り出すことができる。そして単純に発行年順に並べられているのを見ると、ざっと流行り廃りがわかるということがある。いっときあった「科学技術批判」というものはあれはいったいどうなったのだろうという疑問が生ずることがある。それはそれで研究の一つの主題になる。
他に、手間をなかなかかけられないということもあり、集められているものはわずかなのだが、いくつかの雑誌・機関誌を集めてファイリングし、なかには書誌情報をデータベース化したり、その中のさらにわずかについては全文を入力したり、画像ファイルにしたりしている。
医学の研究書は医学部の図書館に行けばいいし、社会福祉学についてもそうだ。しかし、どちらからも外れる本もかなりの量ある。そういったものはできるだけなくならないうちに集めておこうと思っている。学術的に立派な本だけがいるわけではない。記録・証言としてとっておく必要がある。そういうものを捨ててもらっては困る。しかし現状では多くの図書館が捨てている――私たちが古本として(たいがいごく安価に)購入するもののなかに図書館の処分品がけっこう混じっている。
国会図書館にはあるとしても、そこまでの手間をかけるのは、とても面倒だ。そして出版社から刊行されたものでないものも多い。わざわざ国会図書館に納品するという人・組織もまたそう多くはない。図書館、資料室にはどこにもないものもけっこうある。捨てられそうなものを、あるいはどこでも集められていないものを、集めておく必要がある。
人文社会系の「センター」がある物理的な空間を有することの大きな、唯一と言ってよいかしれない機能はそこにあると思う。そしてその情報を公開する。
文部省の科学研究費のような外部資金がとれている何年かの間だけというのでは意味がない。やめないこと、続けることに決定的な意義がある。それは、簡単になくならないはずの恒常的な組織、そして「学術」をもって社会に貢献する組織、そしてなにがしかの金をその貢献に投ずることのできる組織としての大学ができる事業だと考える。
そのためには一定の知識が必要な場合がある。例えばビラには「年」はいらない。ビラに「何月何日どこどこで集会」とあったら、年はそれが出たその年のことに決まっているのだから、年などわざわざビラに書き入れたら、むしろまぬけなビラになってしまう。当然書いてないことが多い。だが後になって、それがいつのことかわかった方がよい、のだが書いてないということになる。すると何かと照らしあわせて発行時期を特定する必要がある。それにはその領域を研究する人がふさわしい。またその人のためにもなる。だが、いつもそんな人がいるとは限らず、今のところ未整理のものが箱詰めになっているのだが、資料自体は貴重なものだし、いつかは、と思ってとっておくことになる。
そういう場所が、いくつか、すくなくとも一つは必要だと思う。そんなことを思って、文献・資料を集めていることを知らせてきたこともあって、この数年の間にもずいぶんの人たちから資料をいただいている。その内容、その事情についてはHPに記載している。ここではごく簡単に。尾上浩ニ(DPI日本会議、障害者運動・政策関連資料)、広田伊蘇夫(精神科医、2011年逝去、精神医療関連の書籍・専門誌)、福永年久(兵庫青い芝の会、障害者運動関連の資料貸与)、椎木章(大阪の学校教諭、大阪の障害者運動関連資料)、吉川勇一(元ベトナムに平和を市民連合事務局長、2015年逝去、ベ平連に関係した人たちの書籍等)、星野征光(精神科医、精神科医たちの社会運動関連資料)、寺本晃久(東京で知的障害者他の支援、「ピープルファースト」他関係資料)、他。さらに現在(2016年1月)、2人の方(の関係者)から申し入れをいただいている。
そしてその収集の必要の度合いは高まっている。状況は困難になりつつ、しかしそれを今のうちにという気持ちも大きくなっていると思う。例えば、戦後、1970年代頃までを体験した人は今、70代、80代といった年になっている。亡くなった方もいる。それとともに無くなっていくものがある。実際、遺族の方が廃棄しようとしているのだが勿体なくて、と寄贈の申し出をいただくこともある。
以上は文字になっているもののことだ。むろん文字になっていないものもたくさんある。それの記録をとっておくのも、より面倒だが、やっておかねばならないことだ。紙は捨てられ焼かればなければ残る。しかし人の記憶の中にしかないものは、その人が生きている間に聞くしかない。
だからより急がねばならないことがあるのだが、自分(たち)が行なったことに対する後悔や、それを語らないという矜持があって、空白になってきた部分もある。ただ今の時期はすこし回顧的になっている時期でもある。かつてのひりひりする感じが少しなくなる。黙っていることで筋を通そうという人の中にも、それでは最低伝わってよいものも伝わらないだろうと、すこし考えを変える人もいる。そんな変化も感じる。できるし、できるうちにやっておこうということだ。