『現代思想』2017年1月号の特集は「トランプ以後の世界」。
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#01
その号に載っている「『相模原障害者殺傷事件』補遺」
http://www.arsvi.com/ts/20170129.htm
の分載の第13回。1つだけある註の再掲。
フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162289.htm
にもある。
「こうして、私は、明らかな障害者とそこははっきりせずかえって悶々としているようであるその人とを別建てで考えるより、基本的には、その青年(杉田は青年という言葉を使った)にもまた同じように言うのがよいようにも思う。このことは、対談と、対談のなおし、増補の際にも思っていたが、もっとぼんやりとしていた★01。今はもう少し強くそのように思うところがある。そのうえでなお[…]」
「★01 はっきりと「障害者」「弱者」であるとはされない人の辛さの指摘については、対談でまず以下のように応じている(ここにも対談の後に加えた部分がある)。
「デフォルトで何の支障もなく生きられている人は「生きられる」とか言われてもぴんと来ないですよね。そういう人はほっとけばいい、というか、数で、多数決で決まるはずのこの社会の政治的決定において少数派にしてしまえばよいと思ってます。
もう一つ、そとめ見てもできないのがわからないというのはかえって辛いということは確かにあると思います。私はいわゆる「障害」よりも広く「できないこと」を捉えるべきだと思っています。そしてむろん、できる/できないは多くの場合完全に連続的でグラデーションになっているし、どんなできる/できないが注目されたりは時代によって変わってくる。みな障害者になるかもみたいな、それはそうなんでしょうけど、そういう話でなくて、外見的にどうあろうとできないものはできない、それが不利に働くなら基本その社会がよくないという線で行こうということです。
私はそんな感じです。そしてそれは私が考えたというようなことではまったくない。「能力主義」が批判されたんですから。だからその主張・運動は、そもそも狭義の障害者専用ではないわけで、その道を行けばよいと私は思うんです(本書第1部第3章2−1、『私的所有論』英語版序文[2016/09/21])。[…]所得保障のことにしても、社会サービスのことにしても、障害者という「印」をもっていて初めて受け取れるという主張がなされてきたわけではない、むしろそれを否定する主張・動きがずっとあってきたことに留意すべきだと思う。」
これはどう対するかという話の一部だが、それとともに「反体制」になれず、防御的・攻撃的になってしまう人たちの拡大をどう見るかということもある。対談で幾度か話し、そしてそれを受けて、対談の後に書いた(もとは本誌昨年一二月号に掲載された)第1部第3章「道筋を何度も作ること」の第3節「野蛮な対処法と別の方法」の1「野蛮な対処法」と2「別の方法」にいくらかを記した。」