『現代思想』2017年1月号の特集は「トランプ以後の世界」。
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#01
その号に載っている「『相模原障害者殺傷事件』補遺」
http://www.arsvi.com/ts/20170129.htm
の分載の第9回。松山善三(1925/04/03〜2016/08/27)の頁は
http://www.arsvi.com/w/mz01.htm
フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162284.htm
にもある。
「■もう一人、松山善三の一九六一年と八一年
八月二七日に亡くなった松山善三は、今度の本でもいくらか出てくるが、連載でも「生の現代のために・4」「6」等幾度か言及している([2014-(4),2015-7,113][2014-(6),2015-9,115]、挙げた文献略)。松山は、聴覚障害者の夫婦を描く映画『名もなく貧しく美しく』を一九六一年に撮った人だが、同じ六一年に「日本全国の子を持つ母親たちを恐怖のどん底におとし入れた」ポリオの流行のこと、そして脳性まひの人について、取材記事を書いてもいる。恐ろしい障害のこと、けれども懸命によくなろうとする人たちを描く。そして、その二〇年後、一九八一年には『典子は、今』というサリドマイド児として生まれた女性を主役にした映画を作る。前者は、清く美しく生きる人を描く。後者は、旅行してみたり水泳してみたり、より自然に生きる姿を撮る。この年は「国際障害年」で、明るく強い障害者の姿を多くの観客が観た。この八一年、六一年にはベルギーでサリドマイドの子を親が殺し有罪となるが世論は親を支持したという事件があったこと、それをきっかけに、『婦人公論』で障害者殺しが議論され、生殺を決める審議会を作るべきだといったことを水上勉や石川達三が言ったことは、たぶん忘れられている。見せ物小屋についての言及があり、奇形のおぞましさが言われ、殺すことがそれにつなげられたことももう語られない。ただし、八一年の映画の主人公は生後すぐに肩からすぐに出ている手――六〇年代には「あざらしっ子」と呼ばれた――を手術でとってしまっていて、奇形はあまり感じさせないのでもある。こうしておどろおどろしいことは軽減されている。
第1部第2章「障害者殺しと抵抗の系譜」の2・3・5にこれらが出てくる。さて、その間に何が変わったのか、また変わらなかったのか。なぜこのことを本に記したのか。やはりもっとくどく書いたほうがよかったかもしれない。たしかに変わったことはある。社会は障害・障害者により肯定的になった、と言ってもよい。ただそれは、忘れることによって、ないことにして、そして過剰と思われるものを実際になくすることによって、欠損だけがあるものとすることによって得られている。それは、この事件を引き起した人のその行ないに抑制的に作用するだろうか。そうはならないはずだ。その人は、「そういう「普通の障害者」は問題ない、問題だと言うのは…」と言うだろう。それを私たちは受け止めることができる。」