『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』
http://www.arsvi.com/ts/2017b1.htm
12月19日発売。『現代思想』2017年1月号に載る「『相模原障害者殺傷事件』補遺」
http://www.arsvi.com/ts/20170129.htm
の分載の第2回。2つの記事というのは以下(実際には「題名」はない、あるいは記事になったものと異なる)。
◇2016/07/28「七・二六殺傷事件後に」,『朝日新聞』2016-07-28
http://www.arsvi.com/ts/20160727.htm
◇2016/08/02 「七・二六殺傷事件後に」,共同通信配信
http://www.arsvi.com/ts/20160028.htm
これらも含めて
http://www.arsvi.com/2010/20160726ts.htm
からリンクされている。
フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162277.htm
にもある。
「■本に引いた二つの短文
事件から本がでるまでの間、短い文章を幾つか書いた。新聞などに載るものだから、短いものでしかありえない。そして読むのを楽しむというのでもなければ文章は短い方がよい。当然のことではある。私も短く伝えられればその方がよいと思う。他方、本はそれより長い。その関係について。
まず二つ、『朝日新聞』掲載のコメント([2016/07/28])と共同通信の配信記事([2016/08/02])を、前者については取材・掲載の経過とともに、本の第1章に収録した。後者はまず言えるだろうこと、言っておいた方がよいと思うことを一〇〇〇字程度で書いたものとして再録した。こんなことをするのは初めてのことではない。その方が便利だろうと、何冊かの本の冒頭に新聞等に掲載された短文を置いている。ただ、残念ながら話はその短い話だけで完結しない。例えば「社会がやっていけなくなるような負担といったものは今もこれからも存在しない。それはまったく確実だ」と私は書くし、実際そう思っている。しかし、その文章にはその根拠は書いていない。書けるスペースがない。それでよい人もいるし、その方がよいという人もいるようなのだが、例えば疑い深い人はそうではない。だからより長いものを書かねばならないことになり、それで本になる。この当たり前のことが一つ。
次にもう一つ。短いものは、電話での取材もあったし、インタビューもあるし、最初から書かせてもらうものもあったが、今回はいずれも出る前にやりとりがあった。それはいつもではなく、ときに記事になったかどうかも確認できないこともあるのだが、今回はなおした。さらに私がなおしたものがそのまま通ることもあるが、そうはならないこともあった。どのような部分がとりあげられるか、当方の思い、なおしがどのようになるのか。どのような部分が受けるのか、受けると人は思っているのか、その結果、どのようなことが起こるのか。それをどう考えるか、そのうえで何を言うのか、どう対していくのかを考えるべきだと思う。例えば「精神障害者の犯罪率は低い」といった(私の)発言は取り上げられる。それはもっともなことだと思える。ただそれだけを言えばよいというわけではない。やはり続きが要ることになってしまう。まずこのことは言っておくが、それだけではかえってまずい、だからよい長いものの方で補う。やはり両方が要る。そうして少なくとも二通りのものを書いていくことになる。」