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筋ジストロフィーの研究所ができなかったこと(11月号転載8)

「身体の現代」計画補足・265

立岩 真也 2016/11/26
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1809688349298144

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『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙    『現代思想』2016年11月号</a> 特集:大学のリアル――人文学と軍産学共同のゆくえ・表紙    『造反有理――精神医療現代史へ』表紙
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 田中角栄が出てくるのは私の文章では最初だが、大谷藤郎は何度かでてきた。「『精神病院体制の終わり』でも本連載でも何度か紹介・言及してきたこの時期の厚生行政の重要人物で、精神医療やハンセン病政策にも関わった。」もう一人、ここに秋元波留夫が出てきたのが私はおもしろかった。この人は『造反有理』に出てくる。西多賀病院の近藤文雄は秋元を深く恨んでいる。
 『現代思想』連載「生の現代のために・16――連載・127」の転載・分載第8回。
http://www.arsvi.com/ts/20160127.htm

 フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162265.htm
にもある。

■政治/議員
 […]
 六七年。さきに鳩山のことを語った西多賀病院の近藤文雄。近藤は筋ジストロフィーの研究所設立を望み、活動した。園田直(一九一三〜八四、厚生大臣は一九六七〜八、八〇〜八一――この時に十全会事件に対応(『精神病院体制の終わり』))について。
 「厚生大臣に、実力者といわれる、園田直氏が任命され、就任早々、私の病院を視察に来られたのである。/ベットスクールや筋ジス患者、さらにはワークキヤンパスまでご覧になって、強い感銘を受けられたようであった。というのは、大臣が東京に帰られてから、至る所で「西多賀、西多賀」と連発されていたという噂が流れてきたからである。厚生人臣に就任した最初の出来事だったので、強く印象づけられたのであろう。/私は、他のことはどうでもよいから、筋ジス研究所だけは創ってほしいと大臣にお願いした。園田さんは私の説明を聞いて、/「なるほどその気持ちはよく分かる。鉛筆書きでよいからすぐ計画書を出せ」といわれた。」後日計画書を提出したが「それに対する返事は梨のつぶてであった。どこかの関所で握り潰されたことは明らかで、大臣の手元に届いたとは思われない。/園田さんは、お名前のとおり、素直なこころで陳情を聞かれ、素直な気持ちで答えられたのだが、役人は戸感ったようである。/「大臣のいわれたことをみんな実施したら厚生省の予算はいくらあっても足りない」と皮肉って、毛沢東語録をもじり、園田語録という言葉を流行らせた。」(近藤[1996:109-111])
 大臣は人情家で請け合うが、結局官庁の担当部局で話が止まる。これもよくある。近藤は七〇年に西多賀病院を辞して郷里の徳島に戻り、「太陽と緑の会」――今はNPO法人、HP(太陽と緑の会[2000-])で九八年に亡くなった近藤の文章も読める――を結成。筋ジストロフィーの人たちを撮った記録映画『ぼくのなかの夜と朝』(一九七一)の監督柳沢寿男(一九一六〜九九、その作品について鈴木一誌[2012])らと研究所設立の活動をしたという。それに参加した「西多賀ワークキャンパスに入園していた患者の榊枝清吉氏は、自宅が東京にあったので、不自由な体を押して、せっせと厚生省や大蔵省、その他関係方面に陳情して廻った。大谷局長はいつも温かく迎えてくれ、一人で立ち上がれない彼をだき抱えて立たせてくれた。斉藤邦吉厚生大臣ともすっかり顔染みになった彼は、木戸御免でつかつかと大臣室に入り、大臣も、おおまた来たかと肩を叩いて迎えてくれるのが常だった。」(近藤[1996:152])
 大谷は大谷藤郎。『精神病院体制の終わり』でも本連載でも何度か紹介・言及してきたこの時期の厚生行政の重要人物で、精神医療やハンセン病政策にも関わった。『国立療養史』を企画した人でもある★03。この大谷、そして斉藤邦吉(一九〇九〜九二、厚生大臣は七二〜七四と八〇)のところに出入りしていたという。こんなこともしばしばある。障害をもつまた病にある身体は時に有効に使えること、政治家や役人が受け入れることが、これも今も、ある。
 そして田中角栄(一九一八〜九三、七二〜七四総理大臣)。[…]
 「映画会、講演会、街頭での訴え、キャラバン隊による九州及び東海道巡回等、あらゆる手段を尽して署名を集めた。全国の運動は順調に進み、昭和四八年四月には二五万の署名を携えて全国の代表が国会に請願した。国会議事堂では、自民党から共産党に至るまで、超党派で玄関に出て歓迎してくれた。両院の社労委員会は全会一致で請願を採択、政府に送付された。次いで同年九月、八田貞義代議士の紹介で田中角栄首相に陳情したが、首相は言下に、必ず作る、この予算は枠外と何回も秘書官に念を押された。翌日の自民党の機関紙自由民報には第一面トップに大見出しで、首相一〇〇億円で研究所を作ると約束、と出ていた。その後総理府の「政府の窓」にも、総理大臣と斉藤厚生大臣が、一〇〇億でも二〇〇億でも出そうではないかと話し合われたという記事が出ていた。/これで我事成れり、と私は感涙にむせんだ。」(近藤[1993:14-15])
 著書において重なる部分。「代表五名が応接室に招き入れられて首相のおいでを待った。やがて田中角栄首相が軌務室の扉をあけて応接室に現われ、八田先生からわれわれが紹介された。/首相は私を右側の、榊枝氏を左側の椅子に招じてすわらせた。/陳情の主旨を一通り聞かれて首相は、/「私はかねがね大変気の毒に思っていた。この研究所は必ず作ります」/ときっばりといわれた。
 いささかの疑問も残さぬ明快な答えで、前々からはっきり決断しておられたことは明白であった。しかも注目すべきは、「この予算は枠外」と何回も秘書官に念を押されたことである。それは首相の並々ならぬ決意を示すものであった。/もし研究所の予算を、厚生省の予算の中から出すとすれば、ほかの子算を圧迫し、ひいては研究所の予算も十分に取れなくなる恐れがあるからである。
 われわれは「百億円つけてほしい」とお願いしたが、金額に関してその場では可否の言葉はなかった。しかし[…]/後日、総理府の機関誌『政府の窓』に、田中首相と斎藤厚生大臣が話し合われて「筋ジス研究所には百億でも二百億でも出そうではないか」といわれたことが出ていた。
 私は首相のこの言葉を聞いたとき、全身に衝撃を受け、すべてが突然夢幻の世界に変わったように思えた。/涙がとめどもなく溢れて、お礼をのべる声もつまってしまった。/「天にも昇る心地」とはこのことだろう。陳情が終わって、足も地につかぬ思いで控え室にかえり報道陣に囲まれた。/「ああこれで研究所ができる、これが世界の筋ジス研究のメッカになる」と思うと、また新たな涙が溢れて止まらなかった。
 翌日の自民党の機関誌『自由新報』の第一面トップに大見出しで、写真をのせ、「涙、涙、首相、筋ジス研究所に百億約束」/と報じていた。朝日、毎日、読売、その他市販の各紙も大きく取り上げてくれ、テレビ、ラジオも報道してくれた。/私はこれで万事解決と考えた。「枠外で百億円くれるのだから厚生省も文句はないだろう」と。[…]/ところが、好事魔多し、ことはそう簡単には運ばなかった。最大の痛恨事は田中総理の失脚であった。私の考えた理想的な研究所は田中総理ほどの実力者でなければできないことであった。/その証拠に、斎藤厚生大臣にせっつかれてようやくできた研究所の予算は九億円という見る影もない哀れなものとなっていた。」(近藤[1996:134-143])
 その後、三木首相に会いに行ったのだがという話もあり、またそのセンターが秋元波留夫(『造反有利』参照)らの主導によって当初近藤らが構想していたものと大きく異なる「国立精神神経センター」になってしまうその経緯と近藤の恨みと嘆きが記されるその後の部分は、私にはおもしろいのだが略す。

■註
★03 一九七二年。「私が昭和四七年に国立療養所課長に就任して、まっ先に手をつけたのが、国立療養所の第二次特別整備一〇か年計画、またそれに平行して、難病病床整備一〇か年計画でした。第二次特別整備一〇か年計画はそれまでに大蔵省から認知されていたのですが、私が就任して新たに難病病床整備計画を上のせすることには難色を示された経過はありましたが、ともかく認められました。難病病床整備計画は重心、筋ジスはもちろんのことその他の重症筋無力症などの神経筋疾患から老人リハビリまで含めたものです。この二つの一〇か年計画によって国政療養所の建物は全国的に一新されたのですが、肝腎の医療の内容の改善はどうなったでしょうか。現役の人に頑張ってもらいたいものです。」(大谷[1993:5-6])」


UP:201611 REV:
大谷 藤郎  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇病者障害者運動史研究  ◇身体の現代:歴史
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