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「体制のこと(11月号転載6)」

「身体の現代」計画補足・263

立岩 真也 2016/11/22
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1807759116157734

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『現代思想』2016年10月号 緊急特集:相模原障害者殺傷事件・表紙    『家族性分業論前哨』』表紙    『現代思想』2016年11月号</a> 特集:大学のリアル――人文学と軍産学共同のゆくえ・表紙
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 「先月号では尾上[2016]と熊谷[2016]。脳性まひで、「リハビリテーション」を施設やあるいはキャンプでさせられて、よいことのなかった経験が描かれた。集会では知的障害の本人たちの組織「ピープルファースト」人などに施設についてはっきりしたことを語る人たちがいた。」の先月号は、相模原市の施設での事件を特集した『現代思想』の10月号。
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#10
 転載・分載しているのは「大学のリアル――人文学と軍産学共同のゆくえ」を特集している『現代思想』11月号に掲載されている「生の現代のために・16――連載・127」。
http://www.arsvi.com/ts/20160127.htm
 そして立岩・村上[2011]は『家族性分業論前哨』。
http://www.arsvi.com/ts/2011b1.htm

 フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162263.htm
にもある。

 「■体制のこと
 横田は、この時期・時代、別のこと、より大きなことを言っているのだった。
 一つは、人を働かせるために、その人が世話している手間のかかる人を施設に入れ、そのことによって世話する仕事から離れた人を別の仕事で働かせたというのである。私自身がそのように考える人たちの側にいてきた。人を働かせるために施設があったという理解は精神病院についてもあった。立岩[2015]では、そこでは――というのは別の点では二人は意見を異にするからだ――中山宏太郎の説を引くかたちで高木俊介がそのことを述べていることを紹介した。ただどこまでそのように言えるのか。そのためにはそれ(の妥当性)を証明する手だてがいるように思われる。どうしたらよいか。
 そして、似たような心性の人たちから、同じような構図で、別のことが言われたことがあったことを想起しよう。つまりフェミニズムの側から、女性を専業主婦にさせておくことによって、働かせてその分を安くあげることがなされてきたという把握があった。
 普通に考えればこの二つの理解は対立するように思われる。いずれが正しいのか。こんな単純な問いにもはっきりした答が出ていると思われない。それはよくない。私は例えばそんなこと思い考ようとした。『私的所有論』の英語版が出たのだが、初版からある文章に、現実を肯定する流れと比べた時、「どちらかと言えば、異を唱えてきた人達の方が何かを言っているだろうと私は感じてきたし、この本を書いてみた今、あらためてそう感じてもいる。ただ、両者のいずれにも満足できなかった。ずっと両者のその間にあったと思う。これは嫌われる立場である。しかし私はそのようにしか考えられなかった」(立岩[2013:48-49])という箇所がある。
 社会全体の生産、その増大、最大化にとってという基準が一つにある。とした場合に、専業主婦が一人で一人ないし二人の子を(そして親や配偶者を)世話するというやり方が非生産的だと言える場合はあるだろう。「規模の経済」が働かず、「ケア」の仕事を別の人にゆだねることによって他の「専門的な」仕事に就くこと続けることができる場合があるだろう。よって「女性の登用」「女性参画」に積極的になることはおおいにありうる。このように考える限りでは、主婦を家庭内にとどめておくよりも外に出した方がよさそうだ、つまりさきの二つでは前者の方が当たっているように思われる。
 ただ、どんな質の労働・生産が求められているかということも関わるが、常に労働が不足しており、求められてきたと考える必要もない。私が書いてきたのは、長い期間においてむしろ労働力に余剰があったと見る方が妥当だと、とするとその余剰を吸収する装置として専業主婦体制があるとも捉えられるということだった。
 そして次に、本人、家族、世話することを職業にする人の暮らし向きのこと。世話される本人たちが、さまざまないきさつを経て――それをこの連載でいくらか描こうとしている――いくつかの国に比べれば生きて暮らせている点でわるくないとしても、「普通の人」に比べるならその暮らしはよくない、このことは間違いなく言える。そしてその分周囲の者たちが不当な利得を得ていると言える。
 他方、子育て――もちろん主婦がそれだけをしているというのではない、論者がもっぱら子育てのことを(すくなくともいっとき)話題にしていたからそれに合わせて限っただけのことである――に限った場合に主婦がつねに「搾取」されているとは言えない(立岩[1994])。では労働者についてはどうか。長年かけて以前よりは待遇がましになった看護・医療系の人たちについてはいくらか別のことが言えるとして、割に合った待遇は得られておらず、その分他の人たちが(不当な)利得を得ているとも捉えられる。またそうして種々の人たちが得られなかった部分が、意図的だったと言えるかどうかは別に、「成長」の方にまわされた可能性もある。
 そして、本人たち自身を生産できる人にすること。これは、さきに横田が言及した答申でもはっきり言明され意図された。ただこれも費用と効果を見たときにどうか。そして誰にとっての費用と効果か。さらに実質的な効果がさほどなくともその時代によって支持され、その時代を作っていったと捉えることもでき★01。
 こうして少しだけでもみると、問題はどうしてもそこそこには複雑である。なのにたいして考えられていない。むしろ、話は近年さらに心情・心性の問題として語られてしまっている。それはよくないと私は考える。それで立岩・村上[2011]に収録されている立岩[1994]を書き、その約十年後[2003]で家族に即せば言えるだろうと思うその見取り図を描いた。さらに、もっときちんとと思い、二〇〇五年に、この「家族・性・市場」という題が当初ついて、今でも残っている「連載」が始まったのでもある。
 ここでは思考を誘発する提起がなされたことだけを確認しておこう。そして、そうした提起の前、あるいは同じ時にも、人々はともかく施策の充実を目指して行動し、時にそれへの反応があった。

★01 記したように施設についてはっきりと言いにくい中で中で、自らの否定的な経験がある人たちまた現実的な可能性がある人たちがはっきりしたことを(その部分については)語った。先月号では尾上[2016]と熊谷[2016]。脳性まひで、「リハビリテーション」を施設やあるいはキャンプでさせられて、よいことのなかった経験が描かれた。集会では知的障害の本人たちの組織「ピープルファースト」人などに施設についてはっきりしたことを語る人たちがいた。」


UP:201611 REV:
病者障害者運動史研究  ◇身体の現代:歴史立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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