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家族と施設

「身体の現代」計画補足・262

立岩 真也 2016/11/20
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1807755552824757

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『現代思想』2016年10月号 緊急特集:相模原障害者殺傷事件・表紙    『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙    『現代思想』2016年11月号</a> 特集:大学のリアル――人文学と軍産学共同のゆくえ・表紙
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 今度出るはずの本(また紹介します)では引用する部分について以下のように話している。
 「しかし、これは一〇月号でも書きましたが、家族が引き受けるか施設にやるかという古典的な図式のなかで、家族でみられないから施設に送らざるをえないという話になっているからそういう暗い話になっているわけです。現実にそうならざるをえないと言えばそうなのですが、しかし家族も引き受けないし、施設が必要だとも言わないという道もある。そこでどうするかと言えば、家族のほうが逃げてもよいのだということは言ってもいいと思っています。それでも、入居で差別されなければ「精神」の人はまず暮らし始められます。「身体」の人には介助がなければ死んでしまう人もいるでしょうけど、ソーシャルワークとか今でも言いたい人がいるなら、その人たちの仕事はそういうところにある。(本書にその部分が収録されていると思っていたが違っていた。第1章・第2章になった『現代思想』九月号・十月号分の後、十一月号に載った「生の現代のために・16」([2014-(16),2016-11,127])に書いたのだった。「負担が減ることはわるいことではない。それで都合がよくなること自体はまったくわるいことではない。別の人たちと同じように、その本人から離れること、身を離す、捨てることが認められるべきことを、関係者自身は言いにくいとしても、主張してもよい。青い芝の会の人たちは本人が家族を「けっ飛ばす」ことを言ったが、家族についてもそう言ってよいはずだ。すくなくとも殺す/殺されるよりよい。」)」

 フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162262.htm
にもある。


 「■家族と施設
 その様子は『我が子、葦船に乗せて』(河口[1982:160-167])等に描かれている。双方、殺してならないことについては一致している。結局ぶつかるのは施設のことについてであり、その話が続き、最後まで平行線になる。
 同じことが今年の事件においても繰り返されているとも言える。殺されて亡くなった人他の名前はでなかった。障害者に対する差別意識があってそれで名前を出しにくいことが問題にされたのでもあったが、それが現実であるなら、名前を出せない家族のことも配慮すべきだ、配慮せざるをえないということにもなった。また、施設に入手させた家族に対する配慮という部分もあった。個別の名を有する人への行ないとしての追悼にならないと嘆かれながらも、強くそのことを言えない部分があった。発言したり発言を求められた組織にしても個別の人にしても、そのいくらかは施設に暮らす人たちの家族、関係者たちだった。このことがあり、またそうした人や組織に対する配慮もあった。
 施設を積極的に肯定するというのでないとしても、否定できない。施設が自分たちの負担の軽減のためにあるものであることはわかっているが、しかし本人たちにとっても、現在の状況のもとでは(そんなに)わるくないはずだと思っている。声高にではないが、そう言う。それを否定できず、あまりこの件を持ち出さない。端的な施設入所批判は控えられたところがあるだろう。となると、青い芝の会の人たちに抗議されつつ平行線をたどる人たちとそうは変わらないということになる。あるいは、脱施設が正しいとされる中でより黙してしまっているとも言える。今言えることはないか。ここはその場ではないが、それでも二つのことを、短く言っておく。
 まず、実際ひどく負担であったこと、負担を担っている側から負担を軽減させるために負担が言われ、「社会化」が、とくにこの時期には施設が要求されたこと、政治家はそれを聞いて対応したこと、それで実際に負担が軽減されたこと、以上はいずれも間違いではない。ここまでは確実に言える。そして、これも事実であるのは、政治家たちはその子たちをかわいそうだと思い、そして負担を負っている親たちに同情したようだということである。それは次節でみる。政権を担っているのはずっと保守党だったから、そこに訴えかけるのも当然のことだった。そのようなものとして家族の組織があった。
 そこでは常に、私たちはやれる限りのことをやっているがしかしそれはひどく大変なのだという語り方で語られた。しかしさらに進めて、あるいはもっと退いたことろから、家族に格別の義務はないと言えるし言えばよいとしよう(cf.立岩[1992])。家族が面倒をみていることをよしとした上で、施設にやることを否定的に語るなら、それは不当だと言える。施設にやることに負い目を感じることは現にあり、なくならないとしても、それでもそう感じるとはないのだとは言える。負担が減ることはわるいことではない。それで都合がよくなること自体はまったくわるいことではない。別の人たちと同じように、その本人から離れること、身を離す、捨てることが認められるべきことを、関係者自身は言いにくいとしても、主張してもよい。青い芝の会の人たちは本人が家族を「けっ飛ばす」ことを言ったが、家族についてもそう言ってよいはずだ。すくなくとも殺す/殺されるよりよい。
 すると、残るのは本人の生活・境遇ということになる。そして家族・家庭という場は前提にならない。どんな場がよりましかということになる。それがわからないことはあるが、推量はできる場合もある。そして出たいと言っているなら思いがあるならとにかく出そう、出ることを現実に認めていこうというのがもっともな道になる。
 それはこの度も常に言われた「地域での生活を」をという標語が言うことと何も違いはしない。ただ標語は定着しているが、現実には、別のところで暮らしたいがそれが実現していない場が広範に存在する。そしてこの連載でいくらかのことを書いている国立療養所はその場の一種類なのでもある。差別解消法というものができて、差別は「事例」として探し出され報告を求められるもののように思われているふしがあるが、そんなことはない。明白にはっきりと存在する。だからそれを変えることを言い、実現することである。一九七〇年にそれはたしかに困難だったとして、今はそうでない。」


UP:201611 REV:
病者障害者運動史研究  ◇身体の現代:歴史立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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