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「拝啓池田総理大臣殿」の受け方

「身体の現代」計画補足・259

立岩 真也 2016/11/15
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1804795713120741

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『現代思想』2016年11月号</a> 特集:大学のリアル――人文学と軍産学共同のゆくえ・表紙   『現代思想』2016年10月号 緊急特集:相模原障害者殺傷事件・表紙   『現代思想』2016年9月号 特集:精神医療の新時代――オープンダイアローグ・ACT・当事者研究…・表紙
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 『現代思想』11月号の特集は「大学のリアル――人文学と軍産学共同のゆくえ」。
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#11
その号に掲載された「生の現代のために・16――連載・127」
http://www.arsvi.com/ts/20160127.htm
を載せていく。だいぶかかるから、『現代思想』買ってください。以下に出てくる9月号、10月号も。
 フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162259.htm
にもあって、そこからは9月号、10月号の紹介ページにもリンクされている。
 ※これから紹介していく「拝啓池田総理大臣殿」(と「拝復」)の全文および、それに関わる以下含む反応・回顧も『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』
http://www.arsvi.com/ts/2015b1.htm
に収録した。この資料集は随時増補している(説明は上記ページ)。最新のものを未入手の人は連絡ください。お送りします。

 「■水上勉「拝啓池田総理大臣殿」
 その先月号でも紹介した水上勉の「拝啓池田総理大臣殿」(水上[1963/06/10]、「拝復」が黒金[1963])は、六〇年代の福祉施策の進展を語る時によくあげられる。このところ見ている『国立療養所史』(全四巻のうち記述があるのは「結核編」)、『国立療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』他では以下。」
 「作家水上勉が重障児をもつ親の立場から「拝啓池田総理大臣殿」の書翰を発表し、時の政府に訴えた結果同誌七月号で池田総理に代って黒金官房長官が「拝復水上勉様」を発表し、今後重障児の問題の解決に努力するという異例の解答があった。これがきっかけで重障児の間題は一躍社会の脚光をあびることになった。」(保坂・阿部[1976:254]、著者は西多賀病院)
 「国立療養所への筋ジストロフィー児の収容は、異例とも思われる早い速度で実施に移された。これには、厚生省当局をはじめ、発足した親の会の並々ならぬ努力が大きな力になっていることは言うまでもない。しかし、すでに知られているように、昭和三八年六月中央公論に「拝啓 池田総理大臣殿」という題で公表された作家水上勉の文章、およびそれによって澎湃としておこった日本全体の福祉への目覚めが大きな影響をもっていたものと思われる。」(湊・浅倉[1976:282-283]、著者は西多賀病院)
 元国立療養所西多賀病院長・近藤文雄。「水上勉氏の「拝啓総理大臣殿」[…]以来、急速に重症児問題が国内でクローズアップして、国療でそれを引き受けるという方針が固まっていったようである」(近藤[1993:15])。
 近藤の著書。「人々は、この公開状によって初めて、水上氏に重い障害を持つ子がいたこと、その子を中心とする氏の家庭の苦悩とその闘いがいかに深刻であったかを知ったのであった。しかも、水上氏の悲しみや苦しみは氏一人のものではなく、同様な悩みを持つ全国の多くの家庭の一代表に過ぎないということから、問題の重大さに気づいたのである。/この公開状の主が有名な作家であり、相手が総理大臣であり、それを掲載した雑誌が権威のあるものであっただけに、重症児は一躍世人の注目を浴びることになった。
 池田総理は恐らくそれまで重障児のことはほとんどご存じなかったであろうから、この手紙をみて驚かれたに違いない。政府は官房長官の名において、善処する旨回答したが、それで万事うまく解決したわけではなかった。/しかし、この公開状は、重障児の問題を社会の基本的重大問題として、あからさまにしたという点で、大きな役割を果たしたといえる。
 実は、それより十年も前から、重症児をもつ親たちの血の惨むような苦闘が始まっていたのである。/そして、その後、この人たちの長い年月にわたるたゆまぬ努力の集積が、実質的な解決をもたらしたのである。」(近藤[1996:84-85])
 「作家水上勉が某誌に「拝啓池田総理大臣殿」の公開書簡文を掲載した。重症心身障害児の福祉の貧困に対する訴状ともいえた。これをひとつのきっかけとして、昭和四一年度以降、全国の国立療養所の中に、その収容施設が設置されるようになった。」(畠山・半沢[1976:543]、著者は宮城病院、西多賀養護学校)
 国立療養所南福岡病院名誉所長・長野準。「国立療養所が重症心身障害児を収容するようになったのは、たしか時の国立療養所課長加倉井氏が、「拝啓総理大臣殿」[…]という作家の水上勉氏が発表された一文を見、国立療養所で重症心身障害児と筋ジストロフィーを引き受けようとされたのだということを聞いている。水上氏の一文は、何の罪もないのに脳性麻痺を始め肢体不自由と知能発育不全の複合障害児としてこの世に生を享けたものへの切々たる訴えであったと思う。」(長野[1993:21])
 全国重症心身障害児(者)を守る会会長・北浦雅子。「時代的背景には、作家の水上勉先生が公開質問状「拝啓総理大臣殿」…を発表、障害児問題の問題提起をして下さり、マスコミも次々ととりあげて社会的にクローズアップされたことがあり、更に、森繁久彌さん、伴淳三郎さん、秋山ちえ子先生方の「あゆみの箱」の運動などがありました。そして重症児が長い間陽の当たらないところで生きてきたことが暖かい支援を呼んで、私どもの守る会は昭和三九年六月一三日に発足しました。」(北浦[1993:61])
 これらでみな水上の公開書簡は肯定的に紹介される。もっと後の時期になると、これがきっかけとなったという話は伝聞として業界の常識として決まり文句として反復され続けることになる。ただ今あげたのは、当時その関係の世界にいた人たちの書きものだから、このような受け止め方が回顧の対象となるこの時期についてあったのだろう。ただ、もちろん水上の文章だけが動かしたのではない。実際近藤の文章にも記されてもいるように、島田療育園の小林提樹らの運動は既に始まっている。請願はなかなか聞き入れらなかったのだが、それでも継続される。そしていくらかが、まずは研究費の支出という名目のものとして、始まっている。この費目が、その後も、研究者や行政にとって、また親や本人たちによって、真面目にそして便利なのものとして使われることをまた後で見る。
 政府からの書簡への反応はさっそく翌月にあったりもする。対応する素地のようなものがあった。そして引用した長野と近藤の文章にも、厚生省の国立療養所課長が水上の文章を読んだとあった。結核療養者が減っていく国立療養所の将来のことは気にされていただろう。その将来についてこの書簡もヒントを与えたかもしれない。
 そして始めるにあたっては、とくに研究費という場合には、まずさほどの金を示さずにすむことがある。そしてしばしば対象者の人の数、それに応じた金の見積もりは、当初少なめである。さほどかかるとは思われていない、そのようにして始まる。始めると増えていくが、始めたのだから、同様に必要な人たちの受け入れを拒む正当な理由はない。そして国立療養所の多数の病床が「受け皿」を用意している。こうして、自然に、増えていく。」


UP:201611 REV:
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