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国家・権力を素朴に考える(『精神医療』掲載稿07)

「身体の現代」計画補足・250

立岩 真也 2016/10/31

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自由の平等    『精神医療』4-84(159)特集:国家意志とメンタルヘルス表紙    On Private Property, English Version    『希望について』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 「社会科学的」にはわりあい大切なところについて書いている、「国家・権力を素朴に考える」
http://www.arsvi.com/ts/20160027.htm
の転載の第7回で文章の題と同じ題の節。
 全文は、他にも様々を集めた、『精神』
http://www.arsvi.com/ts/2016m3.htm
に収録されている。
 もとは『精神医療』第84号(特集:国家意志とメンタルヘルス)に掲載。
http://www.arsvi.com/m/p4084.htm
以下の話は(じつは)『私的所有論』の第7章とそして『自由の平等』でしている。
http://www.arsvi.com/ts/2004b1.htm
また『希望について』は
http://www.arsvi.com/ts/2006b1.htm
 フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162250.htm
にもある。
 なお以下、間違えて前便と同じ文章になってしまった。ツィッターで知らせてしまったので、ここはそのまま。失礼しました。
 ――以下――
 『私的所有論英語版』
http://www.arsvi.com/ts/2016b2-j.htm
はとても緩慢に売れている。英語で、という人にはもちろんだが、日本語のHTML版も同包されている。HTMLファイルというのは私たちがネットで見ているファイル=ページで、ただ開けばすぐに読める。検索も簡単。1クリックで註の箇所に行って、戻ってこれる。関連事項や人へのリンクをたくさん張った。いちいち英訳した(してもらった)文献表は、普通の本1冊分より巨大なものになった。各々の著者に関するページ(英語のものがあれば英語ページ)にもリンクさせてある。英訳してもらうのにもだが、こういう作業にひどく手間がかかった。結果、それだけのものにはなったと思う。10ドル。初版は6000円だった。どうか、労がいくらかは報われますように。
 ――以上――


 「■3 国家・権力を素朴に考える
 さてこの体制が批判され変革されるべきだとして、変革されるべき方向に世の中は向かうのか。そしてそこに国家はどのような位置を占めることになるのか。民主主義なんだから投票で世の中を変えればよいではないかという筋の話に対して、それが思う通りにはならないわけ――一番単純なそれは、民衆は権力者に騙されているというものだ――を言い、だから投票・議会はあてにならないから、まず前衛が革命を起こして、それで社会を変えてしまうと後は(だんだんと)なんとかなるという思想・運動があった。この理路は、論理的には、全面的に否定はできない。そしてかつてあった国家論というのものは、それにはまるようにできていた。つまり、国家は支配階級の道具だというのである。やがてそれは単純すぎるということになっていくらか変更はされたが、基本はそういうものだった★02。そして革命がどうにもうまくいかない、国家権力の奪取は無理っぽいということになると、この筋の話自体がなくなる。ただ、国家に対する敵意、批判△064 的意識は一部の人に残るから、国民意識だとかそういうものかいかに形成され人を縛っているかといったことを「実証的に」明らかにするといった作業は残されることになる★03。
 思い描いた道筋が途中で止まってしまうと、言われてきたことの全体が消え失せてしまったかのようになってしまった。私はだいたいそんな時期にいて、どうしたものかと思っていた。悔しいから、では代わりにどう考えたらよいかと考えた。少し順番を踏んで考えてみようと思った。たしかに経済力をもち発言力をもっている部分が力をもっているということはある。しかしそれだけのことでもないだろう。「これからは「天下国家」が、いまとはことなったように、論じられる、そういう時代だ、と言うことにしよう」([2000])と始まる文章を書き、それを『希望について』([2006])という本の最初に置いたりした。ほとんど「わざと」、そういうことを考えることは楽しいのだと言いふらすことにしてきた。
 では具体的にどうするのか。大きくは二つである。一つは、何をよしとし何をよしとしないのかという規範的な問いをきちんと設定し、解いていくということだ。そして、それを国家について考えるということはすなわち、いかなる場合・場面でどんな理由で強制力・国家権力を是認しまた是認しないのかと考えることである。もう一つは、何が現実を構成しているのかを、「国家」「国家権力」という、ときにマジックワードとして持ち出される、便利だがよくわからない言葉によってではなく、ときにごくごく「べたに」調べて述べることであると考える。一つめの強制の正当化について簡単に説明し、一つめと二つめについて精神医療に関係するその例を一つずつあげる。」

「★02 マルクス主義国家論において「経済決定論」に修正を加えようという動きがあった。国家とは下部構造〜支配階級の利害を反映するものだという単純な理解があるのだが、実際は(とくに今どきは)そう単純でもないといった話としてそれはなされた。「洋物」ではルイ・アルチュセールといった人の議論があった。「相対的自律性」といった言葉が使われた。私は、それはそうなのだろうと思ったが、だからといってとくに何かを得た気もしなかった。
★03 国家、国民国家、国民といったものが様々に「形成」されてきたことを実証的に明らかにするといった類の研究が大量に生産された。それは「日本人なる存在の虚像をあばく」といった類のものになる。発掘され発見される事実は多様だが話のもっていき方は決まっているので、その単調さが揶揄されるのでもあるが、それでも私は私はそうした仕事の意義はあると考える。ただ一つ、そういう仕事は、排外主義に抵抗しようとしてなされるのだが、(事実など知ろうとしない、どうでもよい)素朴な排外主義者、(「構築されたものだ」と言われても「だからどうした」応えるような)確信犯的な排外主義者にはなかなか効きにくいということはある――それでも言うべきは言い続けねばならないのだが。ただ私は、実証的な学術論文たちとはだいぶ趣の異なる吉本隆明のようなものも含め、「想像の共同体」といったことを言う論が相手にする「共同性」の感覚が、あまりリアルには感じられないように思えた――それはたんに頭の癖のようなものだと思う。だからそのような論は、そうしたことに敏感な人たちに委ねたらよかろうと思った。そしてもっと即物的に、乾いた感じで考えていこうと思った。」


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立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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