「大丈夫」ですよね、については、昨日、シンボジストとして話させていただいた、日本病院・地域精神医学会総会(のシンポジウムの方でなく夜の部)でも問われ(確認され)「はい大丈夫です」と答えた。題名からぴんこないだろうが、そのことについては『良い死』(の第3章「犠牲と不足について」)、それから『希望について』
http://www.arsvi.com/ts/2006b1.htm
のW「不足について」でまず書いている。
http://www.arsvi.com/ts/2008b1.htm
フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162233.htm
にもある。
「■これから
何を言って、していくか。ここではその手前のことを並べたが、様々な要因があるからには一つではなく、一つの種類ではなく、たくさんある。これまで種々長々と書いてきたことは概ね省く。
[…]
次に場所と、慣れ・鈍麻、敵意について。ナチの虐殺について一つ言われたことは、役人たちや医療者たちが従順であることだった。そして戦時下といった特殊な状況でなくても、人がたくさん死んでいく場にいる人たちはそのことに慣れていく。それは、とくに誰かに教えられなくともわかることではあるが、Sudnow[1967=1992]といった古典的な著作に描かれている。またChambliss[1996=2002]には「不幸のルーチン化」という章がある。本を紹介する連載中の「摩耗と不惑についての本」と題した回(→HP)でこの二冊をとりあげた。慣れることはわるいことではない。すくなくとも必要だ。いちいち動揺していたら仕事がはかどらない。ただそれでは困ることも起こる。そして多く磨耗・鈍麻と同時に、閉塞・敵意が生じる。あるいは、不惑の域に達することができないなら攻撃がなされる。だからすくなくともいくらかは慣れない人が、通り過ぎるだけでも、いた方がよい。監査などというものをするより――十全会病院事件でそんなものが効かなかったことを記した――また出入りを禁じても危険の可能性は除去することはできないのだから、立ち入りを拒めないようにするのがよいと述べた([2015/11/13])。
そして、その場は困難が凝縮されているように見える場でもある。動かない人たち、各種の管等をつけている人たちが並んでいる場であったりする。多くの人たちはそれはそれとして慣れ、そこで淡々と仕事をすることにしている。医療保険からたくさんお金が入ればそれを歓迎する。他方、もっと真面目な人、真面目であろうと思う人は、その場を憂うこともできる。そこに見えている景色は高齢社会と人が思っているその景色である。「社会全体」のことを考えてしまう人は、それを危機の縮図として見る。
それに対しては、ここにはそう思わせる人たちが寄せ集められているが、実際には大変ではないと言う。倫理的には、大丈夫でなくとも、共倒れになろうとも、すべきことをすべきだという立場はあるが、実際には深刻になるほどのことではない。そう言う。
実際にはそれに、さきに少し述べかけた越境と国境、排除と包摂を巡る利害や利害だと思っているもの、それと絡まっている閉塞や憎悪が関わる。それを解析しどうにかなるものかを言うのが社会科学の仕事になる。だが、繰り返すが、答がでない間他にすることがないわけではない。はっきりと留保なく否定を否定することはできる。その際なにも肯定する必要はない。」