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1970横浜での事件・前(10月号・09)

「身体の現代」計画補足・223

立岩 真也 2016/10/04
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1784108065189506

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横塚晃一『母よ!殺すな』表紙    横田弘『増補新装版 障害者殺しの思想』表紙    『現代思想』2016年10月号 緊急特集:相模原障害者殺傷事件・表紙    『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙
   横田弘・立岩真也・>臼井正樹『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』表紙    『弱くある自由へ』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 この事件のことはずいぶんの回数話してきた。ときにはなんだか申しわけないような気もするのだが、それでもたしかにこの1970年というわかりやすい数の年、横浜での事件とそして府中療育センター闘争が起こって、脱家族・脱施設の運動が始まったという筋の話はわかりやすいし、そして間違ってはいない。このできごとをまず書いたのは『生の技法』の第7章「はやく・ゆっくり」そして次に『弱くある自由へ』に収録された(初出『現代思想』)「一九七〇年――闘争×遡行の開始」だった。それをどれだけの分量、『現代思想』10月号に載った「七・二六殺傷事件後に 2」に書いたものかと思った。いつもほんの少しだけ、「みんな知っているよね」みたいな感じでふれるだけなのだが、実は(これはこの雑誌の編集者の栗原一樹さんもおっしゃていたのだが)知られてないわけで、ある程度きちんと書かねばとも思った。ただ、紙数の関係もあって(といってもこの原稿は全体としてはとても長くなってしまって所謂四〇〇字詰八〇枚を超えるものになってしまったのだが)結局中途半端なものになってしまった。以下はその原稿
http://www.arsvi.com/ts/20160031.htm
をこまぎれに、きれぎれに、の9。
 フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162223.htm
にあってここに出てくる本の紹介にリンクされている。

 「■一九七〇年・横浜での事件
 七〇年に、花田たちとも縁のあった、というか花田の弟子筋の人が多かった★09青い芝の会◇の一部が動く。十年経っていない。
 この年の五月二十九日、横浜市金沢区に住む三十歳の女性が二歳の重度の脳性まひの娘をエプロンの紐で絞殺した。家族は夫と子供の五人暮らしで、四歳の次男もまた脳性まひ児だった。児童相談所を通し横浜市南区の重症児施設「こども医療センター」に入院を申し込んだが満員で断られ、将来を絶望して犯行に及んだと報じられた(河口[1982:154-155]他)。
 この時にこの親に対して減刑嘆願の運動が地域でなされた。また横浜市長飛鳥田一雄に宛てて抗議文が出された。

 「施設もなく、家庭に対する療育指導もない。生存権を社会から否定されている障害児を殺すのは、やむを得ざるなりゆきである、といえます。日夜泣きさけぶことしかできない子と親を放置してきた福祉行政の絶対的貧困に私たちは強く抗議するとともに、重症児対策のすみやかな確立を求めるものであります。」(横田[1979:31-32]、横塚[1975→2007:96]他に引用)

 これはマスメディアでも紹介された。それに対する批判が青い芝の会神奈川県連合会からなされた。以下は横塚の文章。

 「マスコミ・キャンペーン、それに追随する障害者をもつ親兄弟の動き、そしてまた、これらに雷同する形で現われる無責任な同情論はこの種の事件が起きるたびに繰り返されるものであるが、これらは全て殺した親の側に立つものであり、「悲劇」という場合も殺した親、すなわち「健全者」にとっての悲劇なのであって、この場合一番大切なはずの本人(障害者)の存在はすっぽり抜け落ちているのである。このような事件が繰り返されるたびに、我々障害者は言い知れぬ憤りと危機態を抱かざるを得ない。」(横塚[1975→1981:80→2007:96-97])

 この時青い芝の会が糾弾し批判した相手は六〇年代に福祉を推進する力になった親の会だった。市長に対する抗議文は「神奈川県心身障害者父母の会連盟」(代表宇井儀一)が出している。この組織は親の会の連合組織で、一九六六年に結成されている。結成されてからまだ四年しかたっていない。六〇年代に「重心」施設の充実を訴えいくらか実現させたその子たちの親の会の県組織「神奈川県重症心身障害児を守る会」も参加していた(その会と青い芝の会との話し合いについて横塚[2007,2009:102-103])。
 そして実際にその抗議文を書いたのは谷口政隆◇だったという。その谷口は当時、サリドマイドの補償金をもとに飯田進らにより設立された小児療育相談センター――そこではさきになされていないとされた「療育指導」を行なっていた、あるいはその必要を訴えていたのだろう――に勤務し、父母の会連盟の事務局長をボランティアで努めていた。車椅子に乗った青い芝の会の会員たちが押しかけたのは小児療育相談センターだった。そして横田と谷口はこの後長くつきあっていくことになる★10。臼井正樹も神奈川県の職員として、批判される側として横田とつきあいを始めることになる。
 この事件では親に同情が集まったし、今でもそれは変わらない。抗議すべきでないという意見も会の中で出された。そして直接に抗議した相手も近くにいる。障害者のために働いている人である。そして強く言うことでなにかが達成できるわけではない。実際、六十年代は取り入って取ってきた。それが有効な策でもあった。ただこの時には押し切ることになった。言っていることの中身はまずはひどく単純な、わかりやいことだ。「殺すな」という言明にもやはり歴史はない。ただその強度が違っていた。よく引かれるところだが、横塚は「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばさねばならない」(横塚[1974→2007,2009:27])などと書く。
 ここにあったのは抗議し(否定を)否定するだけの行ないだ。そして代わりになにかを肯定するといったことは言わない。ただ価値と規範がまちがっていると、それははっきり言う。そして「誰にとって」のことなのか、それをはっきりさせようと言う。自らを否定するものを、自らもそれを覆せないかもしれないとしても、自分たちもその中にいて外に出られないとしても、否定する。

 「私の両親は働き者で「働かざる者食うべからずだ。人間は働かねばならない。働く人間が偉く働かないやつはだめだ」というのが父の晩酌のたびに子供達を並べて言う言葉でした。[…]/私はこの勢力圏から抜け出すことが急務だと思い続けました。」(横塚[1975→2007,2009:74]

 その背景について。いくつか言える。[…]

★09 横田にとって花田は先生だった。ラジオ番組で読まれた詩の作者の脳性まひの女性に手紙を出したら、青い芝の会を紹介されそこに詩を送ったら当時会長の山北厚に『しののめ』の方がよいと言われ、山北が花田に横田の詩を送って同人になったという(横田・立岩[2002/07/28→2016:84])。
★10 臼井[2016:45-46]。飯田の著書に飯田[2003]。サリドマイド訴訟・運動の困難が描かれていて興味深い。谷口はその後大学の社会福祉の教員になる。「この事件をとおして、横田は谷口と知り合い、のちに一緒にカナダへ障害者福祉に関する研修旅行に行っている。二人の交流は、その後、折に触れてあり、谷口は横田の喜寿のお祝い会や通夜にも参加している」(臼井[2016:73])。臼井[2002]では「矛盾・葛藤モデル」を唱導する研究者として谷口を挙げている(cf.荒井・立岩・臼井[2015→2016])。」


UP:201609 REV:
障害者殺し  ◇7.26障害者殺傷事件  ◇『現代思想』2016  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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