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安楽死尊厳死と意思決定支援

「身体の現代」計画補足・209

立岩 真也 2016/09/19
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1777509952515984


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『弱くある自由へ』表紙    On Private Property, English Version    『良い死』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 「法的能力(障害者権利条約第一二条)と成年後見制度」というテーマで、9月22・23日、立命館大学いばらきキャンパスで障害学国際セミナー2016がある。
http://www.arsvi.com/a/20160922.htm
まだ会場の容量的には入れるようだ。手話通訳、文字通訳(共に日本語)あり。もう3日後だが、申し込んでおいでください。

 私が報告するのは「成年後見制度に代わるもの」という題にしてある。この主題について、「後見」という仕組みがよくないことはわりあい簡単に言える。ただ、ではどうしまょうというのはなかなか難しいと前から思っている。いくつか思うことを書いてみた。たぶん同じように、なかなか難しいと各国のみなさん思っているのではないかと思う。そして昨日紹介した韓国の報告をざっとみても具体的に代わりにどうするかというところにはなかなか及んでいないように思う。

 その手前の、問題のやっかいさ、から。私が「自己決定」について書いてきたというときに、多くその具体的な主題は「安楽死・尊厳死」についてだった。二番目の単著『弱くある自由へ』
http://www.arsvi.com/ts/2000b1.htm
の第2章は「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」、第3章は「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」。前回あげた『私的所有論』の後、1998年、最初にあった原稿依頼によって書いた文章を2つ再録した。1つは『仏教』という雑誌からの依頼によるものだった。それはたしか「出生前診断」について、という依頼だったと思う。ただその主題について私は『私的所有論』で書いていて、加えることがなかった。これは(他人の「質」の見込みをもとにした、他人についての決定であるのだから)「自分についての」決定とは言えないのでもある。生きている自分がその自分が死ぬことについて決める。これは普通の意味での自己決定ではある。そのことをどう考えるかということになる。それをより(一番)長く書いたのは『良い死』
http://www.arsvi.com/ts/2008b1.htm
の第1章、「私の死」。
 では「支援された自己決定」がよいことになると、普通には、まずその本人がそうする(=死ぬ)ことに決めたという「自己決定」と違う(=死なない)方向にもっていこうとすること(私はそういう方向を支持している)はどうなのか。普通には、それ(違う方向にもっていこうとすること)は「支援された自己決定」とは言わないようにも思える。言えなくはいかもしれないが、苦しい感じだ。それは「決定」に依拠するというより「最善の利益」を基準とした介入であり、パターナリズムだという方がすなおに思えるのだ。
 私はいくつかの文章でパターナリズム
http://www.arsvi.com/ts/2007042.htm
が否定されない場合があることを述べてきた。だから私の立場自体ははっきりすっきりしているのだが、「支援された自己決定」のほうはどうなのだろう。

 フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162209.htm
にもある。


UP:201609 REV:
意思決定支援  ◇成年後見  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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