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意思決定支援?(事件後に10)

「身体の現代」計画補足・204

立岩 真也 2016/09/11
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1774098829523763

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『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙    『現代思想』2016年9月号 特集:精神医療の新時代――オープンダイアローグ・ACT・当事者研究…・表紙    『私的所有論  第2版』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 この9月22・23日、立命館大学いばらきキャンパスを会場にした障害学国際セミナー2016
http://www.arsvi.com/a/20160922.htm
テーマは「法的能力(障害者権利条約第一二条)と成年後見制度」、の話が最後に出てくる。基本事前申し込み制。手話通訳、文字通訳(共に日本語)あり。おいでください。関連して「意思決定支援」。
http://www.arsvi.com/d/ds.htm
 特集:精神医療の新時代――オープンダイアローグ・ACT・当事者研究…、という、現在発売中の、『現代思想』9月号に、連載の代わりに書いた「七・二六殺傷事件後に」を分けて載せていて――とても長くかかるから『現代思想』買ってください――その10回め。目次や文献表は
http://www.arsvi.com/ts/20160030.htm
 フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162204.htm
にもある。

 「■自傷には関わる余地があること
 […]
 むろんこうした立場に反対する主張があることは知っている。安楽死尊厳死を認める学者たちや推進側の人たちの主張については幾度も書いてきたからここでは紹介しない。ただ肯定論においても多くの場合、「しっかりした」意識状態のもとでの決定が条件にはされてきた。だからこそ(まだ理性的な状態においてなされる)「事前指示」が肯定されもしたのだった。だが近年では、オランダ、ベルギーといった国において、精神障害者の安楽死・自殺幇助を認める方に進みつつある。このことを児玉真美が報告している(http://www.arsvi.com/→「安楽死・尊厳死:ベルギー」「安楽死・尊厳死:オランダ」等)。そしてさらに、精神障害者の自殺に肯定的な見解を有する本人たちの組織が欧米?にはあると聞く。それは、これまでの、そして現在進行しつつある肯定・推進とどのような位置関係にあるのか。また精神障害者運動のなかでこの主題はどのように議論されているのか。そうしたことを知りたいと思う。情報が得られ、考えられるなら、考えたいと思う。
 本人の意に反する行ないを認めることがありうるとして、どのような場合に認めるかということになる。『精神病院体制の終わり』では、その必要性を説明せねばならないのはその行動を制約する側だとは述べた。ただそれで終わるというわけではないだろう。「自傷」にも様々がある。例えば身体につけられている生命維持に必要な管を(その結果を意識せず)抜いてしまう行為を防ぐことを理由として身体拘束がなされる。私はその全部を否定しない。「ミトン」などとその世界では呼ばれる手の指を動せないようにする手袋様のものを本人同意を得ずに装着するといった行ないは拘束としてわかりやすいが、その都度その人の手・指をそのチューブから(やさしく)取りのけることも強制ではある。二つの行ないに違いがないとは言わない。後者の方が本人にとってよい場合はあるだろう。ただ両方とも強制であることはわかっておいた方がよい。すると、後者も含めてすべてを認めないとはならないだろうし、後者だけでも認めるなら、それは強制を認めているということである。
 そしてこの場合は精神障害というよりは意識障害といった状態であり、失うものを考えれば正当性は比較的得やすいだろうが、そんな場合だけではない。(すくなくとも狭義の)自傷ということにはならないだろうが、例えば「躁転」して気持ちが大きくなって高額な買い物をして後で困るといった場合はどう考えるのかといったこともある。
 そしてもちろん、ここにも予測・可能性の問題は存在する。自殺の可能性を考慮して行動を制約するといったことも、可能性に基づいた行ないである。チューブを、それがなにをもたらすかわからずに抜こうとすることを防ぐために強制することも予測に基づいた行ないである。ただ後者は、自らに近い存在である自らの身体に対するすぐの行ないであるから、その予想は多く確実なはずだ。だがそんな場合ばかりでもない。問題は肯定対全否定ではなく、どんな場合にどんな理由で認めるか、その実施、その制約に関わるのはどういう人たちかといったことになるだろう。
 行為の内容の水準で具体的なことをはたしてどこまで言えるのか。決めきるのが難しいとなれば、加えてどのような場・人がどのような手続きで決めるのかを考えるということもありうる。そのような方向でいくらかのことは『精神病院体制の終わり』で述べたつもりではあるが、その辺にとどまっているということでもある。この九月二二・二三日、勤め先の大学のいばらきキャンパスを会場にした障害学国際セミナー二〇一六は「法的能力(障害者権利条約第一二条)と成年後見制度」がテーマになっていて、私も報告する([2016/09/23])。そこで議論されるのもこの辺りに関わる★11。」

「★11 「成年後見制度」の推進が言われ、それを促進する法律も通ってしまったのだが、その制度で迷惑を蒙ってきた人たちまたそれを知っている人たちはそれに反対してきた。私も反対だ。そしてそれに対置されるのが「支援された意思決定」ということになり、「意志決定支援」が標語になるのだが、この言葉からは、「意思」ははっきり表出できない聞き取れないといったことであっても存在し、それに沿った形で支援するというかたちが想定されているように思われる。法で定められた範囲内でとはいえ(しかしその範囲はしばしば踏み越えられてしまう)後見人が本人を差し置いて決定してしまうよりよい。たいがいはそれでよい、それがよいだろうと思う。しかし常にそう言えるのか。表出されている言葉に従わない、従えないことかありうるとして、それは「意思決定支援」と言うのか。
 次にどのような方法があるか。(決めることを代理するあるいは支援する)人を決めるというやり方をすぐ思いつく。しかしこれには難点もある。他にないか。こんな場合にはこうするというきまりを決めておくというやり方もあるだろう。「躁転」の人が高額の買い物をしてしまうといった場合でも、その人の金の使い方が家族その他に迷惑をかけないような仕組みにしておけば、使うのはまかせてかまわないという考え方も可能だ。いろいろ考えられるはずである。どんなことが考えられるかを[2016/09/23]で示そうとした。」


UP:201608 REV:
7.26障害者殺傷事件  ◇『現代思想』2016  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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