統計的差別については、まずは
http://www.arsvi.com/d/d04.htm#05
をどうぞ。
特集:精神医療の新時代――オープンダイアローグ・ACT・当事者研究…、という、現在発売中の、『現代思想』9月号に、連載の代わりに書いた「七・二六殺傷事件後に」を分けて載せていて――とても長くかかるから『現代思想』買ってください――その8回め。目次や文献表は
http://www.arsvi.com/ts/20160030.htm
フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162202.htm
にもある。
引用部分、今回は前回とだいぶかぶっている。新しいところは「ではこの場合は…基本に置くことができる」の部分。
「■確率
[…]
確率による対応を常に否定することはできない。仕方なく認められる場合もある。ただ「統計的差別」が生じないようにするべきであり、そのための手立てを考えることはできる。そのことについて述べてきた★09。
ではこの場合はどうか。その人は、自分がやらないかもしれないのに、また再度やることはないかもしれないのに、非難の対象になり、自由が奪われるなどといったことになる。これはたんに確率に基づく計算によって(代替・代補可能な)手段を奪われるというだけのことではない。だから、この場合には、なおいっそう、できるだけ確率・可能性に基づく対処は避けるべきであると言える。このことは、ある範疇の人々について、問題を起こすその確率が違っていても、標準よりも高くても、言える。
私たちはそう潔くよくはなれない。とくに失われるものが代替不可能あるいは困難なものであればなおさらのことだ。八〇%だとか九〇%だとかといった場合はどうなのだとも思う。しかしすくなくともまず、可能性・確率に基づく侵害、現にその者が悪事を行なったのではなく行なっているのでない場合の侵害は基本的にすべきでないとは言える。それを基本に置くことができる。」
「★09 「差別の経済学」と呼ばれる領域で統計的差別が言われることは『私的所有論』で紹介している([1997][2013:610-611]、英語版[2016/08/31]は電子書籍で頁を示せない)。できるのにできない(確率が高い)とされる範疇に入れられることによる差別が選ぶ側の合理的な選択の結果として生ずる。合理的な行ないだが望ましくない。それにどのように対応するかということになる。障害者雇用について考えた[2001]でもわずかにだがふれている。」