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危険だとしても(事件後に6)

「身体の現代」計画補足・200

立岩 真也 2016/09/03
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1770786089855037

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『現代思想』2016年9月号 特集:精神医療の新時代――オープンダイアローグ・ACT・当事者研究…・表紙    『ALS――不動の身体と息する機械』表紙    『現代思想』2016年1月号 特集:ポスト現代思想・表紙
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 危なくないという言い方の危なさもある。特集:精神医療の新時代――オープンダイアローグ・ACT・当事者研究…、という、現在発売中の、『現代思想』9月号に、連載の代わりに書いた「七・二六殺傷事件後に」の6回め。目次や文献表は
http://www.arsvi.com/ts/20160030.htm
 その文献表にもある☆08で言及されている(立岩)[2003/01/01]はなんらかのかたちでの提供を始めるつもり。またお知らせします。
 フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162200.htm
にもある。


 「■加えて言わねばならないこと
 ただこのものの言い方には限界がある。例えば今どきとてもたくさんいる「うつ」の人たちも含まれるとなれば、その人たちの多くは加害的になるだけの元気もない。犯罪全般を取り出し、精神障害全般を取り出せば、犯罪の率が少ないのは当然のことだとも言える。しかしそれと別の括り方をすれば違ってくるかもしれない。不活性な精神疾患を除外すれば変わってくるかもしれない。実際そのことが主張される。
 それは「危険な」部分を取り出すということであり、ならば危険度が上がるのは当たり前のことだと反論はできる。するとそれでもなお、あくまである疾患、疾患のグループについては確率が高いと言われるかもしれない。「危険度」と別の指標において範疇化された集団についてその危険度が有意に高いと言える場合があるという主張はありうる。「実証」は他の人たちに委ねるとしてこうしたことをどう考えるか。
 七月三〇日・山本眞理。「かつて群像新人賞受賞者で精神病院入院歴のある小林美代子は「一人の犯罪で私達全員が裁かれる」と告発しました。/今再び同じ過ちがなされようとしています。」(山本[2016]、小林の受賞作は小林[1971]、七三年に自殺)
 その山本も別のことを言ってきたはすである。精神障害者のある者は、またある状態にある時は危険であるかもしれないが、それでも自分たちの存在を認めよと言った★08。
 「精神障害ゆえに犯罪が起こる」という文が何を意味しているのかを考える必要があるだろう。ここでは犯罪の方は問題にしないとしよう。すくなくとも人を殺すことは非難されるべきことだとしよう。すると精神障害とは何かという問いが一つ、精神障害が犯罪をもたらすということがどういうことかという問いが一つである。これは単純な問いだが、うまく答えるのはそうたやすくはない。ただ本稿ではこの問いに直接に答ようとはせず、この文が基本的には不要であることを述べていくことになる。

 「★08 二〇〇二年から二〇〇三年にかけての――今も続いている二〇〇五年に始まったものとは別の――全一四回の連載「生存の争い――医療の現代史のために」の大部分は大幅に加筆して『ALS』([2004/11/15])となったが、初めの数回と第九回は別のことが書かれている。第九回([2003/01/01])は心神喪失者等医療観察法成立の折に書かれ、それは山本(長野英子)の衆議院法務委員会での参考人意見から始まっている。そして「危険/確率」という節がある。以下その一部。
 「例えば、池田小学校の子どもたちが殺されたのはお前(たち)のせいだといった非難が精神障害の人の権利のために活動している人に対してなされるし、また、日頃「社会運動」にすこしも関わりをもたない人にも、つまりは同類がそうした非道なことを行なったのであり、おとなしく病院にいればよいのだという類いの非難が投げかけられる。これはこれで十分につらいことだ。それはさすがに卑怯なことだと大方の人は言うとしよう。しかしその卑怯さを差し引けば、被害を減らそうとすることに理はあるのではないか。
 […]犯罪と精神病者・障害者あるいは知的障害という問題の設定において、病者・障害者の側に立つ側は、そこで名指しされる人たちととそうでない人の犯罪を犯す可能性について、その差がないことを言ってきた。実際、多くの場合このことについて多くの人が思い違いをしているのは事実であり、その間違いを正すこと、正し続けることはまったく大切なことだ。同様に、ハンセン病は実は危険な病気ではなかったのに患者は隔離された、エイズの患者は危険ではないのに差別された。しかし、そのようにだけ言えばよいのだろうかとも、誰もが思ったことがあるはずだ。危険だったらどうなのだろう。むろん、これはたいていの場合に愚問でもある。危険とはまったく存在しないか現実の危害として発現するかではなく、なにか策を講ずれば、人間そのものを隔離するといったことをする必要はないのだ。隔離は不要であり、また問題の解決にもならない、つまり社会防衛の手段としても有効でない。この点はこの度の法案についても大切である。それにしても、この問いは消えてなくなるわけではない。
 仮にいくらかその確率が高いとしよう。そうした場合には、単にいわれのない差別ではないとされ、合理的な行動だとされるかもしれない。[…]」
 この回の原稿の全文をHPから提供することにした。
 さらに本年一月号に掲載された連載一一九回「加害のこと少し」([2016/01/01])より。
 「一つに、人々が報道から受け取ったり、少なからぬ人が公言したりするのと異なり、精神病者障害者は危険であるという事実認識が間違っていることが言われ、それが繰り返されてきた。実際には精神病者障害者の犯罪率は低いことが言われる。これは統計的な事実である。事件が起こってコメントを求められたりする時「犯罪社会学者」が必ず言うのがこのことだ。にもかかわらずどれほどその認識は共有されているのか。となるとこのこともまた何度でも繰り返す必要のあることになる。ただ、その仕事もまたやってもらえている。繰り返しは必要だとしても、わかっていることではある。こちらは理屈の続きを追うことにする。」


UP:201608 REV:
7.26障害者殺傷事件  ◇『現代思想』2016  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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