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差別禁止がうまく行かなくなる時/杉原務

「身体の現代」計画補足・180

立岩 真也 2016/07/18
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1751401501793496
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『希望について』表紙    立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙
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 杉原努は(その博士論文についての情報は以下に記載されていないようだが)
http://www.arsvi.com/w/st14.htm
以下に関わる拙稿としては http://www.arsvi.com/ts/2001043.htm
があり『希望について』に収録されている。
http://www.arsvi.com/ts/2006b1.htm


 「■孤立が悪いわけではないが、そうもいかない時
 言語や、行動の様式は、身体そのものではないとしても、身体に付着しているものであり、すくなくとも完全に自由になるものではない。そんな意味で物質的なものである。その自分(たち)のものが、別の方式・様式でやっている多数派との間でうまくいかないといった場合がある。
 […]
 さらに、差異が気にされる場とされない場とがあるという、これも考えてみればごく当たり前のことを考えてみてもよい。例えば、仕事さえできればよいという場では、それ以外のものは気にされないはずである。市場ではそんなことが起こりやすい。工程・販売の過程がいろいろに分かれていて商品の背後にいる人が見えない、見えなくてよい場合もある。ならばその人の(仕事の遂行能力以外の)属性は気にされないはずだ。
 ただ、杉原努の博士論文(杉原[2010])にも出てくる米国的障害者差別禁止法は、「当該の職務に本質的である能力以外のもの」で差別することを「禁ずる」という仕組みものだが、気にされないなら禁止される必要もないではないか。そんな疑問も生じるかもしれない。それに対する答はとりあえずは簡単で、例えば車いす対応の職場にするとか、費用が余計にかかる人は避けられてしまうというものだ。そこでそうして避けることを禁じ、費用を雇い主にもたせるというのが一つの案になる。しかしそれでうまくいくか。他に(も)手はないかと問いは続く。
 そうすると、ずいぶんのことが言われてきたはずの差別という事象・問題についてもまだ考えてよいことがあることがわかる。そして、とにかく社会は一様に構成されてはいない。いくつもの領域がある。そのことを考えにいれて考える必要もある。すると、社会が分かれているその分かれ方に応じて学問が分かれているというのは、便利そうでかえって不都合であることがわかる。経済学の中で差別を考えるより、差別を考える時、あるいは差別されずに生きることを考える時に、経済学を(経済学も)使った方がよさそうだ。
 以上、何種類か、一見関係がなさそうに見えても、考えていくと関係があること、そのことに気づくことによって、自らの主題をさらに深め展開させていける場合があることを述べた。次に、一定の数の「業績」が集まって、それによって何かが言えるということがある。次節でその例をあげる。」


UP:201607 REV:
『生存学の企て』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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