以下に出てくる田中慶子の著書『どんなムチャぶりにも、いつも笑顔で?!――日雇い派遣のケータイ販売イベントコンパニオンという労働』(田中[2014])は
http://www.arsvi.com/b2010/1409tk.htm
藤原信行・田中慶子は
http://www.arsvi.com/w/fn01.htm
http://www.arsvi.com/w/tk11.htm
こうして「補章」の引用を続けている『生存学の企て』は
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
フェイスブック上のこの文章と同じ文章が
http://www.arsvi.com/ts/2016174.htm
にあってそこから、『生存学』第3号も含め、注文できる。
「そして、この原因をあげ、その知見に基づいて介入することは単純な営みのようだが、実際に、そこそこ複雑なことも起こす。社会科学者は社会に問題・原因を見出すのが好みだが、それで問題が社会の問題となり、個人が実質的に免責されるかといえば、そうなるとも限らない。(このことに関わる拙著としては『自閉症連続体の時代』。)
それを本書でコラムを書いている(p.111)藤原信行が示している。その博士論文は「日常生活世界における自殺動機付与活動の知識社会学――自死遺族らによる動機付与のポリティクスと常識知/専門知」(藤原[2010])――その後の論文に『生存学』3(特集「精神」)所収の藤原[2011]の他[2012a][2012b]。
自殺の原因がうつ病であるとされ、病気であるとされ、その病気の原因は例えば過労に人を追い込む社会にあるとされる。それが間違いだというのではない。そしてそれは、そのまま受け取れば、本人の責任も家族の責任も解除するものである。しかし、健康を管理する、すくなくとも気遣うのは家族だとなると、その兆候を見逃したのは家族だということにもなる。また、社会に問題があるといっても、社会はすぐには直りようがないないので、自分が医者やカウンセラーにかかって気をつけたり、家族が気をつけさせたりということになる。だから必ずしも免責にはつながらない。自殺した人の遺族にインタビューを何年も続けるという調査ができていること自体すごいことだと思われるのだが、そこで明らかにされたことの一つがこのことだ。
また本(田中[2014])になった田中慶子の博士論文は家電店で携帯電話のセールスをするコンパニオンの話なのだが、その前年に書いた所謂「電通過労死事件」を追い分析した論文(田中[2013])でもこのことが確認される。この裁判で初めて、過労がうつ病をもたらし、それが自殺の原因だとされた。たしかに企業の責任はここで認められた。しかしその後にできあがった構図は上述のものだった。
示そうとする人、仕方なく示さねばならないと思う人、それが億劫だと思う人がいる。示すことが意図と異なる効果を生じさせること、それで迷惑を被る人がいること。ここでも、複数性と、一見意外にも見える繋がりがあることによって、自らの研究主題における、わかること、示すことの位置を考えていけることがある。」