桜井悟史の著書『死刑執行人の日本史――歴史社会学からの接近』
http://www.arsvi.com/b2010/1101ss.htm
の一部がこのごろその補章を引用している『生存学の企て』
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
の第3「生存をめぐる制度・政策」の3「生/死と政策」に引かれている。この本はこうして一部を読んでそれから全部(一冊)を買うためにもある。フェイスブック上のこの文章と同じ文章が
http://www.arsvi.com/ts/2016173.htm
にあってそこから注文もできる。なおこの章の解説は渡辺克典、
http://www.arsvi.com/w/wk06.htm
以下に出てくるもう一人大谷通高は
http://www.arsvi.com/w/om01.htm
「■わけを知る、ことがもたらすこと
以上は人のある状態に対して、社会が何かをする、本人が社会に何かをすることを求めるそんな場面に、その人が何であるか、何であるとされるかが関わってくるということだ。わかることが求められるもう一つは、原因を発見したり、特定したりすること、そのことによって本人の責任を問うたり、その原因に介入し手を打つことによって、問題を解決しようといった営みのなかにある。
その営みの全体を否定することはまったくできないだろう。原因が究明され、それで(実際には原因がわからないままということも多いのだが)対処策がとられる。原因の究明・発見が有効・有益なことはいくらもある。そして原因がわかることは、ときに本人の免責にもつながることがある。また刑事的には免責されるとともに、強制処遇・強制医療の対象とされることにもなる。罪と罰、責任と免責を巡るこの大きな問題については、本書でも第3章3でその文章が引かれた櫻井悟史や、犯罪被害者の救済という流れの形成・変遷を追った大谷通高の博士論文(大谷[2014])があるにもかかわらず、これ以上ふれられない。ただ、その刑罰・行刑や犯罪(の「二次被害」からの救済)の歴史・現在を研究しようという人たちと、精神疾患によるとされる犯罪・再犯の可能性に依拠する司法的・医療的介入について考える人がいる(p.229)。やはり、両者いて、そこから見えてくるものがあるしれない。そんな場がなかなかない。法学が対応すればよいだろうか。しかしその学はもっと縁取りがしっかりした折り目の正しい学問であるために、なかなか難しいかもしれない。
そして、この原因をあげ、その知見に基づいて介入することは単純な営みのようだが、実際に、そこそこ複雑なことも起こす。社会科学者は社会に問題・原因を見出すのが好みだが、それで問題が社会の問題となり、個人が実質的に免責されるかといえば、そうなるとも限らない。(このことに関わる拙著としては『自閉症連続体の時代』。)」