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認めさせねばならない、か:複合性局所疼痛症候群(CRPS)・大野真由子

「身体の現代」計画補足・171

立岩 真也 2016/06/28
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1743244182609228

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立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙    『差異と平等――障害とケア/有償と無償』表紙    『自閉症連続体の時代』表紙
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 その博士論文を公刊する企画が途中で止まっている大野真由子については
http://www.arsvi.com/w/om24.htm
 。『生存学の企て』
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
の「補章」からの引用を続けている。  立岩・堀田[2012]は『差異と平等――障害とケア/有償と無償』
http://www.arsvi.com/ts/2012b1.htm
 また以下に関係することは拙著『自閉症連続体の時代』
http://www.arsvi.com/ts/2014b1.htm
にも書いている。なおこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/2016171.htm
にも掲載。そこから本の紹介・注文の頁に行ける。
 「■しかし取り出され・証すことを求められる
 こうして私たちは、私は私であると思ったり言ったり、連〓ルビ:つる〓んだりすることがある。そして、名指すこと、示すことにまつわるもっと「現実的」な事情がある。人々・社会の対処を求めるために、みずからがそうして対処されるべき対象であることを証さねばならず、そして認めてほしいのに認められないということがある。また他人たちが人々のある範囲を囲い込むことがある。そして両者は時に別のことではない。
 大野真由子は、研究者としては自らが「複合性局所疼痛症候群(CRPS)」の人であることを言わずに論文を書いたが、始終とても強い身体の痛みととも生きることになる――前々項の続きで言えば、そのままでいればよい、とはとても言えそうにない――その病そして/あるいは障害を有する本人だった。大野は痛みに関わる種々の困難を記録し、それが社会的支援の対象にならないことの問題を取り出し、博士論文「複合性局所疼痛症候群患者の支援に関する一考察――認められない」病いの現状と課題」(大野[2012])を書き、その後、韓国での「障害学国際セミナー2012」で「慢性疼痛と「障害」認定をめぐる課題」を報告し、それは大野[2013]になった。
 自分が支援の対象であることを示さねばならないこと、しかもただ自分が語ったのでは信用されず、「客観的」な証拠を求められ、そしてそれがないとされる。「難病」に認定されず、制度が使えない。問題はこんな具合になっている。それに対して、たしかに足がないとか手がないとかいうレベルではないが、その痛みと生活上の障害とを示す方法・基準があるのだと返す手もある。それは現実的な対応だろう。その際、実際に障害と認めている事例があると心強いし、役に立つ。大野は、専門家の協力も得てそうした主張を行ない、一定の政策的対応がとられている韓国や米国の事情やそこの患者会について調べて報告した。
 ただ、まずは考えるだけなら、本人の申告だけでかまわないのではないかといった、もっと極端な立場を取ることができるかもしれない。つまり、支給するためには測れないとならないと言われるのに対して、ほんとうにそうかと正面から問うてみるという手もある(cf.立岩・堀田[2012:32ff.])
 ただ、大野は2014年3月にクモ膜下出血で急逝し、議論を続けることはできなかった。その死を皆が悼んだ。だが大野が書いたものは残り、HPでそれを見た人たちから時々連絡をいただくことがある。それは日本でも患者会を作れないかと考えている人によるものであったりする。さきに述べたこと、構造的に不利な立場にいる本人たちにせめて情報ぐらい提供すること、切れている回路を繋ぐことを手伝うという仕事の一端を、大学という、知に関わって恒常的に存在する組織が担う可能性が現にないわけではないことを思う。
 わかること、わからせることは必要か。何も問わない、言わなくてすむという状態をすくなくとも思考する際の一つの極として立てることによって、こんなことを考えることができる。なぜどんな場合に、知ったり測ったり区別したりすることが必要なのかという問いが立つ。
 (続く)」


UP:201606 REV:
『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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