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語らなくてすむこと・埋没すること

「身体の現代」計画補足・170

立岩 真也 2016/06/23
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1741783752755271

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立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙    自由の平等
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 以下に出てくる山口真紀は6月26日(日)に説明会ある研究科の院生。
http://www.r-gscefs.jp/?p=124
センター・研究科に関係ある人の多くは
http://www.arsvi.com/w/index.htm
に英語頁ある人たち。山口は
http://www.arsvi.com/w/ym10.htm
また以下の引用元である『生存学の企て』
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
の文献表の頁から各人、各人の「業績」にリンクさせてあります。
立岩[2004]は『自由の平等』。今回のHP版
http://www.arsvi.com/ts/20162169.htm
から注文できます(テキストファイルで提供)。

 「■語らなくてすむこと・埋没すること
 肯定する/しない、受容する/しないことと関係しながら、自ら(たち)をまた他者(たち)を取り出すこと、自分(たち)とそうでない人(たち)の間に境界線を引くという営みがある。前節最後の吉野の議論が既にそのことに関わるものだった。
 一方に「語る」ことをわりあい肯定的に語る人たちがいる。そしてそうして自己を語ることがその自己を固定化してしまうといった指摘を受けると、今度は「語り直し」が言われるなどする。実際そんなことは様々あろうし、あった方がよいこと、それで楽になることもあるだろう。
 ただ、そう簡単でないとも思われる。(普通の意味における)身体にも変えられる部分とそうでもない部分、物理的には可能だが、ためらわれる部分もある。すると例えば記憶はどんなものだろう。不如意なものでもある。すくなくとも自在になるものだとは言えない。
 自分を規定する、差異化する、探す、そうした営みを心理に即して見ていくというやり方もあるだろう。ただ、それを必要とさせたり、促したり、容易にしたり、困難にしたりする要因・条件があったりなかったりする。それは何なのだろう、そこにどんな事情があるのだろうと問うことができる。
 自らを探求し、それが見つからなくとも、探求の営みを続けるということがよいことであるという、なにかしらの信仰が学の伝統にもあるように感じられることがある。それが気になっているのが山口真紀だ。論文に山口[2009][2011]等がある。そして、このことを巡る信仰の違いとでもいったものが現れたのは、アーサー・フランクを招いてのシンポジウムの時のことだった(→生存学研究センター報告5、有馬・天田編[2009])。通訳の問題もあったのかしれしれないのだが、山口の「語らずにすむ世界に」という主張は、なかなか通じにくいようであった。
 山口の主張は、煎じつめれば、よく言われることを単純に裏返しにした主張である。その単純な主張をしたらよいと思う。ただそれ自体は、一言言えばすむことであるかもしれない。その手前で、なぜ語ったり証したりすることが必要とされるのかを問うていくという道がある。
 探し、語ろうとするそのこと自体がよいことであるとされているから、というのが一つの答だ。そしてその「探求」は、帰属であるとか属性であるとかそんなものを離れたところに「私」を置く、そうした自由な私という方向に行くのがよいという立場からも言われる。
 しかし、それもまた窮屈な営みであるかもしれない。もう一方に、集合性、所属・帰属というものに包まれてある人間という捉え方があって、そこからも、私や私たちの存在のあり方が言われる。第3章1の安部彰の文章をそのようなところから読むこともできる。
 普通に「個人」「主体性」を言い、それに「共同性」が対置され、さらに双方を越えた「ポスト」の主張がある。個性そして/あるいは集合性の主張は外圧に抗する場合に強くなる傾向はあるだろう。それは抵抗の拠点となる。そのことはわかった上で、その危うさが言われてきた。石田の文章(第2章2)もそんなことに関わるのだが、線引きし、規定し、意味づけることによって分断を作り出し、支配や従属を作り出し、統治を維持することが指摘された。そんなことがあるのも事実そのとおりで、取り下げる必要はない。アイデンティティなどを平和に語っている領域と異なり、そんなに素朴でない(と自らを思う)学の流れは、おおむね「脱」を志向するものになる。これは、「思想」が自働的に進んで行ってしまう道筋であるかもしれない。そうした議論の布置を追っていくという研究も、あまりここではなされていないが、あることはある。ただ、図式そのものはほぼ固定しているようにも見える(cf.立岩[2004:chap.6]「世界にあるものの配置」)。
 あえてもっと普通に考えてもよいかもしれない。例えば適度な愛国心などは人を幸福にする。私ではないが私たちのなかの誰かがよいことをすると、それは私にとって誇らしいということはある。他方、負けても――真面目に没入してしまいひどく傷まって自分自身も危うくする人もいるのだが――自分自身が負けた時ほどには気にしないですむということもあるかもしれない。横浜ファンのような人たちがいて、勝てばうれしいが、負けてもそれなりに愛し続ける。これはなかなか得な処世術かもしれない。
 加えておくと、このように考えていくことは、帰属といったもののよさ、「神聖さ」を脱色する方向にも作用しうる。どんな時に、どんな事情で、人は何かに入れ込んだり脱したりしようとするのかと問うてみてもよい。」


今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162170.htm


UP:201606 REV:
『現代思想』  ◇『生存学の企て』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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