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「重心」の国立療養所への受け入れ+横塚晃一補遺(国立療養所・3終わり)

「身体の現代」計画補足・166

立岩 真也 2016/06/15
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1738568126410167

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吉見俊哉編『万博と沖縄返還――1970年前後』(ひとびとの精神史・5)表紙    『現代思想』2016年6月号 特集:日本の物理学者たち・表紙    立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙
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 以下注の部分は吉見俊哉編『万博と沖縄返還――一九七〇前後』(ひとびとの精神史・5)
http://www.arsvi.com/b2010/1511ys.htm
に収録されている「横塚晃一――障害者は主張する」より。
http://www.arsvi.com/ts/20150020.htm
この文章の意味はまた別途説明する。この2015年の文章の全文にいくらかを加えたものも含め横塚晃一・横田弘について書いたものをまとめたものが
立岩真也 2016/04/29 『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』
http://www.arsvi.com/ts/2016b1.htm

 ここしばらく『現代思想』6月号
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#06
に掲載されている
「国立療養所・3――生の現代のために・13 連載・124」
http://www.arsvi.com/ts/20160124.htm
より。以下はその回の終わり。


 「小林提樹はさきにすこし紹介したし、中では知られている人である。小池文英は整枝療護園に長く務めた。整枝療護園(東京都板橋区)は一九四二年開園。前々回に紹介した日本医療団に属した。空襲で大部分を消失。四六年に再建。五一年に児童福祉法に基づく肢体不自由児施設になる。六七年に重症心身障害児施設「むらさき愛育園」を同じ構内に開設、八〇年に外来部門を加え、三つの部門を合わせ「心身障害児総合医療療育センター」と総称。小池は(一九一三〜八三)は東京大学医学部卒、文部省の技官から、整肢療護園に務め、二代目の園長になる。脳性まひ等、障害児の医療、リハビリテーションはここが先駆とされる★06。引用を続ける。

 「九州地区では再春荘の小清水荘長の資料を紹介する。昭和四一年重症心身障害児収容施設を設置するにあたって、九州地区では福岡東病院と再春荘にその白羽の矢がたてられ、地方医務局より設置の要請を受けた。当時福岡東病院は一〇〇〇名以上、再春荘においても八〇〇名近い結核患者を収容しており、これら多数の結核患者と共に全く異質のものといえる重障児を同時収容することには、少なからず躊躇せざるを得ない状態であった。おそらく感染に対しても極めて抵抗力が弱いであろうこの子供達を収容することともなれば、余程の良い条件下、態勢下でなければうまく行かないのではなかろうかと考え、地方医務局とも再三話し合った。再春荘の意見は充分内容の整った設備、九州地区は夏期は特に暑い地区でもあり冷房の設備の必要性や、また職員の定員は患者一人に対し一・五乃至二名であるとのこと、少なくとも一:一の必要性を要望したものであったが、到底叶えられそうにもなかったので初めは辞退した。しかしこれは重障児を収容するというそのことを嫌ったものではなく、引き受けても充分なことができない限り却って申し訳ないと考えたからに外ならない。福岡東病院においても辞退したようであるが、思うにみな同様な考えからではなかったろうか。当時福岡東病院の梅本三之陵助は九州地方医務局の医療専門官を兼務していたので、片や勧告すべき立場であり、片や辞退したい立場であり、板挟みとなり、さぞかし困却したであろうと思われた。この様なわけで当初昭和四一年度の整備計画から九州地区は外された。さらに成瀬の資料によると、「一一月二六日松本楼で本省主催の施設個別折衝があった。ここで国立療養所課、整備課より受け入れの可能性について質問を受けた。昭和四一年一月六日の夕刊によると、大蔵省原案で重障児施設は全国に三箇所と発表。一三日夕、七時のニュースで全国一一箇所に決定と再発表があり、一四日に決定の報を受けた」と述べている。
 かくして昭和四一年度の整備予算がつき昭和四二年二月頃より患者収容を開始、その後毎年施設整備がなされ、その後毎年施設整備がなされ、昭和四九年度までに七六施設七五二〇床の整備が行われた。」(保坂・阿部[1976:258-259])

 そして年度別整備状況の表が付される。以上、細かな話を長く引用し、多くを略し、先送りにした。次回は、コロニー設置の動きとそれに対する反応等を紹介するところから始める。

★06 青い芝の会の横塚晃一(cf.立岩[2015][2016])もいっとき整肢療護園にいた。
 「横塚は一九三五年一二月七日生。[…]五二年六月に整肢療護園(東京都板橋区)に入園、小学六年に編入され、五三年三月、小学校卒業。同級生だった矢野龍司によれば、その園の子供会の会長を務めた、また将棋が強かったという。同年四月、中学校入学、五四年一二月、児童福祉法適用切れにより整肢療護園を退園、以後、不就学。この時一八歳、児童福祉法は基本一八歳の人までの法律だから退園ということだが、その時、学校二年で学校も終わりということになる。[…]/整肢療護園は全国にできていくが、東京のそれは最初のもので、医学者によって作られ、治療が目指された。「脳性麻痺には脳性治療を」という標語もあったらしい。関係者によって『脳性麻痺の治療』(小池文英・保田良彦、一九六六)といった本も出されている。ちなみに今日に至るまで脳性麻痺はなおらない。ただなおすための営みは引き続き行われ、私(一九六〇年生)が直接に話を聞いた少し上の世代やほぼ同じ世代の人たちも親に連れられそうした施設に暮したり通ったりして、いろいろと痛い目にあった、それで良いことはなかったという話を聞いたことはある。」(立岩[2015])
 整枝療護園の歴史についてウェブ上で読めるものに整枝療護園[2012](実際には著者名は記されていない)。小池の追悼文に、水野[1983]、坂口[1983]、津山[1983]。後二者が掲載されている雑誌の当該号には「小池文英先生略歴」もある。」


今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162166.htm


UP:201606 REV:
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