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六〇年代前半:「重心」&筋ジス(国立療養所・3の4)

「身体の現代」計画補足・165

立岩 真也 2016/06/13

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 一九六〇年代前半のことについて『生の技法』
http://www.arsvi.com/ts/2012b3.htm
でほんのすこし書いている。「流れ流れて、的」連載でここらへんにはまってしまっている。昨日送った第125回の原稿でもこの続きを書いている。
 今発売中の『現代思想』6月号(特集:日本の物理学者たち)
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#06
に掲載されているのは「国立療養所・3――生の現代のために・13 連載・124」
r>  こまかに書いているときりのない話を縮めるために、使っている文献については長めに引用したものを別途HP
http://www.arsvi.com/ts/20160124.htm
から読めるようにしてある。


 「■六〇年代前半の動き
 施設長が、重症身心障害児の受け入れについて、また筋ジストロフィー児の受け入れについて書いている文章がある。総論としてよいこととしながら、人員配置の面等で難色を示しつつ、しかし「本省」の意向もあり、なにより結核の入所者が減っていく中で受け入れざるをえなかったという筋になっている。そしてその手前で、作家水上勉の「拝啓池田総理大臣殿」(水上[1963a])の影響があり、親の会の運動の影響があったことが、既に一九七〇年代、定型化された語りとして語られる。「結核編」の筋ジストロフィーの項でも西多賀病院――この仙台の病院が国立療養所では初めて筋ジストロフィーの人を受け入れた――の当時副院長の湊治郎、同院の浅倉次男がそのことを述べている。

 「国立療養所への筋ジストロフィー児の収容は、異例とも思われる早い速度で実施に移された。これには、厚生省当局をはじめ、発足した親の会の並々ならぬ努力が大きな力になっていることは言うまでもない。しかし、すでに知られているように、昭和三八年六月中央公論に「拝啓 池田総理大臣殿」という題で公表された作家水上勉の文章、およびそれによって澎湃としておこった日本全体の福祉への目覚めが大きな影響をもっていたものと思われる。」(湊・浅倉[1976:282-283])

 同じ「結核編」に収録されている同じ西多賀病院の当時の院長保坂武雄、同院の阿部幸泰の「重症心身障害児(者)の医療」(保坂・阿部[1976])の「国立療養所が重症心身障害児(者)を収容するにいたるまでのいきさつ」では以下。この時期に起こったことの簡潔な要約にもなっているので、すこし長く引用する。

 「昭和三六年五月一日に重症心身障害児を収容する施設として、島田療療育園が開園された。日本における重障児はそれまで、全く野放し状態におかれていたと言ってよい。昭和三二年頃、東京の日赤産院には重症欠陥児(現在の重障児)が二〇人も入院していた。治療効果があがらないこれらの患児は当時健康保険の対象外とされ、行き場所のないこれらの患児をかかえた産院の小林提樹小児科部長は、これらの子供を救うためには、特別な施設を作るより外に方法はないと考えていた。小林は昭和三三年重障児を持った島田伊三郎に病院をかねた収容所を作ることを説いた。この考えに同意した島田は財産の殆んどを投じ、都下の南多摩郡多郁多摩村に一五〇〇〇坪の土地を求め、収容施設の建設に着手しようとした。しかし折からの不景気に見舞われ計画も危ぶまれたが、二人は有力な政・財界の人々を動かし、三三年一一月に日本心身障害児協議会を発足させ、一五〇〇万円の予算で島田療育園を設立することにこぎつけた。昭和三五年一〇月日赤産院を辞し、三六年五月一日ようやく島田療育園が開園することになった。
 昭和三八年「中央公論」六月号で、作家水上勉が重障児をもつ親の立場から「拝啓池田総理大臣殿」の書翰を発表し、時の政府に訴えた結果同誌七月号で池田総理に代って黒金官房長官が「拝復水上勉様」を発表し、今後重障児の問題の解決に努力するという異例の解答があった。これがきっかけで重障児の間題は一躍社会の脚光をあびることになった。/また同年七月、厚生省は「重症心身障害児の療育について」の次官通達を出し、早い速度で法的裏付けに近づける努力を示した[…]★05。
 一方諸団体は、昭和三九、四〇年度の国家予算編成に対する重点項目として、重障児対策を入れてもらう運動を行った。
 三九年六月全国重症心身障害児(者)を守る会が発足し、同月全国大会を開き、国の重障児対策の貧困を社会に訴え、大きな共感と支持を受け、政府自ら国立の重障児施設や、心身障害児(者)のコロニー設置を約束するまでになった。これが四一年度国家予算に国立重症心身障害児(者)施設一一箇所五二〇床をもりこむ原動力となった。」(保坂・阿部[1976:254-255])

★05 「その施設入所基準は、/1.高度の身体障害があってリハビリテーションが著しく困難であり精神薄弱を伴うもの、ただし盲またはろうあのみと精神薄弱が合併したものを除く/2.重度の精神薄弱があって家庭内療育はもとより重度の精神薄弱児を収容する精神薄弱施設において集団生活指導が不可能と考えられるもの/3.リハビリテーションが困難な身体障害があり、家庭内療育はもとより肢体不自由児施設において療育することが不適当と考えられるもの」(保坂・阿部[1976:255])」


今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162165.htm


UP:201606 REV:
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