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『国立療養所史』における全患協→全療協(国立療養所・3の2)

「身体の現代」計画補足・163

立岩 真也 2016/06/09
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 「国立療養所・3――生の現代のために・13 連載・124」という文章。
数字が多くてもうしわけありません。以下はその回のその2。この回については
http://www.arsvi.com/ts/20160124.htm
 それは『現代思想』の連載の124回。発売中の6月号(特集:日本の物理学者たち)
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#06
に掲載されている
 ハンセン病については
http://www.arsvi.com/d/lep.htm
文献表充実しています。藤原信行さんが作ってくれたものと思います。


 「そして入所者たちは身体・生命を賭して、また賭された側から見れば利用して、動いた。他方、経営者は管理し生命を護る立場、監督し保護する立場にいる。うまく事態を収拾できないのは腕がわるいということにもなる。いくらか対応せざるをえず、ときに妥協し、入所者たちの言うことをいくらか聞くこともあった。
 次に、入所者(の組織)と労働者(の組合)との関係について。両者の利害はいつも一致しているわけではない。国立療養所でどうであったかは今見ている文献には出てこないが、労働者の利害と利用者の利害が衝突することはありうるし、実際に対立が起こることもある。職員・労働者による処遇がよくないからそれに抗議し、それに対して組合が職員を護る立場に立つといったこともある。もちろん他方では、それは強いられた対立であり、要するに政府が金を出すべきなのに出さないのがよくないのであり、政府に対して共に行動し要求しようということになることも多々あるし、その捉え方は間違っていないのだから、共闘した方がよいのではあろう。ただすべてがこうした構造のもとにあるのではない。ときには利用者と労働者が一緒であることで言いたいことが言えないこともありうる。
 国立療養所にあったのは入所者の転換を巡るいくらかの異なりだった。労働者が求めるのは、まず職が安定することであり、入所者が変わることを常に否定するわけではなかった。しふしぶ、ときに積極的に受け入れようとすることがあった。第一二一回(三月号)で、松籟荘(奈良県、現在は独立行政法人国立病院機構やまと精神医療センター)の労働組合が(全医労は反対だったが)「精神」の施設になることを受け入れたことを紹介した。また、職員からどんな入所者でも受け入れるからと言われて、「本省」の会議で重症心身障害児の受け入れを表明した療養所があったこともあとで見る。
 施設から出ることをまともに志向するなら、入所者と施設側とはさらに違ってくるだろう。ただ実際には、結核療養所の入所者は生活の条件をよくすることを求め、療養所から追い出されることに反対した。日本の患者運動は、集められてしまった人たちから、集められてしまったから始まった。環境をよくすること、わるくなることがないように運動するのは当然のことだった。ハンセン病療養所にも結核療養所と似た性格があった。むしろその生活の場を護ろうとする志向はより強かったとも言えるだろう。運動は、施設があった上でその実際に対して抗議し、要求する運動としてあった。
 全患協は結成当初、一九五三年のらい予防改定に反対する強い闘争を展開する。そしてやがて、ずいぶんの時間が経った後のこと、そして全体に統一された意志があったわけではなかったのだが、らい予防法廃止の方向に動く。それとともに、廃止までの長い時間、また廃止の後も、その場に留まらねばならないその度合いは大きかった。結核のように入所者の急激な減少と大きな転換に翻弄されるということにはならない。反対した法は通り、そのもとで療養所で暮らすなかで獲得すべきものがあった。例えば、プロミンの獲得闘争については、必要なものは必要なのだから、経営者側も含め、対立が起こることはない。労働者も経営側も支持する。そうした闘争は、いくらかを得ることになる。そして社会復帰についても、誰も反対しない。支持し支援する。ただ、期待するほどそれが進むことにならなかった。施設を出るのが困難な人が残り、そして高齢化していく。ゆっくりとした長い衰退の期間、社会復帰をよいこととしながら、皆が療養所を護ろうとする。
 結核の場合には、その入所者が大幅に減っていく中で、入所者と労働者は転換せざるをえないという流れに対する抵抗勢力であったのに対して――ただ、後者は必ずしも転換に反対したわけでないことはさきに述べた――ハンセン病療養所の場合は、別の施設にしていく、せざるをえなという流れはなかった。多く人里離れた地にあったという地理的な条件によって、そしてそもそもが閉鎖された空間であったこと、そして「偏見」もあって、その全部にせよ一部にせよ、別の人たちのために使うことにはならなかった。ハンセン病の施設は『国立療養所史』のなかでも別扱いという印象を受ける。
 その空間は、多くの人が残り、緩慢に減っていく中で、ともに護っていくものであったかもしれない。すくなくとも『国立療養所史』の「らい編」の中には、前回見たような、経営者たちにとって入所者がひどく厄介な存在であったという類の回顧はなく、書き方はそれほど敵対的ではない。まずこの巻全体が、「結核編」「総括編」の五分の一ほどと分量が少なく、その巻の四分の一ほどは年表である。その中で一つ、長島愛生園長の高島重孝による年表の「まえがき」は次のように終わっている。高島(一九〇七〜一九八五年)は、施設内の組織に敵対した光田健輔の後、五七年から長島愛生園長。なお所長連盟は「国立らい療養所所長連盟」(一九六一年結成)。

 「七〇年代は社会福祉の時代に移行したものと考えるが、一方、新発生減少、若き軽症者の社会復帰の結果は、入所者の考齢化を招来し、患者作業の返還、不自由者生活介補の職員切替え等の園内再編成と同時に世界的経済混乱の下にあって、医師および看護婦不足に対応する療養所の内部事情は、深刻な苦悩をかかえてはいる。時難にして英雄現わる。療養所の優雅なる終未期を、花の如く飾り、いやしくも内部崩壊のみじめさを露呈することなく、美しき落日を迎えるためには、まず内部の自助的工夫があって、はじめて厚生省との渾然一体となった効果を発揮するものと思うもので、近時衣食足って礼節を知るたとえのとおり、全患協、所長連盟ともに医務局当局と相互信頼関係が成立していることを慶賀するものである。」(高橋[1975;10-11])

 もう一つは菊池恵楓園の植園八蔵による文章。やはり短い文章のその終わりの部分。

 「一九五一年には、患者の全国的団体である全国患者協議会も発足し、患者福祉の充実をめざす活動を開始し、プロミンの効果をふまえてのらい予防法改正運動も起ったが、一九五三年に患者の猛烈な反対運動に抗して成立した新しい予防法は、あい変らず隔離主義に立脚したものであった。
 しかし現実は、法の壁を越えて進み、社会復帰論議も盛んになり、社会事業各法も療養所の垣根を越えて適用されるようになり、一九五九年には国民年金の受給も始まった。[…]戦後間もなく生活保護法から切り離されて支給され始めた慰安金は、当初しばらく生保基準を越えて支給されたが、間もなく基準以下に落ち込み、らい福祉の貧しさの例とされたが、一九七〇に大幅に改善きれて生保基準のほぼ三倍に達し、この面でのらい福祉は、難病に、あるいは貧困に若しむ階層の牽引車としての期待をかけられるまでになった。」(植園[1975:92-93])」


今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162163.htm


UP:201605 REV:
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