立岩真也「「先端研」という場があること:『生存学の企て』序章7――「身体の現代」計画補足・155」
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「先端研」という場があること:『生存学の企て』序章7

「身体の現代」計画補足・155

立岩 真也 2016/05/16
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1727261784207468

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有吉玲子『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』表紙    立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙    『生存学』9・表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』の紹介の7。
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
この生存学研究センター編の本、私はその「序章」と「補章」を書いた。「序章」を紹介している。
 第6回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162154.htm
 そこで紹介したのは有吉玲子『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』だった。この『企て』では第1章で取り上げられている。そこを紹介する時にまた紹介するが、よい本です。どうぞ。
http://www.arsvi.com/b2010/1311ar.htm
 今回は第7回。そこに出てくる「先端研」という大学院の研究科は年に2回、9月と2月に入試があって、それに合わせて入試説明会がある。9月入試の前のは5/26(衣笠)・6/5(茨木)・6/26(衣笠)。
http://www.r-gscefs.jp/?p=124
 また私見あり不正確なところもある情報古い情報は
http://www.arsvi.com/u/gsce.htm
 なお前期課程(修士課程相当)の学費、来年度からこれまでの半額強に値下げになるらしい。


 「□場があること、実際、多様であること+密度があったこと
 だから、一人で勝手にやってもかまわない、それはそうなのだが、動きや集まり、場があった方がよいことがある。どのように、ということがある。既に十分に調べられ書かれていることを繰り返す必要もないから、どこらへんに「あき」があるか、どんなやり方がまだ試されていないかを知っておく必要もある。それも一人でできる人もいる。だが他人がいた方がより効率的にその辺りがわかる、無駄な力を使わずにすむということがある。
 ある人とある人と、気になっていることが共通するが違う、違うようで共通するところがある。自分が気になっていること、それに関係するが別の流れのことを知っている人がいると、それを教えてもらったりできる。論文になっていればただ読めばよいともいえるが、じかに話を聞いたり話ができた方がよいこともある。
 このこと自体はあたり前のことだ。ただ、それと加えて、効率的に一つを定めるというのと別の、ときに逆の、しかし結局は役にたつ、そんなことが、場、たんなる場でなく多様性をもつ場には起こる。違うもの、対立するもの、多様であるものが現実に併存する場があることに意味がある。
 このように言うのは、実際そんなことが起こってきたからだ。誰が「生存学」なるものをやっているとか、どこでやっているとか、そんなことはまったくどうでもよいのだが、本書に集められたのは、すくなくともいっとき、同じ場にいた人たちの書きものである。本書は、「学」の紹介というより、まずは京都にある小さな場に関わって書かれたものの紹介だ。「生存学研究センター」というものがある。それと別に、学部をもたない、「先端総合学術研究科」という、意味不明な名称の研究科が立命館大学にある。「センター」は本書補章に記すいきさつがあって作られたものであるとともに、その大学院に来た人たちがいて、それで始まったところがある。
 たぶんその研究科は、とくにえりごのみはしていない。すくなくとも私は予め書ける/書けないの判断などでできない。ものを調べ考え書くための場所であるからには、その「もと」は持って来てほしいと思うだけだ。それでも、やってみてうまくいかない人は必ずいる。それは仕方がない、途中退場となる。それだけのことだ。当初思っていたのと違うことをすることになったり、やり方を変える人もいる。そこから「成果」は一定の割合で生まれる。
 それだけなら普通の「学びの場」というだけかもしれない。ただまず一つ、「えりごのみをしない」という時、それはどんな性格だとか思想信条だとかを問わないという当たり前のことがあるが、もう一つ、学問領域的な制約・制限が(コアな自然科学系は現在の教員配置的に無理だが)ないということである。「学際的」という語はもう長らく空疎な言葉でしかないが、なんでもよい、というのはよいことだと思う。
 そして入り口がなんでもよいという条件にもかかわらず、というかその条件ゆえに、ある「偏り」がその研究科には生ずることになった。どこかにたまっていた欲望があって、最初に引用した応募書類に書いてあるようなことをやっている人たちがたくさん来ている、これからもやっていくからお金がほしいという、一定の「かさ」と密度をもつ場が形成された。
 そのお客たちを3種類に分けることもできる。[…]」


 今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162155.htm

 第1回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162140.htm
 第2回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162143.htm
 第3回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162151.htm
 第4回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162152.htm
 第5回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162153.htm


UP:201605 REV:
『腎臓病と人工透析の現代史』  ◇『生存学の企て』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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