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戦争中の日本医療団/戦後の軍事保護院の解体移管(四五年)

「身体の現代」計画補足・143

立岩 真也 2016/04/15
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1714904035443243

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『生存学』9・表紙    『現代思想』2016年4月号 特集:教育サバイバル・表紙    立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙    横田弘・立岩真也・>臼井正樹『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『現代思想』4月号の特集は「教育サバイバル」」。
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#04
しばらく、断続的に、この号に載った「国立療養所――生の現代のために・11 連載 122」
http://www.arsvi.com/ts/20160122.htm
から引いていますが、時々なので、時間かかります。雑誌買ってくださいませ。


 「■戦争中の日本医療団/戦後の軍事保護院の解体移管(四五年)
 こう整理もできるが、もう少し様々はあったようで、補足しておく。まず国立療養所の成立について。もともと国立の施設が多くあったわけではない。まず政府が関わったのは傷痍軍人の施設だった。軍の施設が国立であるのは当然のことではある。
 そして結核の対策が必要とされ、各地に公営のもの等が設立されていった。それら種々の施設は、一九四二年の「国民医療法」に基づいて設立された「日本医療団」に属する組織になった。これは戦時下で種々が国家やそれに翼賛する組織に束ねられていったことと軌を一にするのかもしれない。ただ、この組織も、戦時下にあって、実際にはそれほど統制された組織ではなかったようだ。すでに戦況は厳しく、そんなことができる状態ではなかった。当時の豊福園(熊本県、もとは県立)の園長前田勝敏は、戦後のこと、そして日本医療団の施設が果たした役割を、「日本医療団の解散は、マ司令部の日本占領政策から当然発生され出たものであったと思われる。戦争の帰趨が略々解り、国民生活が劣悪化して来た時代に、あれだけの病床と全国的組織を作り上げていた事は、測らずも戦後必ず予想される結核患者の激増の処理に大きな効果を上げたことは間違いない」(前田[1976:163])と述べた上で、その手前について、次のように記している。

 「戦中、戦後の混乱の中に、患者の治療と保護に私等は精魂を傾けた丈けで、中央との連絡は殆どとれなかったし、わざわざ県支部を相手に経費の捻出にひどい苦労をした。支部の組織は、県知事が支部長であり、衛生課長が参事、その下に数名の副参事がいるという小さい世帯で、その点は国家機関であった軍事保護院とは大分趣きを異にしていたと考えられる。」(前田[1976:163-164])

 そして戦争が終わる。占領軍として傷痍軍人施設をそのままにさせることはない。一九四五年一一月一三日、連合国軍最高司令部の覚書。「日本政府は、軍事保護院のあらゆる病院、療養所、患者収容所その他病院施設の監督権を厚生省の一般市民の医療に責任を負う機関に移管すること、およびこれらの諸施設において行う入院医療は、退役軍人およびその家族に限定しないこと」。同年一一月一九日、連合国軍最高司令部の陸海軍病院に関する覚書。「日本政府は、内務省が日本陸海軍の全病院、療養所、および他の療養施設の監督権を占領軍司令官より受領した際には、直ちに一般市民の医療に責任を有する厚生省に移管すること、およびこれらの諸施設において行う入院医療は、傷痩軍人及びその家族に限定しないこと」(国立療養所史研究会編[1976c:124])
 ここに内務省と記載されているのは、その当時、占領軍が接収した旧軍施設の返還引渡および処理については、責任官庁として内務省が指定されていたので、いったん内務省に引渡されたものだという([1976c:124])。覚書を受けた政府は、四五年一二月一日、医療局官制(昭和二〇年勅令第六九一号)を制定、厚生省の外局として医療局を新設。そして、移管を受けた傷痕軍人療養所五一箇所に保育所二箇所、それに陸海軍病院一一九箇所、同分院二七箇所を、それぞれ国立療養所または国立病院として医療局の所管とし、ひろく国民医療を担当する施設として発足させた([1976c:125])。
 こうしてこの日に新しく発足した国立療養所と保育所は概略以下。国立結核療養所三六、収容定員二八七〇〇。国立精神療養所二箇所、収容定員一三〇〇。国立頭部療養所一、収容定員五〇〇(下総診療所)。国立せき髄療養所一箇所、収容定員一〇〇(箱根療養所)。国立温泉療養所一〇箇所、収容定員九二五。国立らい療養所一箇所(駿河療養所)。国立保育所二箇所([1976c:125])。ただ、以上は軍事保護院から所管が移ったものであり、もともと国立だったハンセン病施設については、沖縄の国頭愛楽園、宮古南静園と鹿児島奄美大島の奄美和光園の三施設は連合国軍の軍政下におかれた以外の九施設が、予防局から医療局に所管が移り([1976c:134])、右記した国立療養所となった駿河療養所が加わり、合わせて十箇所。
 さきに引用した四五年一二月の覚書、そして「総括編」での記述でも傷痍軍人に限らない旨記されていたが、実際に「一般国民」を受け入れるようになったのは四七年七月頃からだという([1976c:175])。四五年一二月から五〇年末までに各国立病院療養所に二三四三名の「一般法人引揚患者」を収容したといった記述もある([1976c:175])。さきの秋元の文章では「当時の国立医療機関の任務は、外地から送還される旧軍人および引揚者のなかの傷病者の救護であった」とあった(秋元[1976:40])。


 今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162143.htm


UP:201604 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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