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親の運動:筋ジストロフィー/重症身心障害児(生の現代のために10・5)

「身体の現代」計画補足・126

立岩 真也 2016/03/03

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『現代思想』2016年3月号 特集:3・11以後の社会運動・表紙    『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙    『流儀』 (Ways)表紙    『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか――世界的貧困と人権』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『現代思想』3月号の特集は「3・11以後の社会運動」。
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#03
 その号に載っている連載第121回の関係の5。
 第120回から書いていくものを大幅に組み替えるなりして、一つにまとめようと思った。それで文献表もそれ用に別立てのものを作り出した。
http://www.arsvi.com/ts/20160120b.htm
また『現代思想』連載3月号分(連載第121回)用のページは
http://www.arsvi.com/ts/20160121.htm
 以下で「こうして」という、その前回は
http://www.arsvi.com/ts/20162125.htm
 また以下の解説?は別途(次回?)。


 「■(2) 親の運動:筋ジストロフィー/重症身心障害児
 こうして戦後すぐに盛んになり、後の運動にもつながることにもなった結核やハンセン病の運動は大人の、そして(政党が関係しつつも)本人たちの運動だった。それに対して、「重症身心障害児」、そして筋ジストロフィーの人たちについてまず起こったのは、一九六〇年代に始まる親たちの運動だった。加えれば、精神障害者についてもまた知的障害者の運動についても、大きな組織は家族会、そして全国組織としてはその連合会として始まり存続してきた(なくなってしまったものもある)。それらは、今あってなくなりそうなものを守る運動と異なり、何もないところに新たに作る(作ってもらう)運動でもあったから、より多く、その手段として、予算を左右できる有力な政治家への陳情というかたちをとることになる。そうした性格がとくに強かったのは重症身心障害児の親の会だった。他もおおむね政治的には中立の立場をとったと言ってよいはずである。(1)が権利擁護の運動、大きな流れに抗する抵抗勢力の動きであったとすれば、こちらは懇願する運動だった。そしていったん施設に入れてもらった親たちにしてみれば、子は「人質にとられている」ということにもなる。不満はあっても、すくなくとも個別には、そう強いことは言えない。施設と協力関係を維持ししつ、組織としてその改善を求めるということになる。
 その親の会の運動は、家族の重い負担を軽減することを当然のことながらめざすものであった。ただ、そこにも一定の地域差があった。別記するが、筋ジストロフィーについて全国組織と、比べれば在宅支援がいくらかはあった東京都の組織とが別の方向をとるのもこのことに関わっている。(このことと、その三〇年後、介護保険の対象に難病者も入れてもらうことにするか否かで対立が起こったのと、同じ要因によることも後で説明する。)ただ大きな流れとしては施設を作り、増やすことを求めた。本人の悲惨と家族の悲惨がときに渾然となって訴えられた。家族の悲惨は苦労話として、あるいはそこに出入りした看護師や保健師の報告において語られ、本人たちの悲惨は写真・映像によって、そして筋ジストロフィーについては本人たちの詩文などによって知らされることになった。
 そしてこれと国立療養所の転換が絡んだ。精神病院が「私宅監置」(のすくなくともある部分)よりましであったのとされるのと同様に、在宅での厳しい生活に比して、入院できることがよりましなことであったことはあるだろう。それは肯定的に評価される。この国の「難病対策」は世界的にもユニークなよいものであるとされることがある。ただ、同じ疾患・障害をもつ人たちが何十人と集められ、病人として処遇されることになる。筋ジス病棟に特化されなかった時期の方がよかったという回想があることも後で紹介しよう。
 こうして、(1)と(2)とは、国立療養所という同じ場所が使われつつ、いくらか別の位置にある。そして、(2)の運動が始まる六〇年代、そうして奮闘する親たちを、まだほんの子どもであった筋ジストロフィーの人たちは記憶にとどめていて、そのことを書いている。そこにはすこし複雑な思いが描かれる。その本人たちは、その願いと願いに基づく運動を否定することはしない。しかしそうして行くことになった場所、そこでの扱いをそのまま肯定することもできない。この時期多く子どもたちだったその人たちは(1)の、例えば結核療養の、行くところなく療養所にまだ残っている結核療養の人たちを目し、なにか声をかけ、かけられりはあったかもしれない。しかし、年をとり、「社会復帰」できてもよいのに諸般でそれができないそうした人たちと自分たちとは重ならない。劣勢のなかで政府が作ったものをなんとか護ろうという運動と、子のために、子のことで疲れ果てる自らのために、新しい場所をと願い出る人たちとは少し異なる。なにより可哀想なのは子どもたちであり、そのことを訴え真剣に嘆願する人たちの言うことは聞き入れられることがある。それとハンセン病や結核の大人たちのものの言い方、言っていく先はいくらか異なっていたはずである。
 ただ、病院他の施設や在宅のその現場で支援にあたった人の中には、(1)の流れにもいくらか感化され、憲法における基本的人権・生存権を掲げて戦った運動に共感し学んだ人たちもいた。そしてそうした正義の心をもって、病院という場で、あるいは地域において困難を抱える人たちに関与できる立場にある人たちでもあった。とくに一九七〇年代初頭から、看護師・看護学の教員として活躍してきた川村佐和子・木下安子ら(文献は後で紹介する)もそうした流れと無縁ではない。学会などの要職につくと、そう表立ってはその類のことは言われなくなるのだが、初期にはそのつながりを明確にしていた。そうした専門職の熱意ある人たちはむろん頼りにもされたはずだが、「政治的」であることを好まない全国組織のある部分との関係はどうだったか。調べたらいくらかはわかるかもしれない。


UP:201602 REV:

立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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