HOME > Tateiwa >

筋ジストロフィー・続

「身体の現代」計画補足・118

立岩 真也 2016/02/11
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1690674031199577

Tweet


『現代思想』2016年2月号 特集:老後崩壊――下流老人・老老格差・孤独死…・表紙    『ALS――不動の身体と息する機械』表紙    『現代思想』2016年2月臨時増刊号 総特集:辺野古から問う・表紙   
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 「連載」第120回「国立療養所/筋ジストロフィー」
http://www.arsvi.com/ts/20160120.htm
から、第5回。
 それが掲載されている『現代思想』(青土社)2016年2月号、特集「老後崩壊――下流老人・老老格差・孤独死…」発売中。
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#02
 ほぼ同時発売の2月臨時増刊号は総特集「辺野古から問う」
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#02e
 この回でしばらく書いている筋ジストロフィーについては http://www.arsvi.com/d/md.htm
 関連文献(おもに書籍)については
http://www.arsvi.com/d/md-b.htm

 今回(このファイスブックの載せたこの回)のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162118.htm
 ここにも以下に出てくる人、他のページへのリンクがある。

 「■筋ジストロフィー
 […]
 紹介は次回以降になることを述べたが、一九七〇年代初頭から筋ジストロフィー者たちによる書き物がかなりの数現れる。それらとともにその人たちを受け入れた側、政策側の本を合わせて読んでいく。後者には『国立療養所史 総括篇』(厚生省医務局療養所課内国立療養所史研究会編[1976][…])、『国立療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』(あゆみ編集委員会編[1983])等がある。これは基本的に公的な立場で書かれたものであるけれども、そうしたものに、ときに無警戒に、施設経営(者)の実状・実情が記されていることもある――次回、結核から精神科への「転換」をいかに成し遂げたかを正直に書いている元施設長の文章を引くだろう。以下は、六〇年、仙台の国立療養所西多賀病院について『あゆみ』に収録されている文章から。

 「仙台にある肢体不自由児施設、整肢拓桃園の園長高橋孝文先生の紹介で、止むなく引き受けたと言うのが実情であった。[…]昭和三五年と言えば、我が国が漸く戦争の荒廃から立ち上がり、どうにか戦前の生産水準を超えようとした頃であった。民心にも多少のゆとりが見え始めた年代だった。国立病院、療養所は軍や医療団の病院を引きついだもので、団体は大きいが、朽ちかけたバラックが建ち並ぶ殺風景な病院であった。
 […]高橋園長から電話があった。筋ジスで困っている一家があるから西多賀で引き受けてくれないか、と言うのである。私は筋ジスのことは何も知らなかったが、治療法もなく、全身の筋肉が痩せ衰えて死を待つだけの病気だということは知っていた。そこで、治療法もない患者を入院させても意味はない。それこそ、肢体不自由児施設に収容すべきではないか、と答えた。高橋園長は、もっともだが、肢体不自由児施設は収容力が不足していて、厚生省からは筋ジスよりも治療効果の期待できる他の疾患を優先収容するよう指示されている、と知らされた。私は困った。とにかく、酷い事情だから一度両親に会ってくれ、と言うので会うだけ会ってみましょうと言うことになった。ところが会ってみて驚いた。この夫婦には三人の男の子があり、その三人とも筋ジスだった。転勤で九州から仙台へきたものの、どこの病院も学校も受け入れてくれない。その上、当時の保険制度では三年以上同じ病気で保健医療は受けられないようになっていた。もし、私が断ったら一家心中でもしかねないような状況であった。私は考えた。治療法のない病気の子を入院させるのは、医療の面だけを考えるなら無意味である。しかし、国立の病院は国民の幸せを守る仕事の一翼を担っているのである。治療はできなくても入院させるだけで、この一家には大きな光明が与えられるのだ。その上、西多賀にはベッドスクールという、寝たきりのカリエスの子のために、病室へ先生が来て教えてくれる学校がある。入院すれば学校にも行けることになり、友達もできるから、今までの孤独の生活に比べればどれだけよいか分からない。偏狭な理屈にこだわって断るより、入院させるほうがはるかに国民のためになる。私は肚を決めた。」(近藤[1983]、伊藤・大山[2013]に引用)

 この三人の兄弟は山田寛之・山田秀人・山田富也。九州・大牟田市出身。三人ともデュシェンヌ型の筋ジストロフィー者だった。長兄が山田寛之(一九四七〜一九八〇・三三歳で逝去)。六〇年から七五年まで西多賀病院で暮らした。次男の山田秀人(一九四九〜一九八三・三四歳で逝去)は、六〇年から八三年、亡くなるまで西多賀病院で暮らした。そして、山田富也(一九五二〜二〇一〇、五八歳で逝去)は六八年から〜七四年まで西多賀病院、上の二人よりだいぶ長く生きて――やはり後で紹介する――様々な活動をし、多くの本を書いた。この業界では知らない人はいないという人だ。
 この三人兄弟の上の二人がその病院で最初に受けいれられた人であることは『あゆみ』のこの箇所だけからはわからない。いくつかの種類の書籍を並べて、山田たちが書いたものと両方を見ることで、わかってくるところがある。

 「一九六〇年五月、秀人と寛之は仙台郊外の当時の国立療養所西多賀病院に入院した。
 秀人のお母さんたちが、患者を抱えた家族の現状を訴え、受け入れを実現させた。従って筋ジス病棟最初の患者と言われている。
 親たちも、また子供たちも再び元気に退院できるという期待をもっていた。ベッドスクールと称する学びの場もあった。
 しかし、その期待はこの〔一九七一年の〕詩集が出されるころには、過酷な運命となってのしかかっていた。」(ありまのまま舎編[2005:17])

 この時点では「筋ジス病棟」という名称のものはなかったはずだ。六四年、先記したように国立西多賀療養所と国立療養所下志津病院に各二〇ベッドの専門病床を設けるとしたのに対して、予想を超えた希望が殺到し、九道府県の九施設に一〇〇床を置くことにする。そして六五年、国立療養所に限って児童福祉法の育成医療制度が適用される。六七年国立療養所のベッド数は五八〇床★06。
 そして六八年、国立西多賀療養所に初めての筋ジストロフィー専門病棟ができる。。そしてこの年、山田富也がここに入院することになる。このようにして個人史と制度の変遷の一部が重なっている。
 その本人たちの本が出るのが七〇年代の前半以降になる。それらから、そこがどんなところであったのか、いくらかを知ることができる。政策が始まってから一〇年経ってはいない。その時期、幼い時に入所した人たちが一〇代や二十代で書いた文章が現れるのだ。」

 「★06 九一〜九二年には筋ジス二五〇〇床分の予算が計上される。註04に記したことでもあるが、こうした数字の単純な年次推移がわかるのかどうか、既にまとめられているのかどうか、調べてくれるとよいと思う。」

 続く



UP:201602 REV:

立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
TOP HOME (http://www.arsvi.com)