HOME > Tateiwa >

国立療養所

「身体の現代」計画補足・114

立岩 真也 2016/02/03
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1687828651484115

Tweet


『現代思想』2016年2月号 特集:老後崩壊――下流老人・老老格差・孤独死…・表紙    海老原宏美・海老原けえ子『まぁ、空気でも吸って――人と社会:人工呼吸器の風がつなぐもの』・表紙    『現代思想』2016年2月臨時増刊号 総特集:辺野古から問う・表紙   
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 「連載」第120回「国立療養所/筋ジストロフィー」
http://www.arsvi.com/ts/20160120.htm
から、第3回。
 それが掲載されている『現代思想』(青土社)2016年2月号、特集「老後崩壊――下流老人・老老格差・孤独死…」発売中。 http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#02
 ほぼ同時発売の2月臨時増刊号は総特集「辺野古から問う」
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#02e

 「国立療養所史」でこの回で使っているのは「総括編」で、以下にだいぶ長く――連載の毎回分の約1.5倍――引用している。
http://www.arsvi.com/b1900/7610kr.htm
 他に「結核編」「精神編」「らい編」とあって、おもしろい。ただ現在、この回の続き(第121回)を書いているのだが、国立療養所について書くのはすこし先のことになりそうだ。
 そんな昔話をどうして、という説明も連載の中でしているし、していくが、「難病」の人の「現在」について、もちろんそのある部分ではあるのだが、海老原宏美・海老原けえ子『まぁ、空気でも吸って――人と社会:人工呼吸器の風がつなぐもの』(2015、現代書館)
http://www.arsvi.com/b2010/1509eh2.htm
 この本の表紙写真から注文もできる今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162114.htm


 「□国立療養所における変化
 以上が七〇年前後のできごとだ。そこにはまた戻ってくるとして、これからですこし見ておくのは国立療養所(国療)における変化である。国立療養所は結核療養者の人たちとハンセン病の人たちを主要な対象者・収容者とする施設としてあった。ハンセン病の施設の状況は長く変わらなかったが、結核の人たちは減っていく。それを受けて一九六〇年代、国療が新たに受け入れていくのが、重症心身障害(重心)児、筋ジストロフィー児、そして(こちらの数は多くはなかったが)精神障害者だった。このこともまたその「現場」にいた人はみな知っていることだが、大勢としてほぼ忘れられたできごとだ。ここではその事実、経緯そのものを詳しく追おうというのではない。その重心や筋ジスの子たちの収容についてはさすがに「社会防衛」といった言葉は使われない。ただ、基本的な動因は変わっていないのだとも言える。「社会」で、具体的には家庭で、抱えることが困難である人たちがそこに入った、入れられたということだ。そしてこのことは、その子や親たちが置かれていた状態がたいへんに困難であり、そのことに同情が集まり、そして入院体制が整えられていったということとまったく別のことではない。
 京都の宇多野病院の院長も務めた西谷裕★02がその時のことを記している。「国立療養所の再生」という節。

 「全国一五〇ヵ所以上の広大な敷地に建てられていた国立療養所の大部分は、戦前には「国民病」とされていた結核患者の隔離収容が主たる目的であった。それ以来、国立病院が高度医療と救急医療を必要とする一般疾患を扱うのに対して、国立療養所は慢性疾患を主とした不採算な「政策医療」を扱う第三次病院として位置付けられてきた。 そのため特定の慢性疾患にフォーカスを当てて包括医療を行うためのノウハウの蓄積は、一般病院に比べてより豊富であった。しかし昭和二〇年代後半からの国民の衛生状態の改善と抗生物質の発達によって、結核を含む感染症が激減し、脳卒中・がん・心臓病などの成人病が死因の上位を占めるようになると、 結核単科であった国立療養所の多くが新たな対象疾患を求めて生き残りのための模索をし始めていた。
 昭和三六年、このような結核空床が深刻化してきた時点をとらえて、厚生省の療養所担当者達は、当時社会問題化してきた重症心身障害児を収容することを決定した。
 さらに、昭和三九年には筋ジストロフィー協会が時の厚生大臣および医務局長に陳情し、直ちに「進行性筋萎症対策要綱」が策定され、国立療養所に筋萎縮病棟が作られ、 関連大学は大学では得がたいポストとベッドを求めて、若手の向学心にあふれた神経内科・整形外科・小児科の医師たちを積極的に送り込んだ。一方、国は府県立の養護学校を付設し、リハビリを中心にした包括的療育プログラムを作り、同時に筋ジストロフィー症に対する大型研究費を予算計上した。
 この時の川端二男理事長以下の日本筋ジストロフィー協会の政治家へのロビー活動には目をみはるものがあった。また当時神経内科領域の疾患には、スモン、水俣病などの社会問題化する疾患が多かったこともあって、後述する国立の神経センターを作る運動も短期間に軌道に乗り、精神神経疾患委託研究費も順調に増額されていった」(西谷[2006])★03」

★02 西谷は宇多野表院の院長などを務めた。西谷[2006]に収録されている文章は書物に収録されるはずだったもので、その予定がなくなって二〇〇〇年時の原稿の全体がサイトに掲載され(西谷[2000]、ただし文献は略されている)、さらに西谷の単行書に収録されたもの。他に論文・総説を集めたものとして西谷[1994]がある。
 宇多野病院は、『精神病院体制の終わり』(立岩[2015])で取り上げた十全会病院とともに京都の病院だ。十全会病院(の東山サナトリウム)が結核療養者の施設から始まったこともその本で述べた。加えれば堀川病院(早川他[2015])も京都の病院だ。宇多野病院は筋ジストロフィーの人たちを受け入れた。そこに入院した人に関わって研究した人も周りにいて、またそこに務めながら「難病」者の支援をする人にも会ったりして、宇多野病院のことを知ることになった。熱心でもあり、同時に、そこに暮らす人には辛い場所だという話も聞いてきた。長谷川唯による西谷へのインタビュー記録もある。許可が得られればそれを使うこともあるかもしれない。
★03 […](→『現代思想』どうぞ)」

 続く


UP:201602 REV:

立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
TOP HOME (http://www.arsvi.com)