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社会防衛のこと・10

「身体の現代」計画補足・111

立岩 真也 2016/01/27
https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/692165443835039747

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『現代思想』2016年1月号 特集:ポスト現代思想・表紙    『希望について』表紙    『私的所有論  第2版』表紙    『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 「連載」第119回「加害について少し」
http://www.arsvi.com/ts/20160119.htm
から10回め。
 それが掲載されている『現代思想』(青土社)2016年1月号、特集「ポスト現代思想」は今売っている。
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#01
 今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162111.htm
 註に「雇用において生じる「確率的差別」をどのように考えるかについては立岩[2001]」とあるその立岩[2001]は『希望について』に収録されている。
http://www.arsvi.com/ts/2006b1.htm

 「■範疇・確率
 では、すくなくともいくらかの部分は免責されあるいは軽減されて、そのままということになるか。なっていない。
 一つに刑に問われることがない(ことがある)という理由と、そして(とくに精神)障害者は犯罪を行なうことがあるという理由によって、呼ばれ方は様々であるとして、それに応じた対応が主張され、そしてこの国に限らず実現されている。
 このことをどう考えるか。抑止のために刑罰を使うこと自体が全面的に否定されることはあまりない。すると問題は、一つに既に行なった、しかし刑事責任を問われなかったことに対する対応、行ないということになる。さきほどの、他の人と同じに扱ってくれという言葉も、そうして周囲にわだかまっている怨念を受けてのものである部分があるかもしれない。ただそれでも、行なったことがそれで終わりになるのであれば、さほど気にされることはないだろう。結局「再犯(の可能性)」が問題になる。あるいはまだ何もしていないとして、将来の可能性が問題になる。
 それに対して、一つに、人々が報道から受け取ったり、少なからぬ人が公言したりするのと異なり、精神病者障害者は危険であるという事実認識が間違っていることが言われ、それが繰り返されてきた。実際には精神病者障害者の犯罪率は低いことが言われる。これは統計的な事実である。事件が起こってコメントを求められたりする時「犯罪社会学者」が必ず言うのがこのことだ。にもかかわらずどれほどその認識は共有されているのか★06。となるとこのこともまた何度でも繰り返す必要のあることになる。ただ、その仕事もまたやってもらえている。繰り返しは必要だとしても、わかっていることではある。こちらは理屈の続きを追うことにする。
 統計的に危険でない、むしろ平均を下回っていると言う。すると精神病者障害者全般、そして犯罪全般についてはそのように言えるとして、ある範疇の精神病・神障害について、ある範疇の犯罪、例えば「凶悪」な犯罪については、そうでない、統計的な有意差があるといった反論が返される。これは理論的な主張だが、医療観察法成立・実施に至る実際の流れもはそうした力のもとにあったはずだ。つまり、一方で「地域移行」を促進したいという本気でまじめな人たちがいる。そしてそのためにも、ごく一部の「触法」の人たちを別立てで扱おうという流れがあった。その過程を後で示せるだろう。
 するとそれに対してさらに、精神病・障害のなかで加害性が高い部分を取り出してそれをまとめているのだから、その部分について確率が高くなるのは当然のことだといったさらなる反論が続くことになる。さらに、安全な精神病者障害者とそうでない人たちを分けるという「分断策」に対する――これにもいくつかの成分があるのたが――懸念が示される。こうして応酬は終わらない。
 そして、こうしたある範疇の人を対象とした事実やその解釈とは別に――ただ多くの場合にはそうした統計の結果が援用されるのではあるが――ある人について、罰せられたにせよ罰せられなかったにせよ、過去になした行ないに関係する要因がその人にあるとされ、可能性が高いと判断できることはある、とくに深刻な帰結が予想される場合には措置は認められてよいと言われる。
 それに対してなされてきた批判は、一つに、どんなものであれ予測によってなされることに対する批判だった。確実でないことについて人に害を与えるのはよくないと言われる。
 しかし全面的に予測による行ないを否定できるかとなれば、そうはっきりと否と言えない部分も残る。人は実際そのようにして行動しているし、そのことがとくだんに問題にされるわけではないと言われる。行為は(たいだいきわめて大雑把なものではあるが)確率の計算によってなされる。それは未来に対する行ないである以上は仕方のないこと、むしろ当然のことである。このように返される。
 そして他人に対する行ないについてもそれは言える。先のことなど確実にわからない。それでも人を採用するとしよう。その時、相関の値がそう高くなくとも、業績と関係のありそうな属性を見て、それによって採用・不採用を決めるといったことがある。「統計的差別」(立岩[1997→2013a:610-611])と呼ばれるものだ。そうした「差別」を完全になくせるとは思われない。しかしそれが正しい行ないであるかと考えるなら、やはりそれは違うとは言えよう。
 人は統計的差別をしやすい。しかしだからこそ、法はそのように対してならないのだと言うこともできる。強制力をもって禁止するべきであるということである。私は雇用に即してこのことを考えたことがある★07。基本的にはそのように考える。
 それでも、ではどうするかとさらに問われるだろう。これまで言われてきた様々を言った上だが、「現場における加害」に対する対応という方向でかなり行けるのではないかと私は考えている。このことは別途説明する。
 以上ひとまず、加害についてこれまで言われていることと同じこと、加えて少し言えそうなことを述べた。ここまでを述べておいて、次回以降、前回の「計画」に沿って書いて行く。」

 「★07 雇用において生じる「確率的差別」をどのように考えるかについては立岩[2001]。禁止されてよいこと、しかしそれはそう簡単にはうまくいかないことを述べた。」
 まだ続く(次回で終わる)。


UP:201601 REV:

立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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