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社会防衛のこと・9

「身体の現代」計画補足・110

立岩 真也 2016/01/25
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1684719751795005

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『現代思想』2016年1月号 特集:ポスト現代思想・表紙    『自閉症連続体の時代』表紙    『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『現代思想』(青土社)2016年1月号、特集「ポスト現代思想」は今売っている。
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#01
そこに掲載された第119回「加害について少し」
http://www.arsvi.com/ts/20160119.htm
から8回め。
 今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162109.htm


 「■免責と免責されても残るもの
 次に、精神状態は、原因とも目されるのだが、同時にそれは免責の理由にもされる。このことについて。
 病気と免責との関係は「病人役割」やパーソンズといった人を持ち出すまでもなく、よく知られていることだ。実際その通りのことは起こる。風邪で会社を休むことは認められる。ただ事態はさらにいささか複雑ではある。しかしそのことが検討されることは少ない。『自閉症連続体の時代』(立岩[2014])で行おうとしたことの一つはその作業だった。
 自閉症(他)が「ただの」脳の障害であるとすることは免責をもたらした。そのことが本人によって自閉症というラベル、脳機能障害という説明が採用された一つの理由であることは述べた。そしてそれはわるいことではない。原因はじつはわからないのだが、すくなくとも、自分のせいや親のせいということではないということになれば楽だ。では免責されでそれでよかったというだけか。それですまないこともその本で述べた。精神障害についても、免責されて楽だと言われ、それ批判されることがあるが、そんなことはない。
 ここで免責や免責にまつわることが起こる場を分ける必要がある。市場他で起こるのは、自閉症だから仕方のないことだとされたり、その「くせ」に配慮したりすることでありうるとともに、解雇したり採用しなかったりすることでもありうる。双方同意によって成立する契約が成立しないということだ。ここでは直接には強制力は働いていない。ただそのような場合に契約を結ばないこと、あるいは破棄することがあることは、法律によって保護されているという構図になっている。ではそのことをどう考えるのかというのがその本の主題の一つだった。
 そして他方に刑事司法の場面がある。ときに誤解されるように、精神障害者であるから免罪されることにもされないことにもなってはいない。あくまでその人のその時の状態が問題にされることにはなっている。その上でも、長らく、免責・免罪が批判されることがずっとなされてきた。そうした反感の成分の分析はまた別途なされたらよいと思うが、なそうとしてなしたこと(避けようとすれば避けられたこと)について責任を負うという帰責の構図に対する全面的で説得的な根拠を有する批判はあまり見当たらない。一つに極端には「詐病」によって、罰せられることから不当に逃げているというもの言いがある。他方に、それが「本物」であるなら、今度は「野放し」にすることになるという懸念が、いくらか報道等における言葉遣いは変わったにせよ、結局のところは変わらず、むしろより強く言われるようになってきている。
 そして、言説として顕在化するのはわりあい近くになってからのように思うが、場合によっては本人が「責任」を引き受けようとすることもある。『自閉症連続体の時代』でも、免責を求め自分にあった処世術を自らも使い他人たちにもそうした配慮を望みながら、すべてを自閉症のせいにはしない、自らが責任をとる(とれる)人間であることを示そうという言説があることもまた見た。精神障害についてもそんなことはある。ここでも――その流れを追うのは誰か別の人の仕事になると思うが――本人が認めつつ、しかも責任を負うという言説もまた見られるようになる。やはり今度の本に想田和弘の映画『精神』を紹介する文章(立岩[2012])を収録したが、そこでもそのように受け取れる「本人」の発言があったように思う。確かには、あるいはまったく覚えてはいないが、「やったのはこの私だ」というのである。こうした言説の連続性と変化についても調べておく必要があるだろう。
 責任を取ろうという気持ちはわかる、それはなされてよい主張ではあると言ってよいはずだ。そうした言説のすべてを否定する必要はない。ただ、これを引き受けないと「一人前」と認めてもえらないからといった動機もまたそこには含まれているように思える。ならば、そのような気持ちにさせている側としては、その「当事者」の言うことをそのままに受け入れるわけにもいかないはずだ。
 結局、「わざと」やった人以外の罪は問えない、状態の忖度は認められてよいだろうと考える。すると、罰を免ずるあるいは減ずるしかなかろうということになる。そしてその場合に罪は問えない。怪しいと思いながら、精神鑑定といったものを底から否定するといったところまではたいがいの人は至らない。基本的な言うことのなさの二つめと先に述べたのはこのことだ。」

 続く。


UP:201601 REV:

立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
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