HOME > Tateiwa >

社会防衛のこと・8

「身体の現代」計画補足・109

立岩 真也 2016/01/21
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1684149371852043

Tweet


『現代思想』2016年1月号 特集:ポスト現代思想・表紙    『私的所有論  第2版』表紙    『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 『現代思想』(青土社)2016年1月号、特集「ポスト現代思想」は今売っている。
http://www.arsvi.com/m/gs2016.htm#01
そこに掲載された第119回「加害について少し」
http://www.arsvi.com/ts/20160119.htm
から8回め。
 今回のHP版は
http://www.arsvi.com/ts/20162109.htm
 以下で「さきに紹介した佐藤の本の書評」とあるのは
http://www.arsvi.com/ts/2005046.htm
 これは『精神病体制の終わりに』に加筆箇所(加筆箇所は〔〕で括って示した)に収録した。ただ上記のURLのファイル(頁)には、雑誌にも本にも載っていない長いメモが付されているので、よろしかったらどうぞ。
 本の紹介・書評をこの本に収録することは当初は考えていなかったのだが、ずいぶんの割合を占めることになった。私が読んで紹介した範囲はごく限られた部分ではあるけれども、世に出るものをどう読むか、見るかに関わり、精神医療だとか精神障害だとか障害学だとか医療社会学だとかにいくらかでも関心がある人にとっては役立つものになっていると思う。


 「■基本的には加えることがないこと
 第一に、人を――まず狭い意味で――害した人を罰すること、負のものを与えることについて。これをまったく否定する人はそう多くはないだろう。そして私も否定しない。
 もちろんそこには何をよくないこととするのかという問題があって、しかじかのもの(例えば同性愛、あるいは麻薬使用の一部)が脱犯罪化され、しかじかは犯罪にされていくといったことはあるが、そのことは知られているし、言われているからここでは省く。ただその境界が可変的であることはもちろん、害とされるものがなくなること、なくなるべきことを意味するものではない。ここではまず、人を殺すとか傷つけるといった行ないのことを想定している。
 それに対応する行ないの一つに罰することがある。そのなかに権力の行使としてなされる刑罰がある。なぜ罰するのか、さらに狭義に刑罰が正当されるのか。幾つかの立場があることは刑法学のあらゆる教科書に書いてある。
 大きくは応報と予防であるとされる。後者(立岩[1997→2013a:373ff.,418ff.])には、(1)刑罰の予期を与えることによって犯罪を抑止する(「一般予防」)という立場(ベッカリーアらの「前期古典学派」)、(3)犯罪の要因を探しその原因と思われるものに介入し改変することによって防止すること(「特別予防」)を主張する立場とがある(「近代派(新派)」、その中で生物的要因を重視するのがロンブローゾ以下、他方社会的要因を重視する人たちもいる)。他方に(2)「応報」を主張する立場がある(「後期古典学派(旧派)」)。これらの間に論争があり、どの立場に立つかによってたしかに幾つかの場面でどのように刑罰の仕組みを構成し運営するか、いくらかは分かれる。
 論者によっては、例えば応報しか認めないという人、そしてそれは応報感情とは切り離された別のものだといった主張を貫く人もいないではない。また、自由意志を巡る議論もあってきた。例えば、(3)は生物学的なあるいは社会的な因果を探しその原因・要因に介入するから決定論的であり、(2)はその本人に「帰責」する根拠として自由意志を要請するから立場が異なる、相反するということになり、その間に論争が起こり、そして続いて、終わらない。
 それでも三者――そして(3)の中でも社会的要因と生物的要因を言う側の間の差は大きい――は併存しうるし、現に併存してきた。我々のごく大雑把な「常識」は、行為が種々の要因・事情に影響されることも知りながら、いくらかは自分でどうかなることをも認めているから、この水準での併存も崩されることはない。
 私は、併存しているというそのこと、その併存の様相、使われ方が重要で、その様相を捉えておくべきことを述べてきた(立岩[1997→2013:407ff.])。それは現在もそう考えており、実際(誰かが)なすべきことであると考えている。ただ、そうした大切な細部を全部省いてしまうと、行為者を罰することの全体はどうも否定できないように思われる。それは「分配的正義」の領域において、自らが産したものを受け取れるというのと構図としては似ている。しかしその生産物の自己取得という構図は否定できるが、とくに人に対するある人の危害についてそのある人が報いを受けることは否定できない。どうしてそう言えるのかの一部を述べたのが『私的所有論』だが★04、その後私はおおむね「分配的正義」に関わる議論を続けてきて、話はそこから進んではいない。結局、大筋では、行なった人が罰せられることを肯定している。既に言われていることと違わないから言うことがないというその一つはここに発している。
 次に、今記したような複数の立場がありつつ、心神「喪失」あるいは「耗弱」といった用語を使うかどうかはともかく、仕方のない事情で、自分が何をしているかわかっていない状態においてなされた行為については、そうした刑罰が免除あるいは軽減されることにも認められているし、それは認められてよいと考える。それが基本的な言うことのなさの二つめである★05。」

「★04 そこで行なったのは、分配されてよいものとされてならないものとの境界を巡る議論だった。それは分配的正義と別の正義(たいがい匡正的正義が対置される)との境界・関係を巡る議論におおむね対応はしている。けれども拙著では、個人への帰責を主張するための根拠を明示してはいない。ただ、「本当の」自由意志・自己制御が現実には存在しないという理由によって、生産者による自己取得を批判しているわけではないこと――ときどきこのことについての誤解を見かける――には留意していただければと思う。なおこの本のとりあえずの英訳版(電子書籍)を、最近ようやく出した。〔まだ出ていない〕
★05 このことを主題にする本の企画に参加しなかったことは、さきに紹介した佐藤の本の書評でも述べた。
 「洋泉社から[…]後に『刑法三九条は削除せよ! 是か非か』(呉・佐藤[2004])となる本に収録する原稿を依頼されたことがある。書けないと思いますが、書ければ書きます、というようなことをたぶん言い、しかし一字も書かないままに時は過ぎ、結局お断りするかたちになった。[…]刑罰や責任のことがよくわからなかったし、いま書いたように様々な障害のことがあまりにわからなかったからだ。[…]佐藤はその本の編者の一人でもあり、一つの章を書いている。」(立岩[2005→2015:364])
 この本で正統的な「非」の立場に立っているのは橋爪大三郎。池原[2011]もその主張を支持している。」

 続く。


UP:201601 REV:

立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇身体の現代:歴史
TOP HOME (http://www.arsvi.com)