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生の線引きを拒絶し、暴力に線を引く

立岩 真也 2016/12/11
障大連・大阪障害者自立セミナー2016「相模原事件を考える−地域での共生を目指して」

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 *以下、依頼されてお送りした資料

・12月11日(日)午前10時〜12時(午後1時から5時まで分科会)
・大阪市天王寺区・たかつガーデン/1000円
 http://www.takatsu.or.jp/access.html
・主催:障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議

立岩真也・杉田俊介 2017/01/05 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,青土社
 ※12月19日販売開始。

 ■序 立岩真也

  ■T 一つのための幾つか 立岩真也

 ■第1章 精神医療の方に行かない

■1 本章に書くこと
■2 事件後述べたこと
■3 脅威に対してまず言われたこと
■4 加えて言わねばならないこと
■5 確率
■6 自傷には関わる余地があること
■7 他害に関わらなくてよいこと
■8 現行犯として刑事司法が対応すべきこと
■9 しなくてよいと言ってもすると言う人たちはいるのだが
■ 註

 ■第2章 障害者殺しと抵抗の系譜

■1 二〇一六年九月・本章に書くこと
■2 一九六二年・『しののめ』安楽死特集
■3 一九六三年・『婦人公論』誌上裁判
■4 一九七〇年・横浜での事件
■5 一九八一年・『典子は、今』他
■6 一九八二年・島田療育園からの脱走事件他
■7 ナチによる「安楽死」
■8 二〇〇四年・もう一つの相模原事件
■9 これから
■ 註

 ■第3章 道筋を何度も作ること

■1 応え方について
 ■1 問われて言うことについて
 ■2 受けなくても、よいことを言わないこと
 ■3 では何を言うか
■2 この社会Tとそれへの対し方
 ■1 この社会T
 ■2 「自己責任」
 ■3 優生思想・安楽死
 ■4 実際には余っておりその処理に苦労している
■3 野蛮な対処法と別の方法
 ■1 野蛮な対処法
 ■2 別の方法
■ 註

 ■U 優生は誰を殺すのか 杉田俊介

 ■討議:生の線引きを拒絶し、暴力に線を引く 立岩真也+杉田俊介

 ■おわりに 杉田俊介

 ■文献表


 
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◆2016/08/02 「七・二六殺傷事件後に」
 共同通信配信
 ※上掲『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』に全文掲載

 安楽死の主張や優生思想・優生主義には種々の意味があるが、他人にとっての損得によって、時に人を生まれないようにし、時に人に死んでもらおうという考えや行いだと捉えたらよい。これは歴史的な事実でもある。
 そしてその他人たち、つまり私たちにはそれを支持してしまうところがある。その方が楽で都合がよいからだ。その「内なる優生思想」を自覚しつつ、とにかく殺すのは駄目だと言い続けてきた人たちの主張を受け止めねばならない。ヒトラーなど持ち出して「とんでもない」と言えばおしまい、にはならないのだ。
 次に、本人のためという言葉を使って、実のところは私たちの都合の良さを実現するのは、優生思想・安楽死思想の常とう手段だ。私たちの都合が大切でないと私は言わないし、言えない。ただ少なくともそれを、本人のためだと、死んだ方が幸せだなどと、「死んでも」言わないことだ。
 容疑者はそれを言う。狂気・妄想でなく間違いなのだ。そしてこの容疑者をどうしたらよいかを説く「専門家」たちが、容疑者と等しくとまで言わないが、乱暴だ、そしてずるいと私は感じる。
 精神医療の充実を、とその人たちは言う。だが何をするというのか。おおむね薬物の投与しかしない精神医療で何かできるようには思えない。そして、薬で、医療でこの間違った思想を直そうというのは乱暴だ。
 結局、医療というのは名目で、監禁しておくために精神科病院を使えということでしかないのではないか。つまり本人のために存在するはずの医療を、隔離のために使うことを支持していることになる。そしてそれに気づいてもいないか、事実を隠している。人や人の未来を評定することの難しさを甘く見ている。この点で、優生主義者と、容疑者と、容疑者を責める人は共通している。
 では代わりにどうすればよいのかと問われるだろうか。私は、死刑制度には反対するが、刑罰全般を否定できる人間ではない。ごく短く言えば、「現行犯」として対処するべきだし、対処できると思う。これ以上の説明はここでは略す。
 そして、それとともに、優生主義を根絶はできないとしても、その勢力を弱くすることだ。そしてそれは可能である。
 一つに、できる人が得をするのは当然だ、できることにおいて価値があるというこの近代社会の「正義」が優生主義を助長している。それをのさばらせないことである。
 もう一つ、優生・安楽死思想は人を支える負担の重さの下で栄える。つらいと殺したくなるということだ。負担そのものをなくすことではできない。だが一人ひとりにかかる度合いを減らすことはできる。するとこの人はいなくなってほしいと思う度合いが少なくなる。


 
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◆2016/09/29 「自らを否定するものには怒りを――横田弘らが訴えたこと」
 『聖教新聞』2016-9-29

※写真は3つ:『われらは愛と正義を否定する』(生活書院)/障害者殺傷事件から2カ月となる今月26日、障害者団体の関係者らがアピール行進を(都内で)/それぞれメッセージボードを掲げアピールを行う参加者ら(同)

□そこで譲ったら終わり
 七月二六日、神奈川県の障害者施設で、一九人が殺され、二六人が負傷する事件が起きた。
 そのときどきのできごとを追うのに忙しいマスコミにはほぼ出てこなくなったが、まだ多くの人たちは記憶しているだろう。そう思いたい。
 事件後、横田弘『障害者殺しの思想』(現代書館)、横塚晃一『母よ!殺すな』(生活書院)がまた読まれている。そして横田と私との対談や臼井正樹の文章を収録した『我らは愛と正義を否定する――脳性マヒ者横田弘と「青い芝」』(生活書院)がこの3月に出た。対談や解説でこれらに関わった私にも原稿の依頼が来た。人が亡くなって依頼があるのを喜べないが、本は読んでほしい。
 横田は重い脳性まひの人で二〇一三年に八〇歳で亡くなった。横塚は一九七八年に四二歳の若さで亡くなった。神奈川県に住んだ彼らは「青い芝の会」という組織で活動した。それが世に知られたのは一九七〇年に横浜で起きた脳性まひの子を親が殺した事件の時だった。親の減刑を嘆願する運動を批判したのだ。
 人を殺してならないのは当たり前のことにはなっている。だが「その上で」様々な事情を勘案するなら、仕方がないこともあるではないか。そんな具合に社会は動く。そして横田たちもその事情を知らないのではない。むしろずっと親を頼って生きてきて親の苦労はよくわかっている。
 けれど、「そこで譲ったら終わりだ、突っ張らねばならなない、自分たちを殺すな」、そう彼らは言った。「愛と正義を否定する」はその青い芝の会の綱領に出て来る。

□深いところで捉える
 たしかにずいぶん乱暴な言葉である。だが私たちの社会では「できること」「できるようになること」が正しいこととされている。その「正義」をそのまま受け入れてしまったら自分たちの存在は否定されてしまう。
 この否定されそうな自分たちを救ってくれるのが「愛」とされる。だが自分たちを愛してくれるのはあくまで相手だ。それは自分たちの生存が相手の気持ちに左右されるということでもある。そんなことでよいのか。
 このように考えてみると、彼らの乱暴な言葉が人間や社会のずいぶん深いところを捉えていることがわかる。
 ある作家*1が高齢者は「適当な時に死ぬ義務」があるが、それが忘れられていると言った。「自業自得」で腎臓病になった人は(公費での)人工透析を受けるべきでないと公言した人*2もいる。
 そこでも「正義」が言われる。緊急の場面で若い方の人に譲るべきだというのも一つの「正義」ではあるだろう。また自分の「せい」で起こったことについては責任があるという「正義」もここにはさまれる。
 しかしそれで何が起こるか。「殺せ」とは言われていない。しかし人工透析を止められたら、透析を必須にしている人は確実に死ぬ。もう一つの高齢者についての話にしても、命に関わる医療を受けるなというのだからやはり確実に人は死ぬ。そして結局のところそれでよいと言っている。

□さまざま知り考えよう
 先の事件では容疑者の異常性が言われたが、その人も正義を実現しようとしていた。実際に殺した殺してないという違いはむろん十分に大きいが、言っていることの中身にはさほど違わないところがある。だからすくなくともその容疑者だけが異常なのではない。まずその「実相」を見すえよ、と横田たちなら言うだろう。そしてそれを正義と言うのか、人の死をもらたすことを正義のもとに言うのか。この青い芝の会の人たちの単純な提起のもつ意味は失われることはない。「直球」を投げることは、今でもあるいは今だから、大切なことだと考える。
 すると今度は「建前」でない「現実」「本音」が持ち出される。つまり、このままでは社会がたいへんだ、きれいごとばかり言っていられないと言われる。あるいは現実と正義が組み合わされる。誰かが退かねばならない状況では長く生きた人が退くのが正しいといった具合にである。
 救命ボート上の極限状況ではそうした正義もありうることを認めてもよい。しかし私たちの社会の現実はどうか。例えば人工透析をしている人たちは三五万人ほどいるという。多くの予算が使われているのは事実だ。しかしその仕事に従事するのに十分な人はおり、機械はあり透析液はある。冷静に見よう。「超高齢化社会」の全体を見回しても、ここでは説明は略さざるをえないが、実はどこにも極限状況など存在していないのである。
 声高に「正義」を語りその論理がおかしいとされると今度は「現実」を持ち出す。おかしなことを言っていることに当の本人たちが気づいていない。だから、異常な人間から社会を護ろうというのではなく、普通にこの社会に存在している価値や現実を捉え、考えることだ。この事件を特集した『現代思想』が発売になった。そこにも読むべき文章が多くある。自らを否定するものにははっきり怒ろう、同時に様々を知り冷静に考えよう。横田たちの本はそう言っている。
 (立命館大学大学院教授)

たていわ・しんや 1960年、新潟県生まれ。専攻は社会学。信州大学医療技術短期だ医学部助教授などを経て現職。著書に『私的所有論』(英語版『On Private Property』『造反有理――精神医療現代史へ』『自閉症連続体の時代』など。

 *1 曽野綾子
 *2 長谷川豊(↓)


 
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■2016/11/25 「長谷川豊アナ「殺せ」ブログと相模原事件、社会は暴論にどう対処すべきか?」(インタビュー:泉谷由梨子)
 『The Huffington Post』2016-11-25

 フリーアナウンサーの長谷川豊氏が書いた「自業自得の人工透析患者は殺せ」とするブログに批判が殺到し、ニュース番組などを降板する騒ぎになった。
 一部の人工透析患者を「殺せ」とする長谷川氏の主張は、命の選別を容認する優生思想的な発想だとする意見や、7月26日に発生した相模原市で障害者19人が刺殺された事件にも通じるとの批判があった。
 長谷川氏は「言葉が過ぎた」として謝罪したが、ハフィントンポストの対談などで、改めて一部の患者に対して、医療が同じように提供されるべきではないと主張した。
 過剰な自己責任論や「本音」に名を借りた暴言に、私たちはどう向き合うべきだろうか。ハフィントンポストでは、老いや病、障害のある人の生存権や社会との関わりについて研究し、相模原事件と長谷川氏の共通性についても指摘した立命館大生存学研究センターの立岩真也教授に話を聞いた。

◇お送りした原稿(実際に掲載されたものとは順番など少し異なります)

――長谷川豊さんの言論についてどう思われますか。

 自分で努力して透析を受けずにすんでいる人がいることは否定しなくてよいでしょう。けっこうなことです。けれど他方で、自分の意思や努力と関係なく、病気になることは多くの人が知っている通りです。まわりの医師から聞いた話として、伝聞でなんの裏付けもない情報を振りまくのはいけない。以上まずは言うまでもないことです。

――仮に「自己責任」がある病気を招いたとして、公的制度から除外されるべきかどうかについては。

 例えば交通事故について、家から外に出なければ事故に会わないとは言えるでしょう。自力で防ぐ方法があって、その方法を採らなかったからといってすべて自分で引き受けよとは、自己責任自己責任とうるさいこの社会においてもなっていないんです。
 その上で、自分で引き受けねばならないとされる場合もあるとして、次に、誰がどのようにそれを決めるかです。だいたい病気ひとつとっても多くの要因が絡んでいてそれをふ分けしていくなど容易なことではない。そして、生活の仕方の多様性を認めるべきだということもある。自制や反省を求めるために制裁を課す、社会は負担しないという場面は狭く限定した方がいいんです。好きなものを飲み食いしてもたまたま健康でいられたら、その人はなんのおとがめもないわけですよね。他方で、人工透析になったら、透析の費用は社会は出すべきでない、つまり死ねということてす。実際死んでしまいます。非常に重い大きな制裁です。そんなことが認められてよいのかと、ほんのわずかでも考えてみればよいのです。
 その長谷川という人はライザップの社長の話を引いてきて、努力しだいで誰もがけっして病気にならないなどといった話をしている。言うまでもなく、端的に間違っており、何も考えていないことがよくわかります。そういう人(たち)の乱暴で粗雑な話になどつきあっていられないのですが、まあ仕方がない。言えばわかる人なのか、それも疑問ですが、言うべきは言っておきます。そんな人(たち)に人の生き死に関わる話をしてほしくないと心底思います。
 倫理学には「救命ボート問題」というものがあります★01。船が転覆して、救命ボートがあるが全員は乗れない、さらにどういう順番で救うか?という思考実験です。例えば、もう長く生きた人には遠慮してもらう、子供から救うべきだという考え方があります。より「自業自得度」が高い人から除外するというのもありうるかもしれません。しかしどのような基準、理由を採用するにせよ、それは誰かを助けると共倒れになる、それを避けたいのであれは誰かを外すしかないという極限状態の場合です。

『良い死』表紙 ★01 『良い死』「犠牲は不要であること」等
cf.「犠牲でなく得失について――良い死・15」http://www.arsvi.com/ts/2006055.htm→『良い死』
http://www.arsvi.com/ts/20110016.htm

――「医療費が増えると共倒れになる」という主張でした。

 そうではない。全員に対して医療サービスを提供して、その皆が生きられる時まで生きても、社会は困りません。医療にお金がかかっているのは事実ですが、何を買っているか、何を使っているかを考えてみればよい。使うものは人と人以外のものの2種類で、これで全てです。ものは、例えば人工透析の機械です。鉄やアルミウムでできています。それで長生きできるのだから、すくなくとも電子レンジなんかよりは優先されてよいでしょう。そしてすくなくとも電子レンジに使っている分も含めてもの・材料は今のところ足りなくはない。そして人は余っています。日本の失業率は1桁ということになっていますが、それはハローワークに行って仕事を探しているが仕事がない人の割合にすぎません。定年で退職になった人、働ける環境があれば働いてもよいと思ってる主婦、等々等々の人たちを含めれば何割という割合になります。人は足りている。むしろ足りて余っている状態をうまく制御できないでこの社会は困っていると考えます。どのように困っているのか、余っているのに足りないように見えてしまうのはなぜか、ここではこれ以上の説明は略しますが、足りないという事実認識はまちがっている。このことは動かない。

――厳しいがこれが「本音」という言い方をしていました

 本音を語りたいというのであれば、まずはどうぞです。ただ、言論を公に発信した人は、反論に対してきちんと答えるべきです。間違っていたらそれを認めるべきです。最低限のルールです。もとの発言もですが、さらにその後の対応がどうしようもありません。

――長谷川さんの「殺せ」という言論は、相模原の障害者施設の事件にも通じるものがあるという指摘が多くありました。立岩先生はあの事件で、身近な人が容疑者に「怒る」必要があったのではと書かれていました。今回の件は「炎上」と言われますが、署名に参加するなど抗議をした人が多かったことはよかったと思いました。

 「殺せ」と煽る言葉に対しては、もっと「圧」を持って怒る必要があると思っています。その人は、事件の前にも障害者は不幸で死んだ方がいいとか、殺せば社会は助かるだというようなことを周りに話していたといいます。まず、なんでお前が他人の幸不幸がわかるんだよ、言えるんだよということです。次が一つ前に言ったこと、人を殺さないとやっていけないような社会ではまったくないということです。職場での失礼な発言、場をわきまえない言動を注意する、とかではなくて、正面から怒りと理屈をもって対すること、まずはそういうことをするべきだっんたんじゃないか、今でも誰に対してもするべきだと思います。
 相模原の事件後に発表された親の会なんかの声明にも、批判・糾弾というより、社会の理解を求めます、というかんじのものがありました。報道も、障害者にもこんないいところがありますみたいな報じ方になってしまうところがあります。わからんではないですが。

――どのような点が良くなかったでしょうか

 こんなにいい人だったと、良いところ探しをして報じたりすることで、それが殺されてはならない理由みたいになってしまう。それは逆に「生きる価値」というものを狭く規定してしまう恐れがあります。
 良いところがあろうが悪いところがあろうが、誰にもどんな人であろうと生きる、殺されない、ちゃんと暮らせるようにすればよいし、それはまったく可能です。「足りない」という危機感が過剰に煽られるから、「悪いところのない僕たちに、しわ寄せがきて大変」という言論になる。過剰な危機感を脱していく方法を、我々は考えて伝えていかないといけないと思います。それは私自身の課題でもあります。

――「健康ゴールド免許」についてはどうでしょうか。

 小泉進次郎らのグループが出した提言に出てくる話ですね。ペナルティではなく負担額を安くしてもらえるというアイディアなんで、賛成する人も出てくるのでしょう。ただ、他を同じとすれば、保険料は増えることになります。そして、健康診断を職場で簡単に受けられないような非正規労働者や無職の人がより大きな割合の多い額を払うことになるでしょう。考えが浅いというか。提言ってたいがいもっともなことも当然書いてはある。しかしそこのなかに、一見よさそうで、受けそうだが、すこし考えてみるとうまくない、使えないことが出てくる。そして全体として「自助」の方に行かねばならないという主張がなされるんですが、なんでその方角を向かねばならないのかです。

――「痛みを伴う改革」と取材に答えていました。

 まず誰が痛むのかということです。どうしても痛みを感じる必要があるのなら、みなが痛みを分け合ってという話はありえますし、場合によってはさっきの救命ボートの話みたいに誰に痛んでもらうのかを選ばざるをえないこともあるかもしれません。しかし、繰り返しますが、痛みを引け受ける必要はないのです。そして、痛みは、今だって偏ったところにかかっています。生活がきびしい人は健康状態もわるくなりがちで、健康を維持したり回復させたりする時間やお金の余裕も少ない。思慮のない「改革」はその痛みを拡大させてしまいます。「足りない」という危機感に惑わされることはないんです。落ち着いて考える、考えが足りない論には反論する。そしてひどい暴言にはきちんと対峙する、無視する、馬鹿にする。これらをみないっしょにやってかまわない。とにかく水準の低いすぎる言論が横行しているのにはうんざりです。

※プロフィール
立岩真也(たていわ・しんや)1960年、佐渡島生。専攻は社会学。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大学、信州大学医療技術短期大学部を経て現在立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。単著として『私的所有論』(勁草書房、1997、第2版生活書院、2013)『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000)『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004)『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)『希望について』(青土社、2006)『良い死』(筑摩書房、2008)『唯の生』(筑摩書房、2009)『人間の条件――そんなものない』(Kyoto Books)『造反有理――精神医療現代史へ』(青土社、2013)『自閉症連続体の時代』(みすず書房、2014)『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社、2015)『On Private Property, English Version』(Kyoto Books、2016)。この12月に杉田俊介との共著で『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(青土社)刊行。


UP:201612 REV:20161209
7.26障害者殺傷事件  ◇『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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