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一つのための幾つか

立岩 真也 2016/12/03
第36回びわこ学園実践研究発表会全体講演 於:立命館大学草津キャンパス
http://www.biwakogakuen.or.jp/index.php?id=153

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■■立岩真也 2016 「人工呼吸器の決定?」※より
※以下の本に収録されています
◆川口 有美子・小長谷 百絵 編 20160625 『在宅人工呼吸器ケア実践ガイド――ALS生活支援のための技術・制度・倫理』,医歯薬出版,168p. ISBN-10: 4263236777 ISBN-13: 978-4263236772 [amazon][kinokuniya]

■特別なことか?
 まず人工呼吸器を着けることは、とてもたいへんなことだと思われている。他方に、そんなにたいしたことではないと言う人もいる。私なら、たいへんなことであったとしても、命が関わっているからには、息が苦しいのはとても嫌であるからには、着けるだろうと思う。それでもたいへんなことでない方がよいにはよい。どうなのだろう。
 たいへんでないと言う人たちは、人工呼吸器は「めがね」のようなものだと、あるいは「ピアス」のようなものだと言うことがある。たんなる道具なのだ、飾りなのだと言う。すると、そのとおりだと言う人と、むっとしたり、ときには怒り出したりする人と、両方がいる。どちらももっともなことだと思う。人工呼吸器はどれほどの機械なのか。
 呼吸は、学校で教わるように、空気を取り込み、空気中の酸素を選んで血液に送り、血液中の二酸化炭素を取り出し、また空気中に吐き出すという過程である。たしかにそれは大きく複雑な過程ではある。筋肉の力が小さくなったために、必要な空気の出し入れが難しくなっている。人工呼吸器はその空気の出し入れの部分だけを補う。他はやはり肺が行なっている。こういう意味で人工呼吸器は「換気扇」だと言う人がいる★02。たしかに「ベンチレーター」という言葉にはそんな意味があるようだ。(「レスピレーター」という言葉はまた違うようだが、詳しいことは私にはわからない。)このように考えると、そのような道具・機械はたくさんある。メガネはたんなる「レンズ」(目のレンズの代わりをするレンズ)だ、等。
 そしてさらに、私たちはもっと複雑な機能を果たしている機械も使っている。例えば人工透析の機械がそうだ。それは腎臓で行われていることを代行している。血液を濾過しているのだから、なかなかに高級なことをやっているとも言える。そしてその機械を使っている人はたくさんいる。そしてそれがいけないことだとは思われていない。
 こうして、複雑なことをしているとしても、もっと簡単なことをしているとしても、また大切なことをしているとしても、それほどのことをしていないとしても、道具を使うのはわるいことではない。使えばよい。そして、それらのなかで人工呼吸器は大切なことをしてはいるが簡単な方の機械である。
 私たちは、生きていくために必要な多くのものを自分でまかなっているわけではなく、自分で作っているわけではない。そして、「みなさんのおかげで」「自分一人の力でなく」生きていること、様々なものに「生かされている」ことは、私たちの社会ではよいことであるともされている。人工呼吸器を使って生きることもその一部である★03。
 そして、人工呼吸器を使う人の多くは、自分自身で努力してもいる。呼吸器の動きに自らの側の空気の出し入れを合わせるなど、それなりの、あるいは相当の努力をし、辛い思いもしている。他方、他の人たちは息をしていることなど意識もしていない。呼吸器の使用者が、機械にしてもらってばかりで、自分ではなにもしていないとなどと思う必要もない。

■「終末期」ではない
 「息が苦しくなったら苦しくなくするのが当然だ」と言うと、餅が喉に詰まったといった突発的な事故であるならそうするべきだろうが、「これは『終末期』のことだ、だから違う」と言われることもある。なるほどとも思う。ただ、この「終末期」という言葉も、なかなかによくわからない使い方で使われている言葉である。普通に私たちが知っている意味では、終末期とはもうすぐに死が訪れる状態ということだろう。難しい意味はない。しかしこの言葉は二通りに使われる。
 一つに、なにをしても、命の終わりが来るという時期はある。そんな身体の状態はある。今その人の状態がほんとうにそんな状態なのかどうかの判断は難しいが、その状態にある人に、これからわざわざ身体に穴を開けて機械をとりつけることがよいことであるのか。よいことではないかもしれない。
 しかしこれと別にもう一つ、「そのままにしたら」生命が維持されない、という場合がある。例えば呼吸を補助しなかったら、生命を維持できないほど息が弱くなってしまって、死んでしまうことがある。そして、この本が対象としているような、病気で人工呼吸器を着けるとか着けないという場合の多くは、こちら側である。そしてそれが「末期」「終末期」だとされる。
 しかしこれはおかしい。命を維持するために必要なことをしなければ死んでしまうことはたくさん起こる。事故にあってしまって出血している場合も、様々な重病についてもそうだろう。それは脳卒中かもしれないし、肺炎かもしれない。がんに罹った場合でも、切除すればなんとかなることもある。それらをみな「終末期」だとして、するべきことをしないのはおかしいだろう。ALS等の病気の場合にも同じことである。にもかかわらずそれを「終末期医療の(自己)決定」だというなら、間違いだから正してもらう必要がある。そしてやはり、生命・生活のために必要なことをやってもらうのがよい。

■どんな道具なのか?
 それにしても、メガネなどと比べて、人工呼吸器は大きなものではあるし、おおげさなかたちはしている。呼吸困難になって、気を失い、気がついたら呼吸器を着けた自分がいて、それがとてもショックだったといったことを書いていた人がいる。多くの人にとってそれは見慣れたものではなく、ぎょっとする。「喉元に突きつけられる」というが、そんな場所にそれはつなげられる。手や足に何かを付けることに比べ、目にメガネをかけることに比べ、それは深刻なことのように思える。
 ただなんでもたいがいのことに慣れというものはあるもので、人は新しいものを使うことに慣れてしまう。私は使っていないから、使い勝手のことも、慣れについてもほんとうのところはわからない。しかし使っている人はそう言う。機械そのものはすぐに見慣れるし、人によったら頼もしいものにもなるし、機械を使うことにも慣れていく。そして見る側にとっても、見慣れるということはある。私はそんなに頻繁にその利用者に会っているわけではないが、それでも慣れてしまった。たいていのことには慣れてしまう。慣れるのはよいことばかりではないが、この場合にはよいことである。
 しかし、身体を動かしたり、声を出したりすることが難しくなる等、行動の制約が大きくなるのではないか。これはたしかになかなかにたいへんなことではある。ただこれは呼吸器のためとは限らない。例えば、呼吸器を着ける着けないとは別に、筋力の衰えによって自らによる発声が難しくなることはある。他方で、自ら発声できる状態なら、呼吸器を着けても声を出せることもある。これらについては専門の人たちがきちんと書いてくれるだろうから、これ以上書かないし、書けないが、人工呼吸器はもともとは簡単な機械なのだから、その機械の使い勝手がもっとよくなり、携帯が簡単なものになってほしいと思う。
 より大切なことは暮らしていくその環境だ。実際、人が考えこんでしまうのは、ずっと同じ場所で同じ姿勢で一人でいることを思ったら、それはたいそう辛いだろうということだ。それを慣れてしまえというのは乱暴な話だ。これについては、自分を環境に合わせるのではなく、環境を変えていく必要がある。
 それがどうにもならないなら、その人に「生きていけ」と言うのはたしかに酷なことだと思う。だが「呼吸器は着けない(もう生きるのをやめる)」とその人が訴えるその相手は、例えばその病院の関係者だ。つまり、その人は、「この病院(の私がいる場所)は、死にたくなるほどひどいところだ」と訴えているのだ。そう言われて、「はい、では死んでください」と答えるなら、それはないだろうと思う。いくらかその生活がおもしろくなるように、退屈でないように、苦しくないように、できることはある。それをせずに、この暮らしが辛いから、これから辛い暮らしが待っているから、生き続けるのをやめるという言葉の通りにするのは間違っていると思う。その前にするべきことをしたらよい。
 身体の状態の変化につれて生活は変わる。できないことは増える。自分でなにかできることは気持ちのよいことではある。しかし、自分で動かすことができないとしても、身の回りの世界はそこにあるし、その様々な様子や変化を受け取ることはできる。その世界がいつもまるきり同じだったら、退屈に違いないのだが、そうでないなら、それを楽しむことはできる。
 その楽しみがそんなでもないという人もいるだろう。しかし、何と比べるかだ。辛いことを減らすことができ、そしていくらかでもよいことがあれば、それは自分がその世界からまったくいなくなるよりはよい。この単純素朴なところから出発して考えたらよいということだ。

■選んで決めることか?
 人工呼吸器を着けるか着けないかはあくまで本人のことで、決めるのは本人だとされる。昔は、医師が、そして家族がどうするかを決めていたのだが、それではいけないということになって、決めるのは本人だということになった。そして、医療者その他は中立がよいという。そしてこれらのお話がわりあい当然のこととして受け止められるようになっていると思う。
 だが、人工呼吸器の場合に、「着けるのと着けないのとありますが、どうしますか?」と聞くのはおかしいと私は思う。
 その一番大きな理由は、これは実際には生きる死ぬを決める場面だからだ。着けるかどうかを聞くのは、生きるか死ぬかを決めなさいということである。そんなことを普通こちらから言うことはない、そんなことを言ったら、相手は自分を攻撃しているのかと思うだろう。そして誰かが「死にたい」と言ったら、あるいは「生きるか死ぬかどうするか悩んでいる」と言ったら、「思うとおりにすれば」とか、そのようには普通言わない。「それはやめた方がよい」と言うことになっている。まず「どうしてですか?」と聞くことになっている。「どちらがよいですか?」と聞くようなことではない。
 そしてこの場合に本人の言うとおりのことをするのは、基本的には自殺幇助である。自殺幇助がよくないと考えるなら、それはよくないということになる。また法律ではそれは罪に問われることになっている。もちろん、現在の法律がどうであるにせよ、自殺幇助がよい場合もあるという、別の考え方もある。だが、すくなくともつけない決定、はずす決定を認めることは、死を認め助けることであるという事実は押さえておくべきであり、それを認めることは自殺と自殺を助けることを認めることであるという事実を押さえておく必要はある。
 私はどう考えるか。あらゆる場合に自殺を認めないのかと問われると、そうは言えないと思う。だから絶対反対という立場には立たない。ただほとんどの場合に、それはよした方がよいと思う。死のうという人に、すくなくともそう言うだけは言う。

■着けることとはずすこと
 人工呼吸器を着けることとはずすことが次のように言われることがある。一方で、着けないことは「(治療の)不開始」であり、積極的な行為ではない。だから、殺すことではないし、自殺を助けることではない。それに対して、いったん着けた呼吸器をはずすのは積極的な行為であり、殺人、自殺幇助ということになる。すると後者はだめだが前者は許されるということになる。そこで、一つ、はずす/はずさないの手前で着けることをしないようにするということが言われる。着けてからはずしたくなっても、はずすことはできないのだから、最初から着けないことにするというのだ。こうして早くに亡くなる。そしてもう一つ、(着けることを容易にするためにも)はずすことが認められるべきだとされる。
 しかし、両方はたしかに違うが、決定的には違わない。
 違いがないわけではない。はずす場合には、すぐに命が終わってしまう場合が多いだろう。他方、着けない場合にはそうでないこともある。死が確実であることを人はみな知っているが、その時が確実にわからないから人は平静を保っていられる。確実に命がなくなるのを予知してしまうことはとても怖い。だから、その差は時には大きい。
 しかしこのことを別とすれば、基本的には同じであるということはわかっていた方がよい。一方は自殺幇助であるからだめで、他方はそうでないからよい、捕まらないという主張もあるが、これは間違っている。どちらも、きつい言い方と思われるかもしれないが、自殺幇助である。(スイッチをオンにしなかったら死ぬことがわかっているのにそれをしないことと、スイッチをオフにしたら死ぬことがわかっていることをするのと、決定的に違うかということである。)
 だから基本的にはどちらもだめか、あるいはどちらもよいか、どちらかである。学者の中には、消極的な行為も積極的な行為も結局は同じなのだから、毒を盛るのも含めみな認めるべきだと言う人がいる。だが反対に、はずすことが問題なら、着けないこともいけないことだと考えるのも筋が通っている。基本的にはそう考えるべきだと思う。★04
 では実際に着けてしまって、それでどうしてもはずしたくなったら、具体的に、どうしようか。決定的な答えを思いつかないが、二つ、あるいは三つある。
 一つ、毎日、はずして死にたいと思う人は、それを毎日言い、聞く人は毎日それを聞き続け、「そんなことは言わない方がよい」と言うしかないのだろうと思う。そのやりとりを続けるのは、自分で死んでしまえるために死ぬのを止めるのが難しい人に比べて、やっかいなことではない。
 一つ、やはり辛いことがあるから、その人ははずすと言う。しかし、辛いことがある時に、死んで辛いことをなくするというのは、最後の手段である。というより、死んで辛いことをなくすことを、辛いことをなくするための手段であると、私たちは普通は思わない。生きている間になにかはできるはずだ。
 一つ、それでも、どうしてももうよしたいということがあるかもしれない。その時には死への手助けを行なうことがあるとして、それによって刑に服するのは仕方がない。たしかにそれは「善意」によってなされるのだから、刑を軽くするように主張することはできよう。しかし、他の多くの自殺幇助も善意によってなされるだろう。この場合の自殺幇助を特別扱いすることはよいことだろうか。私はそうは思わない。

■わからないのに決める?
 戻って、自己決定について考えてみよう。したいことを本人に聞いてそしてその通りにすることは、なぜよいとされるのか。本人のことを斟酌〔ルビ:しんしゃく〕し、その人の言うことをそのままに聞かないのは、その人を大人として認めないことだと言われることがある。「子ども扱い」をしている、「パターナリズム」――家父長のように振舞うこと――だとされる。それももっともな指摘なのだが、ここはもっと詳しく考えた方がよい。
 本人の言うことを聞いて従った方がよいのは、第一に、本人にとってのよしあしがよくわかるのは、他人よりも本人だからである。何がその人にとって美味しいのか、不味いのか、本人が一番よく知っている。本人が知っているから本人に聞く。また本人に委ねる。たしかにそれはよいことだ。
 だが、この場合には、経験していないことをその手前で決めることになる。言葉が伝わらなくなってからでは遅いから、またことが深刻になってからでは心も動揺しているから、その手前で決めるのがよいという話がある。「事前指示」という。それはよいことだと言う人がいる。しかしこの場合にはそのよさは私にはよくわからない。
 まず、この場合には、身体が動かなくなり呼吸が苦しくなったりすることがどうなることなのか、わかっていない。わかっていないことについて決めなければならない。わからないことについて前もって決めろと言われても困ってしまうはずだ。述べたように、本人が決めることのよさの一つは、本人が決めて起こることのよしあしをよく知っていることだが、この場合は、本人も体験したことのないことであり、本人だから知っているわけではない。だから本人に委ねた方がよいということにはならない。
 そしてそれは、今は自分はそうなっていないその状態を想像する、あるいは見知って考えることになるのだが、それはそうやって暮らしている人の状態を、私なら死に値する状態だと考えているということである。それはそうやって生きている人に対しても失礼なことではないだろうか。
 そして前もって決めるといっても、人の気持ちは変わる。すると、いったん決めておいて変更できるようにすればよいではないかと言われる。しかしそれは、一方では、前もって決めておくことにたいした意味がないということになる。
 また他方では、意志の変更を伝えるとして、最後の土壇場のところでは、うまく意志を伝えられない場合が多い。するとその――息が止まってからでは、決めるも決めないもないのだから――「直前」に決めるということになるのだろうか。しかしその時に何か考えてものを言うのも難しいだろう。
 加えて、そんなことを考えざるを得ない場面では、人はだいたい気が滅入っていて、暗くなっている。そんな時に、どちらでもよい、あなたが決めることだと言うのがよいだろうか。

■抵抗でなく迎合になってしまう
 自分で決めることがよい理由の第二は、多くの場合、他人がその人のことについて口をはさむのは、その他人にとって都合のよい場合だからである。施設の職員が早く仕事を終わらせて家に帰りたいので、入居者たちに「あなたは(健康のために)夜は早く寝た方がよい」などと言う。それではその人が生きたいように生きられない。それを防ぐために、本人の言うことを聞いた方がよいし、それを優先した方がよい。つまり、社会の流れに対して自分を守るために自己決定が有効になる。
 しかし、呼吸器の場合にはすこし違う事情がある。社会の流れが人を生かせてしまうことなら、死の決定はそれに対する抵抗だということにはなる。そう言われる場合もある。つまり、近代医療は、本人に関係なく、勝手にたくさんの医療をしてしまうものだというものの見方がある。あるいは、家族は本人の意向を顧みることなく、延命を主張するものだと言われる。
 そんなこともないわけではない。しかし、そうでない現実もある。かつて入院させ様々な医療を提供することが収入につながっていた時には、医療者たちは人をむりやり引き止め医療を行うことがあったが、そうした「無駄」はだんだんと切り詰められ、多くを行うことは採算に合わず、経営的にもやっていけないことになった。行うだけ損を抱えるようなことになってしまった。だからむしろ、必要なものも控えるようになっている。そして家族が全面的にその人の生活を引き受けるのはたいへんなことである。「死ぬ目」に会えないのはいやだと、心肺蘇生で臨終の時期を遅らせようという場合とは異なる。家族が「延命」に消極的になることはおおいにありうる。
 だから、現状は、生き続けるのを早めに終えようという方向に流れている。そこで、本人に死ぬ自由を認めることは、社会の流れに抗して自らの身を守るというものとしては機能しない。むしろ、本人が、周囲の人たちのことを考えて、斟酌し、その期待を実現するというふうに作用することになる★05。
 このように見てくれば、本人に決めてもらえばそれでよいなどと言えないことがわかる。

■必要なものは必要と割り切ってみる
 結局残っているのは、人工呼吸器を着けたとして、これからどうしていくのか、それでやっていけるのかという要因である。これが装着をためらう要因の大きな割合を占める。生きるためには介護がいる。呼吸の補助は呼吸器がやってくれるとしても、その他の様々に必要なものがある。呼吸以外はあまり困らず、身体の他の部分が動く人もいるけれども、そうでない人もいる。
 そして、呼吸器を着ける前も、そして着けた後も、大部分の時間を家族が介護している。現実を見るなら、そうならざるを得ないように思われる。
 本人もそのことを考えてしまう。自分が世話する側だったらその人の世話を引き受けるとしても、自分が他人にそれを依頼することになる。それを考えると身を引こうと思うということがある。今までは、むしろ人のために働いてきた人ほどそのことを思うかもしれない。
 その気持ちはもっともだと思う。しかし、それはやはり考えなおした方がよい。これまで働いていたことがよいことであったとして、それは、人が生きるために働いてきたからよかったのだ。よいことのために役に立ったからよかったのだ。つまり、生きていることがよいことであるから、そのために働くこともよいことなのである。働くことができなくなったからといって、生きることを止めようというのは、まったく本末転倒なのである。世話を得て生きていくことに控え目になる必要はない。

■家族により大きな義務はない
 世話は必要なのだから、必要なだけ得よう。そう思えたとしても、実際に生きていくための介護を得られなければ仕方がない。すると現状では無理だということになり、やはり生きるのをやめようと思うことになる。思わなくても、やめざるを得なくなってしまう。
 しかしまず、その生活を支えるのはとてもたいへんなことのように言われるが、すこしでも考えてみるなら、それほどでもないことはすぐにわかる。さきにも述べたように人工呼吸器はたいした機械ではない。電子レンジや冷蔵庫より単純な機械だとも言える。数が少ないから安くないが、もっと安くても不思議ではない。そして人工呼吸器を使う人は特別に高価なものを食べるのでも飲むのでもない。他に必要なものも普通なものだ。よけいに必要なのは人手だけであり、つまり人である。ここでは説明できないが、すくなくとも今そしてこれから、人は十分にたくさんいる。人手不足になることはない。
 だから、本来はそれほどのことではない。しかし現実には大変である。どうしてそうなっているのか。それは、負担できる人が負担せず、ごく少ない人たちが、多くの場合に家族が、その人の生活を支えているからである。
 家族が家族の面倒を見ることはもちろんわるいことではない。立派なことだ。しかし、その人に対する義務を他の人は負わないのかと考えてみると、どのように考えてみても、そんなことにはならない。家族により大きな義務を認めるのはおかしい。こう言うと、無責任を助長するなどと言う人がいるが、反対だ。家族にも義務はある。あるのだが、その義務は、家族でない他の人たちと同じだけの義務であるということである。
 あるいは、より一般に思われているように、家族にはより大きな義務があることを認めるとしても、その大きさは、子や配偶者に対する他の家族の普通の義務の大きさと同じでよいはずだ。重い障害があることに関わるより大きな負担の分は、家族のものではない。
 そしてもちろんそれは、家族が家族を大切にすることと矛盾しない。家族としてやっていけるためには、家族が辛くないことが必要なことだからである。さらにそれは、社会が家族を大切にすることと矛盾しない。家族がうまくやっていけるために、社会は家族の負担を軽減することを進めるべきなのである。

■意識的に他人を入れること
 ただ、実際にはなかなか家族の負担は減らない。それは社会が家族を大切にしない、つまり、負担を押し付けているからでもあるが、他の要因もある。ある人が、これまでその人と長いこといて、その人の癖やらなにやらに慣れていれば、確かにその人がしたいこと、したくないことは、他の人との場合に比べたら、伝わりやすい。それは当たり前ではある。他方、新しい人はそうでない。わからないこともあるし、慣れていない。そして身体の微妙な位置が痛みにかかわってくることがあるから、それでいらいらしてしまう。それでその人を断わることになってしまう。こうして、やはりここでも、少ない人に偏ることが起こる。結局家族だけが残ることがある。
 この人を助けられるのは自分だけだ。そう思うことがあり、実際にそうであることがある。そしてだからこその力が出るということもたしかにある。「火事場のばか力」という言葉がある。それで人が助かり、一件落着、問題解決となれば、よい。
 しかし、多くの病気の場合には、人の手助けが長い時間必要になる。すると、その人だけができる、また実際にするという状態が続くことはだんだん辛いものになる。そしてその人が辛いことを、世話されている本人も、察知する。それで双方がだんだんと暗くなる。そして結局は破綻してしまうことがある。
 だから、ここは、意識的に別の人を多く入れていくことを考える必要がある。もしその人が家族が大切だと思うなら、なおのこと、意識的にそうした方がよい。また家族の人たちが、その人のことを大切だと思うなら、そうした方がよい。
 だから、そのまわりの人たちは、家族の人が率先して担うことを立派なことであると認めながらも、まだ担えている間であっても、その人だけに任せておけないと介入せざるを得ない。そしてその人たちには、そうしてお節介をしにくることを受け入れてもらわねばならない。

■今よりは楽になるように制度は使える
 だからためらう必要はまったくない。誰も一人だけでは責任は担えないし、そして担う必要はない。するべきなのは、そしてできるのは、その責任を一人ひとりに分散させ、軽くすることだけだ。皆が税金や保険料を払って、そのお金を給料にして、介護を仕事として行う人にやってもらうのがよい。一人でその仕事を担ったらたしかにたいへんなことだが、そうでなく、多くの人が関わるなら、それほどではない。
 そして社会全般も、「介護の社会化」などと言って、担うべきは家族だけのことではないということには、だんだんとなってきた。しかし、たてまえとしては社会全体が義務を負うということになっているとしても、実際にそうならなければ意味がない。現実はどうか。
 日本は福祉の制度が整っていないひどい国だと言われていて、それには当たっているところも多い。しかし、重度障害者の介護についてはそう捨てたものでないところもある。今よりは楽になる方法が、ほとんどの場合に必ずある。
 「公的介護保険」だけではたいしたことがないし、自己負担も相当の額になってしまうし、にもかかわらず介護保険を優先して使えと言われることも多いのだが――本当は常にそうしなければならないわけではない――「障害者総合支援法」に規定された制度もある。その法で決まっているのは「重度訪問介護事業(重度訪問)」等のサービスで、これは「公的介護保険」のサービスとは違う。ALS等の場合は両方を使える。そして「重度訪問介護事業(重訪)」の方が長い時間使えて、自己負担のない場合も多い。しかし介護保険のケアマネージャー等はこの制度のことを知らないことが多い。そのため、知っている人を紹介してもらう、自分で探すなどが必要になってきて面倒だ。それで私たちの方でもすこし情報提供をしている(「生存学」で検索するとhttp://www.arsvi.com/が出てくるので、そこの中を「重度訪問」で検索)。他にも訪問看護の制度などがある。これら複数の制度を組み合わせ、最大一日の24時間について公的な福祉サービスを得られる地域がある。そしてこの本の初版が出た2009(平成21)年に比べて、そうした地域はいくらかずつだが広がっている。
 これまではだめでも、よくしていくことができる。私が今住んでいる京都市でも、ALSの人で介護を得ながら一人で在宅の生活を送っている人がいる。その人の前にはそんな生活を送れるだけのサービスはなかった。けれどもそれではその人は生きていけなかったから、役所などど交渉して、これまで認められていた時間よりも長い時間のサービスを獲得した。それですくなくとも今のところなんとかなっている。
 京都のその人の場合には、たまたま、そういう交渉ごとを助けてくれる人たちがいて、それが実現した。多くの人の場合にはなかなかそうもいかない。普通に役所に行って、言われることを聞いて帰ってくるということになる。さらに困るのは、ときどき役所の人たちが持っている情報が間違っていることである。ならば知らないと言ってくれればよいのだが、時には自分が知らないことを知らないことがあって、困ってしまう。こうして得られるはずのものが得られないことも多い。
 ただ、そのような時のために、本人や本人を支援する団体があって人がいる。ここでも病者・障害者の権利を擁護する活動の存在意義はとても大きい。そして支援する人や団体が少しずつ増えている。そしてその間に起こったできごととしては、各地の弁護士の活動が活発になっている。「介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット」というネットワークがあって、さきに紹介したホームページからもリンクされている。そこが関わった交渉では、多くの場合、裁判などにもっていく前に、必要な時間が獲得されている。それを見ていただきたい。
 それでも、つまり行政から必要な時間を得られても、実際に仕事をしている事業所を見つけるのがなかなか難しいということがある。けれども、その事業所は近所になくてもかまない。仕事をしてくれる人が通えるところにいればなんとかなる。実際、さきにあげた京都市の人の場合は、大阪の事業所にお世話になった。そうした情報もさきに記したページから得られる。
 そして加えてもう一つ、自分で人を用意することもできる。今の制度では講習が必要だが、さきに紹介した「重度訪問介護事業(重訪)」の制度で仕事をする人の場合にはそんなに大変ではない。私が関係しているNPOも、京都で年に2度ほどだが、2日間の講習を行っている。大学生もやって来る。いろいろな人が来る。そして仕事ができるようになった人を事業所に登録してもらって、そこで働いてもらうことができる。そしてさらに加えてもう一つ、自分で事業所を作ってしまうこともできる。そう言うと、たいがいの人がびっくりするのだが、できないことではない。自分で使っていれば、やり方はだんだんとわかってくる。他の事業所の人(ヘルパー)も使いながら、自分の分(だけ)は自分が経営するところでの仕事を増やしていけば、そう無理しなくてすむこともある。その実例も私(たち)はいくつか知っていて、やはりその情報を知らせている。
 なんとかなる。まずはそれを知ってもらいたい。すくなくともその前に悩むことない。そう思ってもらえたらと思ってこの章を書いた。

■注
★01 ALSについては、医学書院刊の拙著『ALS――上動の身体と息する機械』(2004)がある。これは私が書いた本というより、ALSになった人たちがどうやって病気のことを知ったのか、人々に何を言われたのか、どう思ったのか、そして呼吸器を付けることについて、やはりどんなことを言われ、どんなことを考えたのか、悩んだのか、何が起こったのか、どのように使ってきたのか、その人たち自身が書いた文章を紹介しながら、つけるとかつけないとか、はずすとかはずさないとか、そんなことについても考えてみた本だ。
 そして、「安楽死《「尊厳死《について考えた本として、筑摩書房刊の『良い死』(2008)『唯の生』(2009)がある。また青土社刊の『弱くある自由へ』(2000)『希望について』(2006)にもいくつか関連する文章が収録されている。(もちろん人工呼吸器を必要とする病・障害は他にも様々ある。あとで本文でも紹介するように「生存学」http://www.arsvi.com/→「人工呼吸器」に関連するページがいろいろとある。「生存学 人工呼吸器」で検索するとすぐに出てくる。)
 そして、「安楽死」「尊厳死」について考えた本として、筑摩書房刊の『良い死』(2008)『唯の生』(2009)がある。生活書院刊の『生死の語り行い・1』(2012)がある(2はまだない)。また青土社刊の『弱くある自由へ』(2000)『希望について』(2006)にもいくつか関連する文章が収録されている。
★02 『ALS』235-238頁。
★03 人工物を使って生きていくことについては『良い死』第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」。
★04 この議論については『唯の生』の第1章「人命の特別を言わず/言う」。
★05 多くは自分にとってよく(他人にとってはそうでない)自己決定が「死の決定」の場合には違うことは、『弱くある自由へ』収録の「都合のよい死・屈辱による死」。自己犠牲については『良い死』第3章「犠牲と不足について」。今起こっていることを「過剰」と捉えられないことについては『唯の生』第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」

 

■■重度訪問介護(重訪)

◆「重度訪問介護とは」
 障害者自立支援法の中の訪問系サービス(ホームヘルパー制度)の一つです。
 24時間の連続介護が必要な最重度の障害者に、24時間連続してヘルパーを使う(8時間勤務のヘルパーが3交代で)事を想定して作られた制度です。もちろん1日16時間や12時間の利用をして、残りは家族が介護ということも出来ます。
 重度訪問介護は身体介護とは違って、ヘルパーが障害者に呼ばれるまですぐそばで座って待つ「見守り待機」もヘルパーの仕事となっています。介護保険や障害者自立支援法の身体介護のヘルパーは、決められた身体介護を1時間〜1.5時間程度の短い時間にさっとやり終えて帰って行きますが、障害者自立支援法の重度訪問介護は、同じヘルパーが最低8時間障害者のそばに座って待ち、排泄や体位交換や文字盤や水分補給などを障害者に言われたら、言われたときに即座に介護を行い、それが終わったら、次に呼ばれるまでまた傍に座って障害者を見守りながら待機します。外出の介護も重度訪問介護のヘルパーが行えます。重度訪問介護を毎日使っている障害者はいつでも外出したい時にヘルパーと外出ができます。」
 『全国障害者介護制度情報』「重度訪問介護で暮らすー難病ALS−」より
 http://www.kaigoseido.net/i/als-chiikiseikatsu.htm
 ※「障害者自立支援法」は現在は「障害者総合支援法」

◇『全国障害者介護制度情報』
 http://www.kaigoseido.net/index.shtml


◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940 [amazon][kinokuniya] ※
◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 20121225 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 [amazon][kinokuniya] ※

『ALS――不動の身体と息する機械』表紙    『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』    『在宅人工呼吸器ケア実践ガイド――ALS生活支援のための技術・制度・倫理』表紙


立岩真也・杉田俊介 2016/12/** 『相模原障碍者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,青土社

 ■序 立岩真也

  ■T 一つのための幾つか 立岩真也

 ■第1章 精神医療の方に行かない

■1 本章に書くこと
■2 事件後述べたこと
■3 脅威に対してまず言われたこと
■4 加えて言わねばならないこと
■5 確率
■6 自傷には関わる余地があること
■7 他害に関わらなくてよいこと
■8 現行犯として刑事司法が対応すべきこと
■9 しなくてよいと言ってもすると言う人たちはいるのだが
■ 註

 ■第2章 障害者殺しと抵抗の系譜

■1 二〇一六年九月・本章に書くこと
■2 一九六二年・『しののめ』安楽死特集
■3 一九六三年・『婦人公論』誌上裁判
■4 一九七〇年・横浜での事件
■5 一九八一年・『典子は、今』他
■6 一九八二年・島田療育園からの脱走事件他
■7 ナチによる「安楽死」
■8 二〇〇四年・もう一つの相模原事件
■9 これから
■ 註

 ■第3章 道筋を何度も作ること

■1 応え方について
 ■1 問われて言うことについて
 ■2 受けなくても、よいことを言わないこと
 ■3 では何を言うか
■2 この社会Tとそれへの対し方
 ■1 この社会T
 ■2 「自己責任」
 ■3 優生思想・安楽死
 ■4 実際には余っておりその処理に苦労している
■3 野蛮な対処法と別の方法
 ■1 野蛮な対処法
 ■2 別の方法
■ 註

  ■U 優生は誰を殺すのか 杉田俊介

 ■討議:生の線引きを拒絶し、暴力に線を引く 立岩真也+杉田俊介

 ■おわりに 杉田俊介
 ■文献表


UP:20161129 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇病者障害者運動史研究 
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