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生の現代のために(番外篇) 連載128

立岩 真也 2016/12/01 『現代思想』44-22(2016-12):8-21
『現代思想』連載・第120回〜『現代思想』連載(2005〜)

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立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』カバー

このHP経由で購入すると寄付されます

◆目次

■1 応え方について
  1 本が出る
  2 問われて言うことについて
  3 受けなくても、よいことを言わないこと
  4 では何を言うか
■2 この社会Tとそれへの対し方
  1 この社会T
  2 「自己責任」
  3 優生思想・安楽死
  4 実際には余っておりその対処に苦労している
■3 野蛮な対処Uと別の方法
  1 野蛮な対処U
  2 別の方法


■1 応え方について

 1 本が出る
 七月二六日に相模原市の施設で多くの人が殺傷される事件があった。杉田俊介と私の原稿と対談を収録した本が十二月もうすぐ出る。
 私は、精神医療を特集した本誌九月号に起こったことを精神医療の問題にすべきでないことを書いた([2016/09/01]、以下著者の文献は著者名略)。この事件を特集した十月号で障害者殺しを巡ってこの国にあったこと忘れられたことについて書いた([2016/10/01])。その二つを書く必要は、前者についてはまず言っておくべきこととしてあると思った。後者については、事件から一月経った後、どうも人々のほとんど知らないことがあり、それを少なくともいくらかの人は知っておいてよいと思った。だから意味はあると思った。たからその二つはその本には収録される。ただ、それらを合わせても「事件」についての本にはならない。二つでずいぶんな量にもなったのだが、もう一つを書く。
 ただ私はその人のことを知らない。よいことだと思わないが、知りたくない読みたくないというところもある。ただ、なにかがその人に吹き溜まり、蓄積されていったということであれば、それを取り沙汰することにも意味があるだろう。しかし知らない。それで杉田俊介にお願いすることにしたのでもある★01。
 そして言うべき具体的なことの数々は既に、繰り返して、言われている。それは集めて掲載し知らせている★02。この事件に乗じて自分たちに仕事をさせてくれてといったことを言っている精神医療業界からの発言を除けば、もっともなことが言われている。精神医療の話にもっていくことの問題や、施設の警備をより強くすることが愚かであることは述べた。精神病院について、まず誰もが立ち入り通過できるようにすべきだと述べた([2015/11/13])が、それと同じだ。また施設をそのままに維持し建物を新しくするというのも、その気持ちにわかるところはあるが、すくなくともいったん、止めた方がよい。人が集まっていて一度に多くが殺傷された。もっとてんでに住めるようにするのがよい。こうしていくつか具体的に確実に言えることはある。言われていて、繰り返す必要はない。
 さらに私は、例えば人の死を悲しみ悼む、亡くなった人を追悼するといったことがどんなことであるかわかってないのだから、不適格だと思う。結局この三つめの原稿で書くのも直接に事件のことではない。ただそれでも、私は結局、こんなことが起こることに関わって、考えたり書いたりしてきたのではあるはずだ。乱暴だが乱暴でないと受け取られる言葉・想念がどのようにこの社会に配置されているのか、それにどう返すかを考えてきたはずだ。言葉が無力であることもときに思い、しかしそんなことを言ってしまうことも粗暴だと思って、書いてきたはずである。
 だから繰り返しを厭わず、そしていくらか進もうと思った。とくにこの社会で割を食っている人たちがいて、しかしその人たちがさらに排除に関わっていることをどう考えるか。ただきちんと書こうとすると長くなる。それは今は無理で、結局短くなり、届かないものになってしまう。もっと届くように書くことはさらに先延べになってしまい、この度は不本意ながら、覚書風のものになってしまう。

 2 問われて言うことについて
 この種のことが起こると、ではどうしたらよいのかといったことが言われる。それは、もっともなことであるとともにうっとおしい、うっとおしいとともにもっともなことに思わる。
 基本的なよしあしを言えたとする、そしてそれを実現するための基本的な方法も言えたとする。しかし、だからといってそれが実現するとは限らない。具体的にどうしたらよいのかと問われる。この事件の後に限らず、しばしばそのように言われる。
 とくにこのたび起こったことはさすがによくないことであることは確かだと思われたこともあって、「どうしたら」が問われることがあった。「障害差別はどうやったらなくなるか?」といったもっと「基本的なところ」についてなにやら言葉が求められる。
 しかし、そんなふうに問われてしまうこんな事件もあり、米国での選挙もあって、問われ求められることによって、そしてそれに対して何か言うことによって、思考や言論の無力が感じられることもある。何を言っても無駄な感じが漂う。
 だがさらに私は、そう言われたり思われたりするとむっとなって、返したくはあるのだ。そのように言う人(たち)はなにか魔法のようなものがあることにしたうえで、そんな効力のあるものがないことをわかって、そしてあきらめてしまったりするという振る舞いをしているのではないか。そんな順序でものを言う必要はないと思う。どのようにして問題が難しいと思われるようになっていくのか、また「答」がどういうところに追い込まれていくのか、それでよいのかと問うた方がよいと思う。

 3 受けなくても、よいことを言わないこと
 なにか正しいことは、正しくとも厳しいことであるようにも思われる。その正しいことはもっともなことであるかもしれないが、しかし「それでは人々の理解がえられない」と言われるのである。「広く社会の理解を得る必要がある」ということにされる。
 事件に関わる報道が全般にすぐに消えていくなかで、幾つか良心的な(少数の)メディアがその後も「障害者問題」を追って何か言おうとした。また今もそうしている。そこでは、障害者にも、障害をもって暮らすなかにも、よいことがあることが言われる。
 テレビはとにかく画像を撮るのだし、新聞には文章が載るのだから、絵になったり文字になったりするものがほしい。そんな事情もある。そして実際によいことはある。これはまったくその通りだ。しかしやはり、そんなことは言わなくてもよいと思う。よいものがあると思うのは、見る側が、だろう。すると、ある人は、そのようなよいものを見いだすことはできないと言う。よいものを信じている人はそのように言われてもひるまないとしても、それほど思いのない人は、同調するかもしれない。よいものがあるとは、無理やりの言い方だと、苦し紛れの言い方だと思える。ないと言っているのではない。しかし疑っている人に、疑うことにしている人に、よいものがあると説得しなければならないのも屈辱的ではないか。精神障害者たちは、危険であるとされるが、実は安全であると言うのも、言わねばならないのも、その一つである。九月号掲載の文章でそのことを述べた。実際おおむね安全なのではある。しかし、わざわざそれを言わなければならないのは苦しい★03。
 もう一つは、みんな障害者になるから、その可能性があるから、という話だ。たしかにその可能性は高い確率である。他人ごとではない、自分のことだと思えるとより共感的になるというのはその通りだ。だから、そのことを言えばよいのではある。
 しかし、「だから」その人(たち)が暮らせることを支持するという言い方がよいのかである。それは社会保障・社会福祉を正当化する理由だとされる。するとまず一つ、危険に対する備えとして保険料を払うということになると、その確率が各人で同じなら、その保険料は基本的には各人で同じだけということになってしまう。また、人が未来を等しく知らないことによって(せいぜい各人同じだけの)拠出が正当化されたのだが、実際には確率は異なり、その異なりがいくらかわかることもあり、確率の高さや応じて多くを拠出せねばならないことにもなる。だから基本的にとるべきは「保険の原理」ではないということである★04。
 よいことがあること(わるいことがないこと)や、誰でも(そのうち)なることを言っていけないということではないだろう★05。「効く」のであれば、なんでも言えばよいと私は思う。複数の言い方が合わさってようやく一定の力を得るということがある。情に訴えるのもよいし、感動を与えるのもよい。ただ、同時に、それぞれがどれほどのものかを測っておくこと、何を切り札にするか(しないか)を考えておくことが必要なのだと思う。

 4 では何を言うか
 このように言わないとすると何を言うか。その(周囲の)者(たち)にとって快であろうとなかろうと、殺すな、そして暮らせるようにさせよということになる。
 「私達障害者の間でどうしたら理解して貰えるかとか、そんなこといったら理解して貰えなくなるとかいう言葉をよく聞くのですが、これ程主体性のない生き方があるでしょうか。大体この世において四六時中理解して貰おうと思いながら生きている人がいるでしょうか。」(横塚[1975→2007,2010:65])★06。
 だがそれにしても、殺すなというぐらいのことだったらわざわざ言うまでもなく、当然のことではないか。そうでもない。まず一つ、殺されなければよいというものではないということがある。さすがに殺すのはよくないことだと普通はされるから、そんなにいつも殺されることはない。しかし面倒だからほとほどにということになり、結局その暮らしは最低(限)ということになる。もう一つ、実際殺される対象にもなってきた。そしてそれは普通の意味で悪人である人たちによってというより、生きてよい人間の資格を付した上で、あるいは本人の(かつて)決めたことなら認めるべきだとされて、殺されたり自分で死ぬことにもなる。
 そこで、話がいくらか面倒になっても、共感度がいくらか減ることになっても、好き嫌いと別のことだと、明日は我が身のことでないとしてもと、退かない地点を確認しておく必要があることになる。それでは広範な支持は得られない、かもしれない。しかし、本人の側からなにかよいものを示す必要がないということは、すくなくともその本人にとって、よいことである。受けがよいので時と場合に応じて受けることを言うが、本当は言わなくてもよいことをわかっていると、楽に生きてものを言っていくことができる。
 そしてこのように言ったうえで、もう一度、自らの好悪に関わらず他者に対する義務があるという厳しく思われる「倫理」と、自らの快楽とは対立するもののように見えるが、そんなこともない、すくなくともそうであると限らないことも確認することができる。こんな具合に他人を認めるという位相がある。そして私自身もそのように、周囲の都合や好悪とべつにやっていけることもまた私にとって楽なことである★07。だから実際にはそれほど苦行を強いているわけではない。むしろ最も緩く生きていきたいのなら、そうした方がよいということになる。
 以上第1節が現実に対して何を言うかという話だった。次に、その相手であるこの社会の現実がどうなっているかを述べる。第2節ではこの社会の能力・生産を軸として構成される部分について。この部分は多くこれまで私が書いてきたことを繰り返すことになる。その概略も知られていないから仕方がないと思う。第3節は、近代社会の公式見解では次第に失せていくとされる属性を理由にした排除が第2節に述べたものへの一つの対応してもあることを述べる。ここら辺がこの事件も含めた様々な敵意の在り処なのだろうと考える。そしてその敵意をいくらかでも逃していく道筋をざっと述べる。

■2 この社会Tとそれへの対し方
 1 この社会T
 「生存権」を言うこと、そしてその言葉を使う時、たんに殺すなということだけではなく、暮らせることを主張する。それで正解ということにはなる。しかし、だとしても、そうはさせなくしているものがなんであるか、それにどのように対するか。
 所有についての規則があり、それが正しいとされ、さらに能産的であることにおいて人は価値があるという価値観があるのがこの社会である。だから障害者差別はこの社会においては差別ではないとされる。それは生存権に抵触するのでないはないか。すると「過度でない」障害者差別は差別でないとされる。しかし過度だとか過度でないとはどういうことか。だからやはり詰めておく必要はある。そして詰めてみた結果、「能力主義を肯定する能力主義の否定」(『私的所有論』第8章)ということになった。やはり全否定ということにはならない。ただこの半端な肯定・否定がどのようになされるのかを確認しておく必要がある。でないと、「内なる優生思想」などと言って、よくないが仕方がない、仕方がないがよくないという、よくわかならないことを曖昧に繰り返すだけになってしまう。
 「できる人が得をする」ことが起こること自体は近代の社会に固有のことではない。人が自らの頭や身体を動かすことができるなら、そして人が益を得ようとし楽をしようと思うなら、よりできる人がより大きな益を得ることは生ずる。そのことはよくもないがとくにわるいことでもない。そしてこの人間の選好を変えがたいものと前提すれば、労働・生産を得るために対価を与えることも有用なことになる。しかし、それが正しいという根拠はなく、そしてここでは、結果として生きるためのものが得られず、生きていけないこと、十分に生きていくことができないことが生じる。それははっきりとよくないと言える。
 加えて、近代社会は、自己労働による自己所有を正しいこととし、よいものとして規則化し、権利として保護する。そして生産できることを人の価値とする。それを日本の社会運動は「能力主義」と呼んで批判してきた★08。
 この水準を問題にすることは社会の全体を問題にすることであって、ここでもそんなことにどれだけの意味があるか、もっと簡単に変えられそうな部分を問題にした方がよいのではないかと言われるかもしれない。だが私は基本的なところから問題にしたうえで、変えるのが難しいことそうでもないこととその理由を考えて、できることをするという具合に進めていった方がえって悲観的にならない道を考えられると思った。
 全部除去することはできないが、だからあきらめるということにならない。まず、きまりを変更することができる★09。また、そんな価値を信じることはないと言うことはできる。そしてそのようにした方が生き易い人はたくさんいる。
 そしてそれは、さきのみなが障害者になる可能性があるというのとは違った意味で、多くの人々に大きく関わる。身体に「インペアメント」がある、あるいはあることが想定されている「障害(disability)」よりも 「非能力((disability)」の方が広い。むしろ後者の「障害」による線引きは、一部の人たちを取り出しいくらかを免責することにより、そしてその範囲にとどめることによって、この社会を維持していると言える。「障害学」も、そのことをわかっていないと、そのことに加担することにもなるだろう。

 2 「自己責任」
 じかに殺しはしないとしても、「自業自得」の腎臓病者は透析をやめるべきだと、つまり死ねばよいといったことを言った人がいる。「自己責任」が言われる。その標語に対する怨嗟もまたある。自己責任を繰り返す勢力に対抗しようとするのだが、それをどのように言うか。「自分のせいではない」ことを言いさえすればよいか。
 まず、自分が原因となったこと、自分の意志・力に発した分については、その人が責任や権利を有するという考え方がある。これはさきの自己労働→自己所有の構図と似ている。また、悪をなしたものに対してその責を問うというのも同じ形のように思われる。似ているようにも見えるみなは同じではない。いくつかの契機がある。そしてそのすべてを全面的には否定できないだろう。
 一つ、自分が他人に対してなした害について責められること、責を問われることは、否定されることはないだろう。その責を負うことが道義であるとされるだろう。
 一つ、苦労をしたら報われてもよい、楽をしたらその分は得られなくても仕方がないということはある。こうして平等がいったん認められたとして、その上での「加配」も肯定されることになる。
 もう一つ、褒美を与えたり罰を課したりする方がよい、有効であるというものである。これもまたまったく否定することはできない。そしてこれは、前節で述べた、できると得をするような仕組みをとることが有効であること、また仕方のないことと同じである。これを刑罰について言えば、さきに認めたものが「応報」と呼ばれるものに近いのに対して、刑罰(の予期)を与えることによって犯罪を抑止できるという「(一般)予防」の機能ということになる。
 (環境)倫理学では「共有地の悲劇」という論がある。ある人が例えば土地を管理することによってその人が利益を得られるようにした方が、そのものがよく維持されたり生産されたりすることがあるというのである。そんなことがあることを否定しない。ただまず『私的所有論』第2第3節3で確認したのは、この論はあるものについて誰が権限を持つかを指定しはしいないということだった。土地に管理者がいて、その管理から益を得たり管理しないことで制裁を受けたりするようにするとその土地がよく管理されることになることがあるが、誰が管理人になるかは決まらないということだ。
 その例外が身体ということになる。身体を管理するのは、まずは、その身体を有する本人だとしよう。とすると、褒美や罰金の宛て先はその本人となる。ちかごろでは、健康に気を遣ったらその分保険料を安くしたらよいといった話をする人もいる。それをどのように評価するか、評価の基準の一つである有効性からみてどれだけの効果があるか、代わりに何が失われるかを考えることになる★10。
 有効である可能性はなくはない。ただ実際にはそれは多く乱暴なものだ。健康に経済状態その他が関わっていることは誰もが知っている。気遣いとは別の種々の事情によって左右される。自分でどうかなる部分は多くないし、どうかなる・ならないの間に境界線を引くこともたいていできない。苦労(の多い少ない)に応じることは認められるだろうと述べたが、その度合いを図ったり比べたりすることの困難と弊害がある。そしてもっと基本的なところで、不養生の者は死ぬことになるというきまりが正当化されるか。健康状態そのものとは別の受診の有無により保険料を変えるという案を言う人がいるが、容易に受診できる人もそうでない人がいる。料金を安くしたり課金したりするその同じ額も所得など暮らし向きの違いによって価値が異なる。所得によって負担額を変える等それを是正するという処置はなされることもあるが、それでもたいがい問題は解消されず、仕組みもより面倒なものなる。
 この社会でこの言葉は容易に出てくる言葉であり、思いつきでてきとうに持ち出されるのにいちいち対応するのは面倒だが、仕方がない。基本的なことをそして細々したことを考えて言う必要がある。

 3 優生思想・安楽死
 そしてこのたび、ひさしぶりに優生学・優生思想の語が広く口に出された。能力のある人間を生まれさせようとなると、また能力のない人間を生まれないようにしようとなると、優生思想・優生主義ということになる。死ねばよいということになると安楽死尊厳死思想ということになる。そして現在的な意味では、安楽死は自分が自分を死なせることである。
 これらと能力主義の社会とはもちろん親和性がある。その社会において有利になるように、優生主義のような行ないが現われることにもなる。能力の減っていく者が死の方に押し出されることにもなる。つまり先述した二つによって、一つに所有の規則により暮らすための財が少なくなることによって、一つに無価値とされ自らを無価値とすることによって、例えば安楽死はなされる。そして国家がそれを進めようとする場合もあり、家族が志向する場合もある。
 だからそれらはこの社会にあるものをより強くしたものだということになる。それでもまず、この社会にある規則・価値は、死ねばよい・生まれてこなければよいとまでは言わない。殺すことは許容されない。だから同じではない。二つのことがある。
 一つは距離があるということである。現在、安楽死尊厳死は自分で決めることとしてなされている。だからそれを批判するのなら、殺してならないという水準において批判するのでは足りない。問題があるとするなら、自分で決めることは一般によいことだと認めた上で、しかも自分で決めることでもあっても、なお問題があることを言わねばならない。他方、優生の実践は基本的に自分が決めるというものでありえないことを踏まえる必要があり、にもかかわらずそのことがしばしば考えられないことを捉える必要がある。
 一つは連続しているということである。実際、名の知られた倫理学者たちが、その倫理思想において、例えば知能指数であるとかいろいろと条件をつけて、死なせることを支持している。まず、そうしたことは知っておいてもらいたいと思って、そんな人たちの議論を紹介してきたのだった。また、日本では一九六〇年代に福祉の前進、収容施設を作ることを進めた動きのなかに死なせることへの支持が同時に存在しもした(立岩編[2015])。
 基本にある発想は単純ではある。ただそれはこの社会において正しいとされるものに発している。だから基本的にはそれを問題にせざるをえないことになる。同時に、その基本にいくつかのものが付加される。それを考えねばならない。このたび優生学の語が思い出され、一九七〇年代に優生思想を糾弾した人たちか呼び出された。だがその人たちが否定したものをどこまで否定できるか。そう簡単ではないと私は思っている。その人たちは出生前診断を批判・否定した。七〇年代の動きがいったん途切れたように見えることにはそのことも関わっている。そしてこの度その人たちを呼び起こした人たちは、そのことにはふれていない。私は、その部分を厄介だと思いながら考えてきたところがある。そしてはっきり言えることは言おうと思ってきた。そんなことをしていかないと、この今の「優生思想反対」がいくらか収まると、「いややはりそれは(そんなに)わるいものではない」という話がまた現れてくるはずである★11。

 4 実際には余っておりその処理に苦労している
 それにしても、暮らしていくためのものが足りないのだから、あるいは増やさねばならないのだから節約せねばならない、そして/あるいは増産に務めばならないということになる。だから、働ける人の割合を増やす、できない人を減らす必要があるということにもなる(→第2節3)。自助努力してもらうのがよい、動機を与えて負担を減らし生産を多くしたらよいと言われる(→第2節2)
 それにどう応えるか。仮に生産しない人と暮らすことで、そして/あるいは世話の必要な人を世話することによって共倒れになることがあったとしても、皆が死に絶えても、するべきことをするべきだ、という潔い立場はありうる。ただ、もし心配するほどでなければ、そんなに深刻にならなくともよいということになる。
 そして私は、実際にだいじょうぶであると考え、そのことを述べてきた。このことは金を勘定するよりも現物で考えた方がわかりやすい。この世には人と人以外のものしかない。足りないのは前者そして/あるいは後者である。後者についてはやがて足りなくなる可能性はある。しかし今のところはさほどでない。人工透析や人工呼吸のための生命に関わる機器に使われるよりはるかに多い鉄やアルミニウムが様々のものを作るのに使われている。そして人はよりたくさんいる。技術の開発・使用による生産力の増大があり、それに伴ってすくなくとも労働できる人はたくさんいて、余裕がある。寿命の伸長も、おおまかには労働力の増大の方に作用する。失業率は仕事がなく仕事を求める活動を役所が決めた方法で探している人の率にすぎない。主婦、退職者、等々を数えていけば――「長期的視点では、社会を発展させるには労働力の二〇パーセントだけが再生産すればよく、残りの八〇パーセントは純粋に経済的な視点からはただの余剰になってしまっている」(Zizek, in Butler, Laclau &Zizek[2000=2002]とまでは言わないことにするが――人口の数十%には達する。それでも全生産がまかなわれている。それは基本的にたいへん好ましいことである。これは現在の私たちの社会における主流の言説、つまり少子高齢化社会において人も金も足りなくなるというお話の真反対、対極にある。後者が間違っていて前者が現実だと考える★12。ただこの剰余をどのように処理するのかでこの社会は困っている。その一つの野蛮な対処法が、次節で見る排除ということになっている。
 まずこのことをわかったらよい。にもかかわらずなぜ足りないことになっているのか。金の集め方を間違えてそれが長い間に累積していることについては『税を直す』(立岩・村上・橋口[2009])で述べたが、他の説明もある。そのことについては別途考えようと思う。ただ、すくなくともその容疑者は手間のかかる人を殺して世界を救おうと思う必要はなかった。そして殺すまでのことはしない多くの人も、誤解しているのは同じなのだ。
 今ある種の施設・病院、病棟には、容疑者が働いていた施設より、容易に動けない動かない人たちが並んでいたりする。その場は「大変さ」を集めて並べたような場であって、「これでこれから社会はやっていけるだろうか」といった思いを生じさせ増幅させることはあったかもしれない。そんな場でただ慣れていく人もいるだろうし、磨耗し疲労する人もいるだろう。しかしそうした疲労とともに「正義」を言い実行したくなる人もいる。ただそれは、同様の人たちが集められた空間があり、そして社会全般に不足と先行きの暗さが言われてしまっていることによる。どうしたら人々は納得するのか、わかるまで、様々な言い方が可能なら様々な言い方で、このことを言っていく必要かある。

■3 野蛮な対処法と別の方法

 1 野蛮な対処法
 人間に余剰があることは基本的にはよいことである。さらに成長が必要とされているところではそれも可能である。このように考える限りでは原理的・基本的な困難はない。しかし、生産と生産力をうまく処理できないと、それでかまわない人たち、それを利用してさらに益を得る人たちもいるが、困る人たちも出てくる。人が多いことは、人を雇う側にとっては有利だが、職につけなかったり職を失う人が出てくる。格差か大きくなる。
 社会学では長く、業績原理と属性原理という図式があってきた。そして私は前者の方について考えてきた。それは一つ、それを正面から扱う人が少ないからだった。ただ、実際には両方があり、二つが組み合わさって、すこし複雑なことになっている。
 この社会は第2節に記した原理で動いているものとされるが、実際にはそうでない。それはすこしも不思議なことではない。そこには、偏見や差別意識といったもの(だけ)でなく、物質的な利害が絡んでいる。排除することによって、排除する側が利益を得ること護ろうとすることがある。そこに国家と国境が絡む★13。その事情を簡略に記す。
 排除は、第2節に記したこの時代の「正義」によって批判されることにはなる。公的に正当とされる原理は業績原理の方である。できるけれども、そのように遇されてこなかった人たちがいる。それは正義にもとることになっている。そしてそれだけでなく、雇いたい側にとっても不利になる。そこで例えば女性を雇用する。外国からの人も雇う。コストを利益が上回るのであれば、障害者も雇う。所謂単純労働者の流入は、その生産物を安く買えることになるから、社会のある部分に歓迎される。安く労働力や商品を買いたい側は「自由(貿易)」を支持する。とくに労働力を買う側は、市場が広く拡大していくことが有利になり、労働者になる人たちが多いと競争のもとで労賃を安くおさえることができて利益になる。近代社会の基本的な所有権の規則のもとで、そして誰もが知っているグローバリゼーションのもとで、富は集中していく。
 安く買えるのはよいとして、同時に多く買われる者でもある自分たちはどうなるか。被害を蒙らずにすむ層がある。例えば高い費用のかかる教育を受けられて、その人たちに用意された職に就ける人たちは困らない。その職は言語他参入障壁があるその他の理由によって護られる。他方で消費者としては安く買えるようになるのだから、自由化を歓迎する。
 他方に不利になる人たちがいる。技術の進展、生産力の増大に伴って余剰労働力が増大し、安く買われるあるいは仕事につけない労働者が増えていく。外国人ができる仕事がある。あるいは機械もできる部分がある。安くもなるし、いらなくもなる。こうしてこれまでは仕事につけていた人たちが職を奪われたり得られなくなる。それにその人々は不満をもつ。実際、既に現実にいくらかはそうなっている。実際にはそれほど(かつてのマイノリティの)参入は進んでいない、その境遇は変わっていないという反論は可能だし、当たっているが、一部にそうした現実があるのもまちがいではなく、人々はその一部に不満をもっているのだから、説得され納得はしない。
 その流入する層にいる人たちにとっては脅威と感じられる。そこで「労働者階級」に排外主義が起こる。排外主義の繁栄、イギリスのEU離脱、米国でのできごと、左派・リベラルがなかなか勝てないことも概略以上あげたようなことごとに関わっている。
 このような敵意が、かなり広範に、存在している。最初から「重度障害者」となると、開き直るしかない。そこに居場所を定めれば、強いことが言える。しかしそんな人の方が少ない。損をする側ではあるが、もっと損をしている人よりは損をしていない人たちがいる。その人たちはこの社会で最初からとことん不利という人たちではなかった。そして、しばらく前であればもっとよい生活ができたはずだとも思われる。ただ現在は不安定であり、展望は明るくない。他方の新興の勢力はよい目をみているようであり、そしてその得をしている人たちはなにか賢しいことを言う人たちであり、そして正義や人権を語るのでもある。
 そしてときにその割を食っていると思う人たちは天下国家を愁う人であることもある。自分(たち)の利害を護るために、大きなものを持ち出すことがある。そしてその人たちに、国境や民族等々によって人と人の間に境界を引くことの恣意性を言ってもあまり効かない。そんなことを考えたこともないし考えるつもりもない人には効かない。またそんなことは承知のうえでという人もいる。
 そして自由は正義であるとされるが、その正義が信用されなくなる。実際にはそこから利益を得る者たちが、それを得ようとする時に使う言葉と見られるからである。その価値が下げられてしまう。それは他でも多々起こっていることだ。「人権」が攻撃のための道具として利用されていると言われる。そしてそれはまったく当たっていないわけではない。

 2 別の方法
 こうして、排除・排斥という手で自らを保てるように思う人たちがいる。それはわかりやすいやり方であり、その効果も可視的に思われる。
 人の流入を含む自由化をよいこととして、あるいはよしあしは別に前提すると、それは一部の人に益をもたらし一部に損失をもたらし格差が広がる。それを問題にするのなら、その格差を縮めれば問題は少なくなる。そして、流入、望まない移動を激化させないためにも、世界的な格差を緩くしていくための手だてをとることである。しかしそれは困難なことに思われる。
 ただまず、自由化を最初におく必要はない。奪われることに憤ること、そしてそれに抗議することに理はあると考えたらよい。すくなくともその人たちになにか過失があったわけではない。その土地における社会関係等を破壊する人や物の流入を認めないことが正当とされることはある。それは、これまで「先進国」からの侵略に対する反発としてあった。それと、今米国のある人々が流入に反対していることとは、結局後者の人たちはまだ豊かな側には属しているのでもあり、同じでないにしても、極端に違うわけではない。どこまでもというのではないが「保護」は認められる。そして極端な排外主義者とそれほどでもない人たちとがいる。両者は連続的であるとしても、それを分かち、自らのためにも極端な人たちとは一緒にはならないことは選ばれうる。
 そして流入によって拡大する有利不利を減らすために、差を縮小することを優先する。その人々は格差には敏感ではあり、それで不満をもっているのだった。だから差を減らす策には基本的には賛成する。人の数でものごとが決まることになっているのだから、多数が反対しないような縮小策をとることは本来は可能なはずである。それは米国の夢を壊すことであるかもしれない。しかしそれが、努力は報われたらよいというような素朴でもっともな夢なのであれば、その夢・理念は認めてよいのだった。そして実際には、そんな夢のようなものでものごとはまったく決まっていないことを言えばよい。
 こうして国内の差を縮めようとする。すると富裕や人や組織は国外に出ていくことになる。それは差の縮小を困難にする。それを理由に差を縮められないとも言われるのだが、これは課税などについての国際的な取り決めなどがなされれば、国内のまた国際的な格差の縮小が可能であることを示すものでもある。そうすると、仕方なく好きでもないところに住み働く所を移動する必要も少なくなる。
 以上はきわめて単純、というほどには単純ではない。しかしそれほど複雑でもない。もう一度、あるいは幾度でも、たしかに一面では不当に扱われつつ抑圧する側にまわっている人たちを味方につけねばならない。そしてそれはそう簡単なことではないが、どうしようもなく難しいことでもない。

■註
★01 同業者が「若者」についてたくさん書いているなかで、そういう(若い)人たちに興味がなかったということが一つある。なにか論ずることがいけないことだとは思っていなかったが、これだけたくさんの人たちが論じているのなら、よく知らない私の出る幕ではないと思った。それ以外では、私は短い間に大きな変化が起こるという考え方をあまりしないですませてきたということもある。「ボスト云々」というのにすこし倦いていたのでもある。「近代」という大雑把な括りでものを考えてようとしてきた。
 ただまったく興味がないということではなかった。(その時代の)人について分析したり書くということはどういうことなのだろうということも含め、いくつかの事件を起こした人のことを論ずる、あるいは論ずることを考えるということがあってよいのだろうとは思ってきた。
 これまでいくつかの事件があった。私がいくらかを書いたのは、「浅草レッサーパンダ事件」を取材して書かれた本の書評([2005])だけで、それは『精神病院時代の終わり』([2015])に収録されている。HPでも読める。その頁の下の方には雑誌には載らなかったかなり長いメモがある。
 そして私はたんに臆病であるということがあった。気持ちのわるくなるようなものを見たくない。その人が書いたというものをまだ私は見ていない。半端にしか知らない、取材などできない、半端にやるよりはやらないほうがよい、きちんと調べたり考えられたりする他の人に委ねた方がよいとも思った。
 なお本稿の一部は[2016/10/10]と重複している。
★02 生存学研究センターのHP(http://www.arsvi.com/)にある。その表紙から行ける。斉藤龍一郎他が収集作成している報道を集めたページ等、約六七万字、四〇〇字詰一六〇〇枚ほどの分量がある。
★03 あらゆる人間が役に立つと、役に立つと言わねばならないことはないと言ったのは、事件後のNHKの番組でだった([2016/08/07]、収録は七月三一日)だった。その番組には「24時間テレビ」を批判する回もあって、理解のある人たちが作ったり出たりする番組だ。ただそれでも、優しくよい番組になってしまう傾向はある。私は真面目になるならもっと真面目に(できれば事件の前に)怒ったらよいのに思って、そのことを言った。番組を収録したその同じスタジオで、二〇〇七年、障害者でもなんでもできるようなことを語る(筋ジストロフィーの)人がいて、そんなことを滔々と語る人に誰も何も言わないのにいらいらしていた。その番組を横田弘が見て、二〇〇八年に三度めの対談・鼎談ということになり、その記録が横田・立岩・臼井[2016]に収録された。
★04 このことは各所で幾度も述べている。遺伝子検査と保険について「未知による連帯の限界」([1998])。そして税は保険料のようなものでないことについては『税を直す』(立岩・村上・橋口[2009])。そして二〇〇〇年前からその後の障害者運動を「介護保険的なもの」に対抗する運動と捉えてまとめたのは[2012]。
★05 「危険でないこと」を語るとそれが取り上げられ――「精神障害者の犯罪率は統計的に低いこともわかっている。「危ない」「隔離しろ」という偏見を広げないことも大切だ」(朝日新聞に載ったコメント[2016/07/28]等)――実際それに対して、「はじめてそれを知った」といった反応が(かなり多く)ある。インタビューでは「障害ってことでいえば、僕の両親は本格的に認知症だし、一人だけいる甥っ子は発達障害。ほかにもいる。身内だけ見てもこうですし、私も年をとりつつあるわけで、好ききらいは別として当事者であること、本人になることから逃れられないということがあります。」([2016/10/25])といった――たしかにそんなことも話した――箇所が雑誌に載ることになる。
★06 この箇所を引いた横塚晃一『母よ!殺すな』の「解説」([2007])の3は「何がよいのか、はあなたの思いと別にある」(4は「だが、示すならわかるはずであること」)。
 「否定されそうな自分たちを救ってくれるのが「愛」とされる。だが自分たちを愛してくれるのはあくまで相手だ。それは自分たちの生存が相手の気持ちに左右されるということでもある。そんなことでよいのか。/このように考えてみると、彼らの乱暴な言葉が人間や社会のずいぶん深いところを捉えていることがわかる。」(『聖教新聞』に載った短文、[2016/09/29])
 「彼らの乱暴な言葉」は「われらは愛と正義を否定する」という標語を指している。
★07 他者が快であることを『私的所有論』で述べ、純粋な利己主義について『自由の平等』([2004/01/14])で述べた。そんなこと・ものが実際にある。ただその標語だけを標語として受け取ってもらっても仕方がない。幾つもの思いや観念の層があるその複数性を捉え、そこから選んだり、組み合わせたりして使うことだ。
★08 これは英語にしにくい言葉で、『私的所有論』英語版([2016/09/21])ではいささかの無理を承知で ableismという言葉にした(このことを英語版の序文[2016/09/21]で述べている)。この英語の単語はたぶん新しい言葉で、(ふつうの意味での)障害者(people with disability, disabled people)差別を肯定する主義、健常者主義といったものを意味しているようだが、日本ではもっと広い意味で能力主義という言葉が使われた。これを考えることは私の最初からの仕事であってきた。
 なお言うまでもなく、この能力はそれを求める者たちがどんなものを求めるかによって、大きく変わってくるし、その差を増幅させる仕組みがあると些細な差が大きく現象することにもなる。例えばものを作ったりするのは機械がだいたいやってくれてしまっているので、人間に残される仕事は「人間関係」的な仕事になってしまい、そういうことが苦手な「発達障害」の人たちが括り出され目立つようになってしまったと考えられることを『自閉症連続体の時代』([2014])で述べた。
★09 なぜ個々の(通常は交換がなされる)場で困難な贈与についての同意が社会的分配の場で得られる可能性があるのかについては『自由の平等』で考えた。
★10 税の累進性を高めると「労働インセンティブ」を削ぐことになる(からよくない)という理屈の検討(批判)は『税を直す』第1部([2009])第3章「労働インセンティブ」。逆の効果を生む可能性があること、それを示すデータがあることを述べた。
★11 『私的所有論』の本の第6章の第3節が「性能への介入」で優生学の歴史を記している。第9章が「正しい優生学とつきあう」で、出生前診断・選択的中絶について検討している。その後優生学史研究はいくらかの進展を見せたようで、しかし私はその勉強はしなかった。優生学にしても生殖技術にしても、その本で使われている文献は一九九〇年代までのもので、今回英訳版を出すにあたって、そうした部分をそのまま残すのにはためらわれるところもあった。ただ大筋では書くべきことは書かれており、事実の記述としても間違ったことは書いていない。私はこの本を信州大学医療技術短期大学部(現在は信州大学医学部保健学科)で看護師等を目指す学生の「社会学」の「教科書」として(レンタルにして)使い、優生学と出生前診断について時間をとって話した。まず単に歴史的事実を知っておくべきだと思った。それが極端な変な思想というものではないことも話した。
 そしてその本ではあまりふれず、その後に書いてきたのは、安楽死尊厳死のことだった。法制化の動きがあってなにかとうるさかったこともあるが、生まれる前のことよりも、生きてきた人が死ぬことの方が深刻なことだと思えたことにもよる。
★12 このことは幾度も書いたり話したりしているのだが、それが一九世紀以来の社会・経済思想の文脈にある話であることには気づかない人もいるかもしれない。「少子高齢化」という言葉もまたその文脈を見えにくくしているのだろう。『現代思想』での連載の第八五回が「素朴唯物論を支持する」だった([2013/01/01])。この前後それに関わることを書いた。本一冊分にはなっているのだが、読む人がどれだけいるだろうとも思い、そのままになっている。
 足りなくないという話は、書籍になっているものとしては『良い死』([2008])第3章「犠牲と不足について」。むしろ余っていて、それをどう処理するかにこの社会はなかなか苦労しているのだという話は『家族性分業論前哨』(立岩・村上[2011])にある。近代家族・専業主婦体制は人をたくさん働かせるためにというよりは労働力を調整しつつ家計という単位のもとで(たいがいの)人が暮らせるようにする仕組みとして成立したのだといったことが書いてある。
★13 国境が完全な自由な行き来を実現させるわけでもなく、まったくの閉鎖のために存在するのでもない中で何が起こるかについていくつかに書いている。[2001]は『国家と所有のゆくえ』(稲葉・立岩[2006])とともにPC可読ファイルで提供している。国境がそのように存在することによって人や金の流出・流入が起こり得て、それが所得等の再分配を十分に行なえない理由にされてしまうことについては『税を直す』。こうして徴税の困難、というより困難だという言い訳があるのではあるが、失業と低賃金労働が拡大していくなかで、所得の分配は(この体制を維持したい側にとっても)必要とされる。その一つの方法としての「ベーシックインカム」について検討したものとして『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(立岩・齊藤[2010])。ちなみに私は本の題名だけ見ててきとうなことを言う人たちが誤解しているのと異なり、ベーシックインカムの信奉者というわけではない。それは本を読んでもらえばわかる。

■文献 *はPC可読媒体で提供
安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』、生活書院
Butler, Judith ・ Laclau, Ernesto・ Zizek, Slavoj 2000 Coningency, Hegemony, Universality: Cotemporary Dialogues on the Left, Verso=2002 竹村和子・村山敏勝 訳『偶発性・ヘゲモニー・普遍性――新しい対抗政治への対話』、青土社
稲葉振一郎・立岩真也 2006 『所有と国家のゆくえ』、日本放送出版協会 *
立岩真也 1997 『私的所有論』、勁草書房
―――― 1998 「未知による連帯の限界――遺伝子検査と保険」、『現代思想』26-9(1998-9):184-197(特集:遺伝子操作)→立岩[2000:197-220]
―――― 2000 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』、青土社
―――― 2001 「国家と国境について・1〜3」、『環――歴史・環境・文明』5:153-164, 6:283-291, 7:286-295 *
―――― 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』、岩波書店
―――― 2005 「書評:佐藤幹夫『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』」、『精神看護』08-06(2005-11):110-116→立岩[2015]
―――― 2007 「解説」、横塚[2007:391-428→2010:427-461]/立岩[2016/04/29]
―――― 2008 『良い死』、筑摩書房
―――― 2009 「軸を速く直す――分配のために税を使う」、立岩・村上・橋口[2009]
―――― 2012 「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」、安積[2012:549-603]
―――― 2013/01/01 「素朴唯物論を支持する――連載 85」、『現代思想』41-1(2013-1):14-26
―――― 2013/05/20 『私的所有論 第2版』、生活書院
―――― 2014 『自閉症連続体の時代』、みすず書房
―――― 2015 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』、青土社
―――― 2016/07/28 「七・二六殺傷事件後に」、『朝日新聞』2016-07-28朝刊(取材:07/26-27)
―――― 2016/08/02 「七・二六殺傷事件後に」、共同通信配信(『新潟日報』『静岡新聞』『高知新聞』等に掲載、原稿送付:08/01)
―――― 2016/08/07 「七・二六殺傷事件後に」、NHK・Eテレ『バリバラ』緊急企画「障害者殺傷事件を考える」(収録:07/31)
―――― 2016/09/01 「七・二六殺傷事件後に」、『現代思想』44-17(2016-09):196-213
―――― 2016/09/21 On Private Property, English version, Kyoto Books
―――― 2016/09/21 Preface (2016, to Readers of the English Version), Tateiwa[2016]
―――― 2016/09/29 「自らを否定するものには怒りを――横田弘らが訴えたこと」、『聖教新聞』2016-9-29
―――― 2016/10/01 「七・二六殺傷事件後に 2」、『現代思想』44-19(2016-10):133-157
―――― 2016/10/10 「国家・権力を素朴に考える」、『精神医療』84
―――― 2016/10/25 「障害者運動って、なんですか?――「障害児を殺してもいい」という一九六〇年代から」(インタビュー、聞き手:奥田直美・奥田順平)、『Chio』113:64-75
立岩真也・村上潔 2011 『家族性分業論前哨』、生活書院
立岩真也・村上慎司・橋口昌治 2009 『税を直す』、青土社
立岩真也・齊藤拓 2010 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』、青土社
―――― 2015 『与えられる生死:一九六〇年代――身体の現代・記録:『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』、Kyoto Books *
横田弘・立岩真也・臼井正樹 2008 鼎談→2016 「対談2 二〇〇八・一・二二」→横田・立岩・臼井[2016:178-213]
―――― 2016 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』、生活書院
横塚晃一 1975 『母よ!殺すな』、すずさわ書店
―――― 1981 『母よ!殺すな 増補版』、すずさわ書店
―――― 2007 『母よ!殺すな 新版』、生活書院


UP:2016 REV:2016
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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