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国立療養所・3――生の現代のために・13

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立岩 真也 2016/06/01 『現代思想』44-(2016-6):-
『現代思想』連載(2005〜)

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『現代思想』2016年6月号 特集:日本の物理学者たち・表紙

■入所者の組織の位置・続
 国立療養所の所長らが執筆者になった『国立療養所史』から、前回は、「日本患者同盟(日患同盟)」、そして療養所の労働組合とその連合体に関する記述を少し拾った。日患同盟については説明した。終戦直後次々に結成され、そして国立療養所・国立病院の再編とともに再編され合同してできる「全日本国立療養所労働組合(全医労)」については「総括編」の第六章第一〇「職員の団体活動」の第三「全日本国立医療労働組合」に説明がある★01。その組織はレッドパージにあって勢力をいっとき弱められることもあった。
 そしてハンセン病療養所★02の入所者たちの組織、一九五一年結成の「全国らい患者協議会(全患協)」、八三年に改称して「全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)」がある。
 各々の組織にはそれぞれ歴史もあり、その活動を担ってきた人たちによって書かれたものもないではなく、資料もあり、その蓄積・整理の作業があることも紹介した。だからそれぞれについて私が書く必要はない。ただ一つ、たしかに大きな働きをした日患同盟他の動きこそが――それに自ら積極的に参与してきた人たちが書くとそうなるのは当然のことだが――「患者運動」であり、その後の運動の全部を導いたのだとするのは単純にすぎることを書いておこうということがあった。それは重要な一部ではあるが、それと別の流れとを区別したり、関わりを見ながら捉えていく必要がある。
 また一つ、そうした組織が、どのような範囲・限界のもとで動いたか、一つ、何を使って動いたのか、そして一つ、その勇敢な歴史が、別の場からどう見えていたかを紹介してもよいと思った。
 それで前回、経営者たちが、入所者の組織そして労働者の組織に苦労させられ、それでずいぶん嫌いもしたことを紹介した。
 […]

■六〇年代前半の動き
 施設長が、重症身心障害児の受け入れについて、また筋ジストロフィー児の受け入れについて書いている文章がある。総論としてよいこととしながら、人員配置の面等で難色を示しつつ、しかし「本省」の意向もあり、なにより結核の入所者が減っていく中で受け入れざるをえなかったという筋になっている。そしてその手前で、作家水上勉の「拝啓池田総理大臣殿」(水上[1963a])の影響があり、親の会の運動の影響があったことが、既に一九七〇年代、定型化された語りとして語られる。「結核編」の筋ジストロフィーの項でも西多賀病院――この仙台の病院が国立療養所では初めて筋ジストロフィーの人を受け入れた――の当時副院長の湊治郎、同院の浅倉次男がそのことを述べている。
 […]

■国立療養所での「重心」の受け入れ
 「重症心身障害児」の受け入れについて、国立療養所の側は、対応の必要性については認めながらも、負担が大きく、受け入れが困難であることを言い、しかし結核の後に組織をも継続させていこうとするなかで、人員の増員を求めながら、受け入れることになる。さきに引用した保坂と阿部の文章では、「原動力となった」の後、「この頃の国立療養所のおかれていた状況をみると、昭和三〇年代の後半頃、予防医学の普及、化学療法、外科療法の進歩で、結核患者の入院は次第に減少して来ており、将来なんらかの方向転換を考慮せざるを得ない状況になってきていた。この辺の事情を寄せられた原稿をもとにしてお伝えしょう」(保坂と阿部[1976:256])として、幾つかの文章を紹介あるいは引用している――このような構成だから、もとの全文はなく、目次にもあがっていないだが、文献表にはあげておく。
 まず八雲病院(北海道、後に筋ジストロフィーの人たちを収容していく)の院長篠田実の文章の一部がそのまま引用されている。

■註
★01 「終戦後、全国の各地に労働組合結成の機運が急激に発生した。傷痩軍人療養所の国立療養所への転換とともに各国立療養所に職員組合が結成された。昭和二一年八月、東京療養所、新潟療養所など一〇箇所の組合で、全日本国立療養所職員組合(全療)を結成、同二二年日本医療団の結核療養所が国立療養所に移管されるとともに、それらの療養所の組合である全日本医療団従業員組合(全医従)、日本医療団職員組合総連合(総連合)も全療に参加した。
 一方、陸海軍病院から転換された国立病院においても、各地に職員組合が結成され、全国立病院労働組合(全病)へと発展した。全療、全病ともに、昭和二二年八月、厚生大臣と労働協約を締結し、団体交渉、組合員の組合事務専従、運営協議会が認められ、各支部もそれぞれ療養所と協約を締結するようになった。昭和二三年一一月、全療と全病の合同の機運が熟し、全日本国立医療労働組合(全医労)が結成された。合同当時の全療の組繊人員は一二〇〇〇名で、委員長は堀江信二郎であった。
 新発足の全医労は、組合員は全職員の約七〇%の二五〇〇〇人であり、翌昭和二四年、組合活動を規制する人事院規則が相ついで制定され、その年の一二月、全医労は、第三回臨時全国大会の決議に基づいて、人事院に登録して、法内組合となった。」
 そして表がある。一九五〇・五五・六〇・六五・七〇・七三年に、支部数が一九一・一七三・一九二・二〇一・二一〇・二一五、組合員数は二二四一八・一七二〇三・二一〇九二・二〇四二四・二三三〇〇・二五七二三。注が付されていて「昭和三〇年に減少したのは、昭和二四年のレッド・パージーによる」と記されている(国立療養所史研究会編[1976c:662-663])。
★02 予防局の所管だった国立らい療養所は、連合国軍の軍政下に置かれた三箇所を除いて九箇所。それらが一九四五年一二月に新設の医療局に移管された。国立療養所松丘保養園(青森県東津軽郡新城村)、国土療養所東北新生園(宮城県登米郡新田村)、国土療養所栗栖楽泉園(群馬県吾妻郡草津町)、国土療養所多摩全生園(東京都北多摩郡東村山町)、国土療養所長島愛生園(岡山県邑久郡裳掛村)、国土療養所邑久光明園(同上)、国立療養所大島青松圏(香川県末田郡庵治村)、国立療養所菊池恵楓園(熊本県菊池郡合志村)、国立療養所星塚愛敬園(鹿児島県鹿屋市)。軍政下に置かれたのは沖縄にある国頭愛楽園、宮古南静園と鹿児島奄美大島にある奄美和光園の三施設。そして軍事保護院から医療局に所管が移った一箇所、傷痍軍人駿河療養所も国立療養所に移管された。(国立療養所史研究会編[1976c:134])
★03 「立岩 いろんなかたちでためらわれるものがあった。この間ハンセン病のもと患者さんの話を聞いたんだけど。僕は七〇年代以降のことを言い過ぎたかもしれないけど、結核療養の患者さんとかハンセン病の患者さんの団体っていうのは、非常に劣悪な状況の中で果敢な闘争を展開されてきた団体であるんですよ。そこの中で何はともあれ多くのものを勝ち取ってきたっていう意味では、決して五〇年代、六〇年代に何もなかったということじゃないのね。ただ、[…]
 ようやく「らい予防法」はなくなったんだけど、少なくともある時期、予防法撤廃っていうふうにストレートにはいけなかった部分っていうのはやっぱりあって。基本的に差別法だけど、その中で自分たちがともあれ生きていける保障をしてる法律でもあるっていう認識が患者さん自身にもあったから、ある意味でしょうがなかったし、僕らがとやかく言うようなことでもないと思うんです。ただやっぱりある種の、たとえばその不妊手術のことについては言い澱んでしまうっていう部分があった。
 そのあったこと、あったときの空気みたいなものも含めて、やっぱりはっきりさせられるところはさせなきゃいけないし、はっきりさせた上でじゃあどうするんだってことを、非常に何というか、場合によっては疲れることだけれども、考えるしかないんじゃないか。そういうことを始めさせたのが七〇年代の運動だったのかな。」(市野川・立岩[1998→2000:170-172])
★04 例えば、内藤・山北編[2014]に「脱施設化は真の解放を意味するのか」(有薗[2014])が収録されている。その論文は、四節あるうちの第三節が「国立ハンセン病療養所における患者運動」で、全患協についての言及がある。そこには、その組織が与えられたもの(療養所という施設とその中での暮らし…)を「守る」闘いをしたことが書かれていて、有益である。ただたんに、とても短い。その内部には、またその外部との間には様々があったのであり、すくなくともその一端は、今でも入手できなくはない機関誌の縮刷版を見てもわかるところがある。他に、らい予防法と全患協〜全療協の運動について川崎[2011]、『全療協ニュース』について川崎[2012]、ハンセン病と結核の患者運動の双方について川崎[2015]、等。おおむね史実が順番に列記され、解釈については藤野[2001]等が援用される。
★05 「その施設入所基準は、/1.高度の身体障害があってリハビリテーションが著しく困難であり精神薄弱を伴うもの、ただし盲またはろうあのみと精神薄弱が合併したものを除く/2.重度の精神薄弱があって家庭内療育はもとより重度の精神薄弱児を収容する精神薄弱施設において集団生活指導が不可能と考えられるもの/3.リハビリテーションが困難な身体障害があり、家庭内療育はもとより肢体不自由児施設において療育することが不適当と考えられるもの」(保坂・阿部[1976:255])
★06 青い芝の会の横塚晃一(cf.立岩[2015][2016])もいっとき整肢療護園にいた。
 「横塚は一九三五年一二月七日生。[…]五二年六月に整肢療護園(東京都板橋区)に入園、小学六年に編入され、五三年三月、小学校卒業。同級生だった矢野龍司によれば、その園の子供会の会長を務めた、また将棋が強かったという。同年四月、中学校入学、五四年一二月、児童福祉法適用切れにより整肢療護園を退園、以後、不就学。この時一八歳、児童福祉法は基本一八歳の人までの法律だから退園ということだが、その時、学校二年で学校も終わりということになる。[…]/整肢療護園は全国にできていくが、東京のそれは最初のもので、医学者によって作られ、治療が目指された。「脳性麻痺には脳性治療を」という標語もあったらしい。関係者によって『脳性麻痺の治療』(小池文英・保田良彦、一九六六)といった本も出されている。ちなみに今日に至るまで脳性麻痺はなおらない。ただなおすための営みは引き続き行われ、私(一九六〇年生)が直接に話を聞いた少し上の世代やほぼ同じ世代の人たちも親に連れられそうした施設に暮したり通ったりして、いろいろと痛い目にあった、それで良いことはなかったという話を聞いたことはある。」(立岩[2015])
 整枝療護園の歴史についてウェブ上で読めるものに整枝療護園[2012](実際には著者名は記されていない)。小池の追悼文に、水野[1983]、坂口[1983]、津山[1983]。後二者が掲載されている雑誌の当該号には「小池文英先生略歴」もある。


■文献()→文献表(総合)

◆有薗真代 2014 「脱施設化は新の解放を意味するのか」,内藤・山北編[2014:228-240]
◇遠藤 浩 2014 「国立コロニー開設に至る道のり」,『国立のぞみの園 10 周年記念紀要』 
藤野豊 2001 『「いのち」の近代史「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』,かもがわ出版
◆花田 春兆 1963a(1963/06 「切捨御免のヒューマニズム」,『しののめ』50→1968 花田[1968:14-23]→立岩編[2015]
◆―――― 1963b(1963/10 「お任せしましょう水上さん」,『しののめ』51→1968 花田[1968:78-85]→立岩編[2015]
◆―――― 1965/10 「うきしま」,『しののめ』57→1968 花田[1968:33-44]→→立岩編[2015]
◆―――― 1968/10/20 『身障問題の出発』,しののめ発行所,しののめ叢書7
◇原嘉彦 1988 「国立病院・療養所の再編成・「合理化」と労働組合運動」,『立命館経済学』37-4・5:430-452
◆保坂武雄・阿部幸泰 1976 「重症心身障害児(者)の医療」,国立療養所史研究会編[1976a:254-272]
◆市野川容孝・立岩真也 1998 「障害者運動から見えてくるもの」(対談),『現代思想』26-2(1998-2):258-285→立岩[2000:119-174]
◆石井良平 1976 「重症心身障害児(者)」,国立療養所史研究会編[1976a:256]
◆石川達三・戸川エマ・小林提樹・水上勉・仁木悦子 1963/02 「誌上裁判 奇形児は殺されるべきか」,『婦人公論』48-2:124-131→立岩編[2015]
◆川崎愛  2011 「『らい予防法』に当事者団体はどう向き合ってきたか――制定、廃止、国賠訴訟における闘い」,『流通経済大学社会学部論叢』22-1 
◆―――― 2012 「ハンセン病療養所におけるニュース発行――アメリカ・カービル「スター」と「全療協ニュース」」,『流通経済大学社会学部論叢』22-2:51-63 
◆―――― 2015 「患者運動と政策の関係――ハンセン病、結核の比較を通して」,『 流通経済大学社会学部論叢』26-1:99-115 
小池文英・保田良彦 1966 『脳性麻痺の治療:機能訓練の実技 :リハビリテーション』,医道の日本社
◆国立療養所史研究会 編 1975 『国立療養所史(らい編)』,厚生省医務局国立療養所課,135p.
◆―――― 1976a 『国立療養所史(結核編)』,厚生省医務局国立療養所課,679p.
◆―――― 1976b 『国立療養所史(精神編)』,厚生省医務局国立療養所課,360p.
◆―――― 1976c 『国立療養所史(総括編)』,厚生省医務局国立療養所課,732p.
◇厚生省医務局編 195512 『国立病院十年の歩み』,厚生省医務局 
窪田好恵 2014 「重症心身障害児施設の黎明期――島田療育園の創設と法制化」,『Core Ethics』10:73-83 
◆―――― 2015 「全国重症心身障害児(者)を守る会の発足と活動の背景」,『Core Ethics』11:59-70 
◆黒金泰美 1963 「拝復水上勉様――総理にかわり、『拝啓池田総理大臣殿』に応える」,『中央公論』1963-7:84-89→立岩編[2015]
◇湊治郎 1976 「重症心身障害児収容施設今後のあり方」,
◆湊治郎・浅倉次男 1976 「進行性筋萎縮症児(者)の医療」,国立療養所史研究会編[1976a:276-297]
◆水上勉 1963a(1963/06 「拝啓池田総理大臣殿」,『中央公論』1963年6月号,pp.124-134→立岩編[2015]
◆―――― 1963b(1963/08 「島田療育園」を尋ねて――重症心身障害の子らに灯を」(特別ルポ),『婦人倶楽部』1963-8:198-202→立岩編[2015]
◆水野祥太郎 1983 「小池文英君をしのんで」,『総合リハビリテーション』11-9:766-767  
◆内藤直樹・山北輝裕 編 2014 『社会的包摂/排除の人類学――開発・難民・福祉』,昭和堂,255p.
◆成瀬昇 1976 「重心児病棟創立時のこどもども」,国立療養所史研究会編[1976a:256-257]
◆坂口亮 1983 「静かな勇士 小池文英先生」,『総合リハビリテーション』11-9:767 
◆整枝療護園 2012 『整枝療護園のあゆみ』 
◆篠田実 1976 「重心、筋ジス」,国立療養所史研究会編[1976a:255-256]
◇杉林ちひろ 2011 「日本の医療労働運動――ナースウェーブを中心に」,『季刊北海学園大学経済論集』58-4:13-30 
◆高島重孝 1975 「まえがき」,国立療養所史研究会編[1975:8-11]
◆立岩真也 2000 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社
◆―――― 2015 「横塚晃一――障害者は主張する」,吉見編[2015:257-283]
◆―――― 2016 『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』Kyoto Books
◆立岩真也 編 2015/05/31 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books
◆津山直一 1983 「小池文英先生の追悼」,『総合リハビリテーション』11-9:766-767 
◆植園八蔵 1975 「らい対策立法の展開と福祉」,国立療養所史研究会編[1975:88-93]
◆吉見俊哉編 2015 『万博と沖縄返還――一九七〇前後』(ひとびとの精神史・5),岩波書店
◆全国ハンセン病患者協議会 1988- 『炎路 全患協ニュース縮刷版(第1号〜300号)』『全患協ニュース縮刷版第2集(第301号〜500号)』『全患協ニュース縮刷版第3集(第501号〜700号)』,全国ハンセン氏病患者協議会
◆全国ハンセン氏病患者協議会 編 1977 『全患協運動史――ハンセン氏病患者の闘いの記録』,一光社


UP:2016 REV:20160504, 28
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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