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「長谷川豊アナ「殺せ」ブログと相模原事件、社会は暴論にどう対処すべきか?」(インタビュー:泉谷由梨子)
立岩 真也
2016/11/25
『The Huffington Post』2016-11-25
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/22/hasegawa-yutaka_n_13162488.html?ncid=engmodushpmg00000004
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◆
人工透析/人工腎臓/血液透析
/ ◆
人工透析/人工腎臓/血液透析:2010'
※関連書籍
◆
立岩 真也 2020/**/**
『(本2)』
◆2017/10/14
https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/918854095900831745
「長谷川豊という「言うまでもなく、端的に間違っており、何も考えていないことがよくわかります」人物が、国会議員の候補に、しかも政党が比例代表にあげる候補になったということは、たいへん驚くべきことで悲しむべきことです。続報します→
http://www.arsvi.com/ts/20160039.htm
△マフィン @muffindoughnut
「長谷川豊の立候補に対して、立岩真也のような人にきちんと対峙してもらいたいものだ。|「全員に対して医療サービスを提供して、その皆が生きられる時まで生きても、社会は困りません」「そしてひどい暴言にはきちんと対峙する、無視する、馬鹿にする」
http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/22/hasegawa-yutaka_n_13162488.html
」
※日本維新の会 比例南関東ブロック
※上記のツィート他(→このページの記事)を、とくにこの選挙区の方々に、知らせてくださいますよう。
◆2017/10/14
https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/919166053040529408
「長谷川豊(日本維新の会比例南関東ブロック候補)→「言論を公に発信した人は、反論に対してきちんと答えるべきです。間違っていたらそれを認めるべきです。最低限のルールです。もとの発言もですが、さらにその後の対応がどうしようもありません」→
http://www.arsvi.com/ts/20160039.htm
△seafurry @seafurry
「立岩真也「「長谷川豊アナ「殺せ」ブログと相模原事件、社会は暴論にどう対処すべきか?」(インタビュー:泉谷由梨子)」 (
http://www.arsvi.com/ts/20160039.htm
@ShinyaTateiwaさんから)これは冷静かつ公正な良い記事。」
◆2017/10/15
「腎臓病何十万人の…――「身体の現代」計画補足・416」
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1957024064564571
■関連書籍
◆立岩 真也・杉田 俊介 2017/01/05
『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』
,青土社,260p. ISBN-10: 4791769651 ISBN-13: 978-4791769650 1944
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/
[kinokuniya]
※
◆有吉 玲子 20131114
『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』
,生活書院,336p. 3200+160 ISBN-10: 4865000178 ISBN-13: 978-4865000177
[amazon]
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[kinokuniya]
※ a03. h.
[表紙写真クリックで紹介頁へ]
◆立岩 真也 2017/01/01
「『相模原障害者殺傷事件』補遺」 連載・129」
,『現代思想』45-1(2017-1):22-33
◆立岩 真也 2016/12/21
「『ハフィントン・ポスト』(『相模原障害者殺傷事件』補遺・4)――「身体の現代」計画補足・279」
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1821179021482410
「もう一つ読んでくださいと書いたのは、『ハフィントン・ポスト』というオンラインだけの新聞に載った[2016/11/25]。長谷川豊というアナウンサーだった人が「自己責任」の腎臓病患者は人工透析を受けず死ぬべきだといったことを何回も書いた。それに対するコメントがほしいということで記者のインタビューを受けた。それは、十一月八日、杉田との対談の前の時間に行なわれた。記者から文案をもらい、かなりの時間をかけて手をいれたものを送った。文章の順序等すこしだけ変更されたものが載った。私が書いたものとしては反応があった。それは九月二六日に話した、仕方なくいちいち反論していくことも必要だというその反論でもある。そして反論はまずはごく簡単に可能だが、もう少し行くと実はすこし複雑なことを言わねばならないのでもある。それは相手方がいくらか「高級」なことを言っているということではまったくない。ただ、それに対する「返し」にはいくらか頭を使わねばならないということがあり、さらにそれを短く言わねばならないということもあって、面倒な仕事なのだが、仕方がないから、する。そしてやはり、その短文だけでは話は完結せず、誰が読むとわからなくとも他方で長いものを用意しておく必要もあるということになる。」
◆立岩真也 編 2015/05/31
『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』
,
Kyoto Books
700
■■お送りした原稿※
※11/08取材。11/11取材に基づく原稿いただく。11/20立岩がなおしてみた原稿をお送りする。「やってみました。おそくなってすみません。けっこうとまどりました。今度は原稿というかたちで書かせていただけるとありがたいです。」(11/20に原稿をお送りした際のメール)
――長谷川豊さんの言論についてどう思われますか。
自分で努力して透析を受けずにすんでいる人がいることは否定しなくてよいでしょう。けっこうなことです。けれど他方で、自分の意思や努力と関係なく、病気になることは多くの人が知っている通りです。まわりの医師から聞いた話として、伝聞でなんの裏付けもない情報を振りまくのはいけない。以上まずは言うまでもないことです。
――仮に「自己責任」がある病気を招いたとして、公的制度から除外されるべきかどうかについては。
例えば交通事故について、家から外に出なければ事故に会わないとは言えるでしょう。自力で防ぐ方法があって、その方法を採らなかったからといってすべて自分で引き受けよとは、自己責任自己責任とうるさいこの社会においてもなっていないんです。
その上で、自分で引き受けねばならないとされる場合もあるとして、次に、誰がどのようにそれを決めるかです。だいたい病気ひとつとっても多くの要因が絡んでいてそれをふ分けしていくなど容易なことではない。そして、生活の仕方の多様性を認めるべきだということもある。自制や反省を求めるために制裁を課す、社会は負担しないという場面は狭く限定した方がいいんです。好きなものを飲み食いしてもたまたま健康でいられたら、その人はなんのおとがめもないわけですよね。他方で、人工透析になったら、透析の費用は社会は出すべきでない、つまり死ねということてす。実際死んでしまいます。非常に重い大きな制裁です。そんなことが認められてよいのかと、ほんのわずかでも考えてみればよいのです。
その長谷川という人はライザップの社長の話を引いてきて、努力しだいで誰もがけっして病気にならないなどといった話をしている。言うまでもなく、端的に間違っており、何も考えていないことがよくわかります。そういう人(たち)の乱暴で粗雑な話になどつきあっていられないのですが、まあ仕方がない。言えばわかる人なのか、それも疑問ですが、言うべきは言っておきます。そんな人(たち)に人の生き死に関わる話をしてほしくないと心底思います。
倫理学には「救命ボート問題」というものがあります★01。船が転覆して、救命ボートがあるが全員は乗れない、さらにどういう順番で救うか?という思考実験です。例えば、もう長く生きた人には遠慮してもらう、子供から救うべきだという考え方があります。より「自業自得度」が高い人から除外するというのもありうるかもしれません。しかしどのような基準、理由を採用するにせよ、それは誰かを助けると共倒れになる、それを避けたいのであれは誰かを外すしかないという極限状態の場合です。
★01
『良い死』
「犠牲は不要であること」等
cf.「犠牲でなく得失について――良い死・15」
http://www.arsvi.com/ts/2006055.htm
→『良い死』
http://www.arsvi.com/ts/20110016.htm
――「医療費が増えると共倒れになる」という主張でした。
そうではない。全員に対して医療サービスを提供して、その皆が生きられる時まで生きても、社会は困りません。医療にお金がかかっているのは事実ですが、何を買っているか、何を使っているかを考えてみればよい。使うものは人と人以外のものの2種類で、これで全てです。ものは、例えば人工透析の機械です。鉄やアルミウムでできています。それで長生きできるのだから、すくなくとも電子レンジなんかよりは優先されてよいでしょう。そしてすくなくとも電子レンジに使っている分も含めてもの・材料は今のところ足りなくはない。そして人は余っています。日本の失業率は1桁ということになっていますが、それはハローワークに行って仕事を探しているが仕事がない人の割合にすぎません。定年で退職になった人、働ける環境があれば働いてもよいと思ってる主婦、等々等々の人たちを含めれば何割という割合になります。人は足りている。むしろ足りて余っている状態をうまく制御できないでこの社会は困っていると考えます。どのように困っているのか、余っているのに足りないように見えてしまうのはなぜか、ここではこれ以上の説明は略しますが、足りないという事実認識はまちがっている。このことは動かない。
――厳しいがこれが「本音」という言い方をしていました
本音を語りたいというのであれば、まずはどうぞです。ただ、言論を公に発信した人は、反論に対してきちんと答えるべきです。間違っていたらそれを認めるべきです。最低限のルールです。もとの発言もですが、さらにその後の対応がどうしようもありません。
――長谷川さんの「殺せ」という言論は、相模原の障害者施設の事件にも通じるものがあるという指摘が多くありました。立岩先生はあの事件で、身近な人が容疑者に「怒る」必要があったのではと書かれていました。今回の件は「炎上」と言われますが、署名に参加するなど抗議をした人が多かったことはよかったと思いました。
「殺せ」と煽る言葉に対しては、もっと「圧」を持って怒る必要があると思っています。その人は、事件の前にも障害者は不幸で死んだ方がいいとか、殺せば社会は助かるだというようなことを周りに話していたといいます。まず、なんでお前が他人の幸不幸がわかるんだよ、言えるんだよということです。次が一つ前に言ったこと、人を殺さないとやっていけないような社会ではまったくないということです。職場での失礼な発言、場をわきまえない言動を注意する、とかではなくて、正面から怒りと理屈をもって対すること、まずはそういうことをするべきだっんたんじゃないか、今でも誰に対してもするべきだと思います。
相模原の事件後に発表された親の会なんかの声明にも、批判・糾弾というより、社会の理解を求めます、というかんじのものがありました。報道も、障害者にもこんないいところがありますみたいな報じ方になってしまうところがあります。わからんではないですが。
――どのような点が良くなかったでしょうか
こんなにいい人だったと、良いところ探しをして報じたりすることで、それが殺されてはならない理由みたいになってしまう。それは逆に「生きる価値」というものを狭く規定してしまう恐れがあります。
良いところがあろうが悪いところがあろうが、誰にもどんな人であろうと生きる、殺されない、ちゃんと暮らせるようにすればよいし、それはまったく可能です。「足りない」という危機感が過剰に煽られるから、「悪いところのない僕たちに、しわ寄せがきて大変」という言論になる。過剰な危機感を脱していく方法を、我々は考えて伝えていかないといけないと思います。それは私自身の課題でもあります。
――「健康ゴールド免許」についてはどうでしょうか。
小泉進次郎らのグループが出した提言に出てくる話ですね。ペナルティではなく負担額を安くしてもらえるというアイディアなんで、賛成する人も出てくるのでしょう。ただ、他を同じとすれば、保険料は増えることになります。そして、健康診断を職場で簡単に受けられないような非正規労働者や無職の人がより大きな割合の多い額を払うことになるでしょう。考えが浅いというか。提言ってたいがいもっともなことも当然書いてはある。しかしそこのなかに、一見よさそうで、受けそうだが、すこし考えてみるとうまくない、使えないことが出てくる。そして全体として「自助」の方に行かねばならないという主張がなされるんですが、なんでその方角を向かねばならないのかです。
――「痛みを伴う改革」と取材に答えていました。
まず誰が痛むのかということです。どうしても痛みを感じる必要があるのなら、みなが痛みを分け合ってという話はありえますし、場合によってはさっきの救命ボートの話みたいに誰に痛んでもらうのかを選ばざるをえないこともあるかもしれません。しかし、繰り返しますが、痛みを引け受ける必要はないのです。そして、痛みは、今だって偏ったところにかかっています。生活がきびしい人は健康状態もわるくなりがちで、健康を維持したり回復させたりする時間やお金の余裕も少ない。思慮のない「改革」はその痛みを拡大させてしまいます。「足りない」という危機感に惑わされることはないんです。落ち着いて考える、考えが足りない論には反論する。そしてひどい暴言にはきちんと対峙する、無視する、馬鹿にする。これらをみないっしょにやってかまわない。とにかく水準の低いすぎる言論が横行しているのにはうんざりです。
※プロフィール
立岩真也(たていわ・しんや)1960年、佐渡島生。専攻は社会学。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大学、信州大学医療技術短期大学部を経て現在立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。単著として『私的所有論』(勁草書房、1997、第2版生活書院、2013)『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000)『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004)『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)『希望について』(青土社、2006)『良い死』(筑摩書房、2008)『唯の生』(筑摩書房、2009)『人間の条件――そんなものない』(Kyoto Books)『造反有理――精神医療現代史へ』(青土社、2013)『自閉症連続体の時代』(みすず書房、2014)『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社、2015)『On Private Property, English Version』(Kyoto Books、2016)。この12月に杉田俊介との共著で『相模原障碍者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(青土社)刊行。
■cf.
◆有吉 玲子 20131114
『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』
,生活書院,336p. 3200+160 ISBN-10: 4865000178 ISBN-13: 978-4865000177
[amazon]
/
[kinokuniya]
※ a03. h.
◆立岩 真也 20131114
これは腎臓病何十万人のため、のみならず、必読書だと思う
,有吉[2013]
◆
Tateiwa, Shinya
(
立岩 真也
) 2016/09/21
On Private Property, English Version
Kyoto Books
■
◆2016/11/25
https://twitter.com/inabatsuyoshi/status/802275892261072896
「稲葉剛?@inabatsuyoshi 長谷川豊アナ「殺せ」ブログと相模原事件、社会は暴論にどう対処すべきか?【インタビュー】 http://www.huffingtonpost.jp/2016/11/22/hasegawa-yutaka_n_13162488.html?ncid=engmodushpmg00000004 … 立岩真也さんインタビュー。必読です!」
◆2016/11/27
https://twitter.com/HuffPostJapan/status/802271245299515392
「ハフィントンポスト日本版認証済みアカウント?@HuffPostJapan 【#立岩真也 氏インタビュー】#長谷川豊 アナ「殺せ」ブログと #相模原事件 、社会は暴論にどう対処すべきか?」
◆2016/11/28
https://twitter.com/Ryuzou_Ishino/status/802542136411320320
「石野竜三*次回公演は「鰍沢」認証済みアカウント?@Ryuzou_Ishino 立岩真也氏のおっしゃる必要なのは「失礼な発言、場をわきまえない言動を注意する、ではなくて、正面から怒りと理屈をもって対すること」に同感です。TVを中心に「水準の低すぎる言論が横行しているのにはうんざり」と言うのも同感です。」
>TOP
■■掲載されたもの※
※これが実際に載ったものです。文章の順序などが変わっているようです。
――まずは、長谷川豊氏の今回の主張についてどう思われますか。
自分で努力して透析を受けずにすんでいる人がいることは否定しなくてよいでしょう。けっこうなことです。けれど他方で、自分の意思や努力と関係なく、病気になることは多くの人が知っている通りです。周囲の医師から聞いた話として、伝聞でなんの裏付けもない情報を振りまくのはいけない。以上、まずは言うまでもないことです。
――「医療費が増えると皆が共倒れになる。皆で考えねばならない」というのが長谷川氏の主張の論拠でした。
倫理学には「救命ボート問題」というものがあります。船が転覆して、救命ボートがあるが全員は乗れない、さらにどういう順番で救うか?という思考実験です。例えば、もう長く生きた人には遠慮してもらう、子供から救うべきだという考え方があります。より「自業自得度」が高い人から除外するというのもあり得るかもしれません。
しかしどのような基準、理由を採用するにせよ、それは誰かを助けると共倒れになる、それを避けたいのであれは誰かを外すしかないという極限状態の場合です。
実際にはそうではない。全員に対して医療サービスを提供して、その皆が生きられる時まで生きても、社会は困りません。
――医療を全員に提供しても実際には社会は困らない。
医療にお金がかかっているのは事実ですが、何を買っているか、何を使っているかを考えてみればよい。使うものは人と人以外のものの2種類で、これで全てです。
ものは、例えば人工透析の機械です。鉄やアルミニウムでできています。それで長生きできるのだから、すくなくとも電子レンジなんかよりは優先されてよいでしょう。そして少なくとも電子レンジに使っている分も含めてもの・材料は今のところ足りなくはない。
そして人は余っています。日本の失業率は1桁ということになっていますが、それはハローワークに行って仕事を探しているが仕事がない人の割合にすぎません。定年で退職になった人、働ける環境があれば働いてもよいと思っている主婦、などなどの人たちを含めれば何割という割合になります。
人は足りている。むしろ足りて余っている状態をうまく制御できないでこの社会は困っていると考えます。どのように困っているのか、余っているのに足りないように見えてしまうのはなぜか、これ以上の説明は略しますが、足りないという事実認識は間違っている。このことは動かない。
――仮に「自己責任」が病気を招いたとして、殺されないにしても負担が人より増えたりする社会政策というのはあってよいのでしょうか?
例えば交通事故について、家から外に出なければ事故に遭わない、とは言えるでしょう。自力で防ぐ方法があって、その方法を採らなかったからといってすべて自分で引き受けよとは、「自己責任、自己責任」と、うるさいこの社会においても、なっていないんです。
その上で、自分で引き受けねばならないとされる場合もあるとして、次に、誰がどのようにそれを決めるかです。だいたい病気ひとつとっても多くの要因が絡んでいて、それを区分けしていくなど容易なことではない。そして、生活の仕方の多様性を認めるべきだということもある。自制や反省を求めるために制裁を課す、社会は負担しないという場面は狭く限定した方がいいんです。
好きなものを飲み食いしてもたまたま健康でいられたら、その人はなんのお咎めもないわけですよね。他方で、人工透析が必要になったら、透析の費用を社会は出すべきでない、つまりそれは「死ね」ということてす。実際死んでしまいます。非常に重い大きな制裁です。そんなことが認められてよいのかと、ほんのわずかでも考えてみればよいのです。
その長谷川という人はスポーツジムの「ライザップ」の社長の話を引いてきて、「努力しだいで誰もが決して病気にならない」などといった話をしている。言うまでもなく、端的に間違っており、何も考えていないことがよくわかります。そういう人(たち)の乱暴で粗雑な話になどつきあっていられないのですが、まあ仕方がない。言えばわかる人なのか、それも疑問ですが、言うべきは言っておきます。そんな人(たち)に人の生き死に関わる話をしてほしくないと心底思います。
――「ブログに書いたのは医師の『本音』である」と話していました。「本音」が「建前」を述べることに価値があるとみなされる風潮もある気がします。
本音を語りたいというのであれば、まずはどうぞです。ただ、言論を公に発信した人は、反論に対してきちんと答えるべきです。間違っていたらそれを認めるべきです。最低限のルールです。元の発言もですが、さらにその後の対応がどうしようもありません。
――長谷川さんの最初の「殺せ」という主張は、相模原事件に通じるとの指摘が多くありました。私たちはどう向き合えばよいでしょうか。
「殺せ」と煽る言葉に対しては、もっと「圧」を持って怒る必要があると思っています。その人(相模原事件の容疑者)は、事件の前にも「障害者は不幸で死んだ方がいい」とか、「殺せば社会は助かる」というようなことを周りに話していたといいます。
まず「なんでお前が他人の幸不幸がわかるんだよ、言えるんだよ」ということです。次が、すでに言ったことと同じで、人を殺さないとやっていけないような社会では全くない、ということです。
職場での失礼な発言、場をわきまえない言動を注意する、ではなくて、正面から怒りと理屈をもって対すること、まずはそういうことをするべきだったんじゃないか。今でも誰に対してもするべきだと思います。
相模原の事件後の報道も、「障害者にもこんなよいところがあります」みたいな報じ方になってしまうところがありました。分からないではないのですが。
――どのような点が良くなかったでしょうか
「こんなにいい人だった」と、良いところ探しをして報じたりすることで、それが殺されてはならない理由みたいになってしまう。それは逆に「生きる価値」というものを狭く規定してしまう恐れがあります。
よいところがあろうが悪いところがあろうが、誰にもどんな人であろうと生きる、殺されない。ちゃんと暮らせるようにすればよいし、それはまったく可能です。
「足りない」という危機感が過剰に煽られるから、「悪いところのない僕たちに、しわ寄せがきて大変」という言論になる。過剰な危機感を脱していく方法を、我々は考えて伝えていかないといけないと思います。それは私自身の課題でもあります。
――小泉進次郎氏らによる提言で出てきた「健康ゴールド免許」についてはどうでしょうか。長谷川氏の言論との類似性を指摘する声もありますが、賛同する人も多くいるようです。
ペナルティではなく負担額を安くしてもらえるというアイディアなので、賛成する人も出てくるのでしょう。ただ、他を同じとすれば、保険料は増えることになります。そして、健康診断を職場で簡単に受けられないような非正規労働者や無職の人がより大きな割合の多い額を払うことになるでしょう。考えが浅いというか…。
提言ってたいがいもっともなことも当然書いてはある。しかしそこの中に、一見よさそうで、受けそうだが、すこし考えてみるとうまくない、使えないことが出てくる。そして全体として「自助」の方に行かねばならないという主張がなされるんですが、なんでその方角を向かねばならないのか。
――「痛みを伴う改革が必要」と取材に答えていました。
まず誰が痛むのかということです。どうしても痛みを感じる必要があるのなら、「皆が痛みを分け合って」という話はありえますし、場合によってはさっきの救命ボートの話みたいに誰に痛んでもらうのかを選ばざるをえないこともあるかもしれません。
しかし、繰り返しますが、痛みを引き受ける必要はないのです。そして、痛みは、今だって偏ったところにかかっています。生活がきびしい人は健康状態も悪くなりがちで、健康を維持したり回復させたりする時間やお金の余裕も少ない。
思慮のない「改革」はその痛みを拡大させてしまいます。「足りない」という危機感に惑わされることはないんです。落ち着いて考える、考えが足りない論には反論する。そしてひどい暴言にはきちんと対峙する、無視する、馬鹿にする。これらを皆いっしょにやってかまわない。とにかく水準の低すぎる言論が横行しているのにはうんざりです。
■プロフィール
tateiwa立岩真也(たていわ・しんや)
1960年、新潟・佐渡島生まれ。専攻は社会学。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大学、信州大学医療技術短期大学部を経て、現在は立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。単著として『私的所有論』(勁草書房、1997、第2版生活書院、2013)、『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000)、『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004)、『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)、『希望について』(青土社、2006)、『良い死』(筑摩書房、2008)、『唯の生』(筑摩書房、2009)、『人間の条件――そんなものない』(Kyoto Books)、『造反有理――精神医療現代史へ』(青土社、2013)、『自閉症連続体の時代』(みすず書房、2014)、『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社、2015)。近著に『On Private Property, English Version』 (Kyoto Books、2016)。12月に杉田俊介との共著で『相模原障碍者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(青土社)刊行予定。
ウェブサイト http://www.arsvi.com/ts/0.htm
>TOP
■■掲載用に送った原稿にすこし手が入ったもの※
※これはどういうものだったか忘れました。調べてみようと思います。
――まずは、長谷川豊氏の今回の言論についてどう思われますか。
自分で努力して透析を受けずにすんでいる人がいることは否定しなくて良いでしょう。けっこうなことです。けれど他方で、自分の意思や努力と関係なく、病気になることは多くの人が知っている通りです。まわりの医師から聞いた話として、伝聞でなんの裏付けもない情報を振りまくのはいけない。以上、まずは言うまでもないことです。
――仮に「自己責任」がある病気を招いたとして、公的制度から除外されるべきかどうかについてはどうお考えでしょうか?
例えば交通事故について、家から外に出なければ事故に遭わない、とは言えるでしょう。自力で防ぐ方法があって、その方法を採らなかったからといってすべて自分で引き受けよとは、「自己責任、自己責任」とうるさいこの社会においても、なっていないんです。
その上で、自分で引き受けねばならないとされる場合もあるとして、次に、誰がどのようにそれを決めるかです。だいたい病気ひとつとっても多くの要因が絡んでいてそれを区分けしていくなど容易なことではない。そして、生活の仕方の多様性を認めるべきだということもある。自制や反省を求めるために制裁を課す、社会は負担しないという場面は狭く限定した方がいいんです。
好きなものを飲み食いしてもたまたま健康でいられたら、その人はなんのお咎めもないわけですよね。他方で、人工透析になったら、透析の費用を社会は出すべきでない、つまりそれは「死ね」ということてす。実際死んでしまいます。非常に重い大きな制裁です。そんなことが認められてよいのかと、ほんのわずかでも考えてみればよいのです。
その長谷川という人はスポーツジムの「ライザップ」の社長の話を引いてきて、「努力しだいで誰もが決して病気にならない」などといった話をしている。言うまでもなく、端的に間違っており、何も考えていないことがよくわかります。そういう人(たち)の乱暴で粗雑な話になどつきあっていられないのですが、まあ仕方がない。言えばわかる人なのか、それも疑問ですが、言うべきは言っておきます。そんな人(たち)に人の生き死に関わる話をしてほしくないと心底思います。
倫理学には「救命ボート問題」というものがあります。船が転覆して、救命ボートがあるが全員は乗れない、さらにどういう順番で救うか?という思考実験です。例えば、もう長く生きた人には遠慮してもらう、子供から救うべきだという考え方があります。より「自業自得度」が高い人から除外するというのもあり得るかもしれません。しかしどのような基準、理由を採用するにせよ、それは誰かを助けると共倒れになる、それを避けたいのであれは誰かを外すしかないという極限状態の場合です。
――「医療費が増えると皆が共倒れになる」というのが長谷川氏の主張でした。
そうではない。全員に対して医療サービスを提供して、その皆が生きられる時まで生きても、社会は困りません。医療にお金がかかっているのは事実ですが、何を買っているか、何を使っているかを考えてみればよい。使うものは人と人以外のものの2種類で、これで全てです。
ものは、例えば人工透析の機械です。鉄やアルミウムでできています。それで長生きできるのだから、すくなくとも電子レンジなんかよりは優先されてよいでしょう。そして少なくとも電子レンジに使っている分も含めてもの・材料は今のところ足りなくはない。
そして人は余っています。日本の失業率は1桁ということになっていますが、それはハローワークに行って仕事を探しているが仕事がない人の割合にすぎません。定年で退職になった人、働ける環境があれば働いてもよいと思っている主婦、などなどの人たちを含めれば何割という割合になります。
人は足りている。むしろ足りて余っている状態をうまく制御できないでこの社会は困っていると考えます。どのように困っているのか、余っているのに足りないように見えてしまうのはなぜか、これ以上の説明は略しますが、足りないという事実認識は間違っている。このことは動かない。
――厳しいがこれが「本音」という言い方をしていました
本音を語りたいというのであれば、まずはどうぞです。ただ、言論を公に発信した人は、反論に対してきちんと答えるべきです。間違っていたらそれを認めるべきです。最低限のルールです。元の発言もですが、さらにその後の対応がどうしようもありません。
――長谷川さんの最初の「殺せ」という言論は、相模原の障害者施設の事件にも通じるものがあるという指摘が多くありました。今回の件は単純にネットの「炎上」とみなされていますが、署名に参加するなど抗議をした人が多かったことは良かった部分もあったと思うのですが。
「殺せ」と煽る言葉に対しては、もっと「圧」を持って怒る必要があると思っています。その人(相模原事件の被疑者)は、事件の前にも「障害者は不幸で死んだ方がいい」とか、「殺せば社会は助かる」というようなことを周りに話していたといいます。
まず「なんでお前が他人の幸不幸がわかるんだよ、言えるんだよ」ということです。次が、前の質問に対してすでに言ったことで、人を殺さないとやっていけないような社会では全くない、ということです。職場での失礼な発言、場をわきまえない言動を注意する、とかではなくて、正面から怒りと理屈をもって対すること、まずはそういうことをするべきだったんじゃないか、今でも誰に対してもするべきだと思います。
相模原の事件後に発表された障害者の親の会なんかの声明にも、批判・糾弾というより、「社会の理解を求めます」という感じのものがありました。報道も、障害者にもこんないいところがありますみたいな報じ方になってしまうところがあります。分からんではないのですが。
――どのような点が良くなかったでしょうか
こんなにいい人だったと、良いところ探しをして報じたりすることで、それが殺されてはならない理由みたいになってしまう。それは逆に「生きる価値」というものを狭く規定してしまう恐れがあります。
良いところがあろうが悪いところがあろうが、誰にもどんな人であろうと生きる、殺されない、ちゃんと暮らせるようにすればよいし、それはまったく可能です。
「足りない」という危機感が過剰に煽られるから、「悪いところのない僕たちに、しわ寄せがきて大変」という言論になる。過剰な危機感を脱していく方法を、我々は考えて伝えていかないといけないと思います。それは私自身の課題でもあります。
――小泉進次郎氏らによる提言で出てきた「健康ゴールド免許」についてはどうでしょうか。長谷川氏の言論との類似性を指摘する声もありますが、賛同する人も多くいるようです。
ペナルティではなく負担額を安くしてもらえるというアイディアなんで、賛成する人も出てくるのでしょう。ただ、他を同じとすれば、保険料は増えることになります。そして、健康診断を職場で簡単に受けられないような非正規労働者や無職の人がより大きな割合の多い額を払うことになるでしょう。考えが浅いというか…。
提言ってたいがいもっともなことも当然書いてはある。しかしそこの中に、一見良さそうで、受けそうだが、すこし考えてみるとうまくない、使えないことが出てくる。そして全体として「自助」の方に行かねばならないという主張がなされるんですが、なんでその方角を向かねばならないのかです。
――「痛みを伴う改革が必要」と取材に答えていました。
まず誰が痛むのかということです。どうしても痛みを感じる必要があるのなら、皆が痛みを分け合ってという話はありえますし、場合によってはさっきの救命ボートの話みたいに誰に痛んでもらうのかを選ばざるをえないこともあるかもしれません。
しかし、繰り返しますが、痛みを引け受ける必要はないのです。そして、痛みは、今だって偏ったところにかかっています。生活がきびしい人は健康状態も悪くなりがちで、健康を維持したり回復させたりする時間やお金の余裕も少ない。
思慮のない「改革」はその痛みを拡大させてしまいます。「足りない」という危機感に惑わされることはないんです。落ち着いて考える、考えが足りない論には反論する。そしてひどい暴言にはきちんと対峙する、無視する、馬鹿にする。これらを皆いっしょにやってかまわない。とにかく水準の低すぎる言論が横行しているのにはうんざりです。
立岩 真也
(たていわ・しんや)
1960年、佐渡島生。専攻は社会学。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大学、信州大学医療技術短期大学部を経て現在立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。単著として『私的所有論』(勁草書房、1997、第2版生活書院、2013)『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000)『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004)『ALS――不動の身体と息する機械』(医学書院、2004)『希望について』(青土社、2006)『良い死』(筑摩書房、2008)『唯の生』(筑摩書房、2009)『人間の条件――そんなものない』(Kyoto Books)『造反有理 ――精神医療現代史へ』(青土社、2013)『自閉症連続体の時代』(みすず書房、2014)『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社、2015)
『On Private Property, English Version』
(Kyoto Books、2016)。この12月に杉田俊介との共著で
『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』
(青土社)刊行。
ウェブサイト
http://www.arsvi.com/ts/0.htm
UP:20161126 REV:20161127, 20170207, 1014, 15
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人工透析/人工腎臓/血液透析
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人工透析/人工腎臓/血液透析:2010'
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立岩 真也
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Shin'ya Tateiwa
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7.26障害者殺傷事件
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病者障害者運動史研究
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身体の現代:歴史
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