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「障害と創造をめぐって」

立岩 真也(立命館大学大学院先端総合学術研究科教授)×広瀬 浩二郎(国立民族学博物館民族文化研究部准教授)
2016/11/20 『REAR』38:6-23 http://2525kiyo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/rear38-27eb.html

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 ※広瀬さんの分は広瀬さんの校正前の原稿しか私もっていないので、まずは、略します。広瀬さんの了承が得られて校正のすんだものが入手できたら掲載させていただこうと思います。(立岩)

◇リア:近年オリンピック・パラリンピックの関係で、障害者アートの展覧会がたくさん企画されています。毎年ある国民文化祭【1】という催しが今年は愛知県で開催され、オリンピックに対するパラリンピックの位置づけのような形で、12月には「全国障害者芸術・文化祭 あいち大会」が開かれることになっています。文化の国体のような非常に政治的なもので、愛知でも文化芸術課ではなく健康福祉部障害福祉課が窓口です。様々な企画があるなか、誰のためのイベントなのかわからないようなものもたくさんあり、モヤモヤした気持ちがある。きちんと考えてみたいということが本特集の一つのきっかけで、社会学、なかでも生存学、障害学を専門とされている立岩さんと、視覚障害者の立場から現在兵庫県美での小企画展【2】もプロデュースされ、大阪の「みんぱく」でも触る展示を実践されている広瀬さんに同席いただきました。お二人の活動と、障害者アート、障害者施設でのアート活動など、何かクロスするところや、ご意見、ご感想をまずはうかがえればと思います。

◇広瀬:[…]

◇リア:立岩さんはそういうことに関わったり、見聞きされたことはありますか?

◇立岩:あまりないですが、私が勤めている大学院で時々そういったテーマを研究しようという人がぽつぽつ入ってきて、「触る芸術」という博士論文を書く予定の院生もいます。鹿島萌子さんという人です。ただ、脈絡なく言うと、僕はその触る芸術の触って気持ちいい感じというのがよくわからなくってね(笑)、三次元の彫刻的なものだったら触った感じとして面白いというのはまだわかる気はするんだけど、絵とか二次元のものに凹凸をつけて触って、あれっておもろしいの?というのが素朴な疑問であるんだけど、あれってどうなんですか?

■触る芸術

◇広瀬:[…]

◇立岩:盲の人でも先天盲の人と、途中からの人とで大分違いますよね。

◇広瀬:[…]

◇立岩:素朴な質問シリーズで続けると、かつて目が見えていた人にとっては、二次元だとこんな感じかなと思うことがあると思う。それがどこまで楽しいかは別にしてもね。ただ、いわゆる「景色」というものが存在しないなかで生まれてきた先天盲の人たちにとっては、視覚芸術のある種の翻案として触覚にするということがどういうことかが素朴にわからないんです。触覚として、ごつごつするとか、そういうのが触って楽しいということは何となくはわかるんですね。先天盲の人にとっての美術というのは、何なんでしょう。本当に漠然としてしか聞けないんですが。

◇広瀬:[…]

◇立岩:先の院生もそういうことを調べているんですが、絵そのものを楽しんでいるというよりは、ある種のみんなでやるイベントとして楽しむという、そういう感じだと言ってました。広瀬さんも言ったように人はこういうものを輪郭としては見てるんだよというある種の知識みたいなものとしてあって、それも先天盲とそうではない人で大分違うとか、そういう風になっているんでしょうね。

■触覚が活性化するもの

◇リア:広瀬さんの兵庫県美の企画では、鑑賞者が目隠しをして、おそらくブールデル、〔フォートリエ〕、ヘンリー・ムーアだったと思うのですが、3点の彫刻作品を触ります。耳からはイヤホンガイド的に「左手をこうしましょう」といった広瀬さんのガイド音声が流れるんです。「こうつながっていますよね」「こうしていきましょう」などと誘導されながら触るのですが、作品を触ったときに自分がいかに目でしか物を感じとっていないかと愕然とするくらい形がつかめない。広瀬さんのガイドは普段美術の中で使っているような言葉よりももうちょっと即物的で、すごくハキハキとした話し方にこちらも元気になりながら「頑張って感じよう!」とするけれども難しい。広瀬さんはどのような像を結ぶように誘導しようと考えていたのですか?

◇広瀬:[…]

■障害者アート

◇リア:最近では、自閉症や知的障害の方が福祉施設で指導員のもとで作った作品が海外の展覧会に出品され、作家本人とは関係なく、作品が独り歩きしてしまう状況もあるようです。

◇立岩:作品が独り歩きすること自体は構わないではないかな。時に関心を持たれることはあるかもしれないけれど、それはどうだっていいような気がします。世の中には明らかにすごい作品がいっぱいあることは確かで、その中のある程度の部分が発達障害や知的障害というふうに診断された人が制作したということは事実ある。よくわからない何かしらのメカニズムがあって、障害というものとすごいものが出来てしまうということにある種の因果関係が存在する。起こっていることはそれだけといえばそれだけ。
 ただそれをどういうふうに位置づけるかにいろんな道筋があって、中にはそういった結び付け方でいいのか?ということもあり得ると思います。たぶん戦前からだと思いますが、精神や知的障害を持った人たちがある種のリハビリテーションや教育の一環でやらされてきたという歴史はあって、それといろいろなものが微妙に重なって利用されていく。例えば山下清にしても彼のスポンサーのような人がいて、それを使って宣伝していくようなところがあった。それでもかまわない、人が見るようになるそれでよいという面もありつつ、他人たちに搾取されるのはいやだ、したくないことをさせられるのはだめだ、そういうことなんじゃないでしょうか。

◇広瀬:[…]

■何もしないこと

◇立岩:これは以前出していた雑誌『生存学』【7】で、9号で終刊になったんだけれども、創刊号から毎号いわゆる障害者アート系のものを表紙に使っていて、2号の表紙が石井雄一さんという人の作品。こないだの『現代思想』の特集で、僕も精神医療についてのちょっと長い原稿を書いたんだけれど、同じ号に岡本〔晃明〕さんという京都新聞の記者が、京都にある「ほっとハウス」【8】という、作業所なんだけれど作業をしないという場所があって、僕はまだ行ったことがないんだけれど読んだら行ってみたくなった所のことを書いていて【9】、石井さんもそこに出入りしている人らしいんですよ。彼の作品も彼の人となりもいけてるなと僕は常々思っているんですが、粘土の怪獣とか紙の変な箱を作って、それはとにかく優れたものなんだよね。
 そこの作業所は作業所といえば作業所だけど、誰も作業してないってことで長いことやっていたんだけど、政策が変わったりする中で、月に何日以上出てきて仕事をしないと補助金をくれないみたいな世の中になっているらしいんです。そんな中で、何もしないようなそういう場所って近頃大変やりづらくなっている、というような話を岡本記者が書いているんです。ほっとハウスは誰もアートはしていないんだけれども、岡本さんのものを読む限りではアーティスティックな場所で、障害者のアートとしてそれで商売しなさいみたいな流れの中で、そういった芸術的な流れが奪われている感じがする。石井さんの例では、「生き方が変」ってのはアーティスティックなことだし、そうした彼の活動が阻まれるのは悲しいし嘆かわしいですね。生産はしないけれど芸術的な生き方ってあると思う。そうした生き方ができる場所や時間が現にあるんですから、妨げられたくないですね。

◇リア:最近の福祉施設のなかには、アート活動を取り入れることで、何もしないこと≠むしろ積極的に位置づけているところもありますね。アート活動は単なる余暇で働けるための活動ではないので、何もしていないこと≠ノなってしまい、親御さんは心配される。でも、たとえば他の施設が合わなくて問題行動が酷かった方が、積極的にアート活動をしている施設に移ってきて、非常に面白い作品を生み出したりした例もある。近年はアート活動をうまく取り入れて、それぞれ主宰者の個性やスタッフの尽力が反映された施設も注目されている。あるいはそこからスターのような作家が輩出されれば、やにわにアート活動が活気づく。たとえばホームページで「うちの施設のタレントさん」という紹介もありますね。

◇立岩:その『現代思想』の原稿で岡本さんが触れてますが、石井君の個展を出来る場所を探しに京都のギャラリーを回ったとき、予算やポートフォリオの話をされたり「障害者アート」を扱う他のギャラリーをと言うばかりだったと。その後もらったメールには、なんかアートプロデューサーというような人のところに相談に言った時のことだそうで、ハイアート目線で説教されたらしく、それを契機に石井君はブログも閉鎖、「怪獣新聞」もやめてしまったそうなんですよ。こういうことって、実はけっこう起こっているのかもしれませんね。アートとアートではないものとの隙間というか、そこで起こる摩擦のようなことが。

◇リア:ポートフォリオですか…つまり、発表したいなら、アート側のマターを踏んで来いと。先の展覧会「すごいぞ、これは!」は、文化庁と「心揺さぶるアート事業実行委員会」が主催で、全国を巡回しました。障害という言葉は使われず、心揺さぶる≠ニいうキーワードから調査が始まり、障害者アートにこれまで関わってこなかった学芸員など、美的な批評軸をどう設定し選考するのか、意識的な取り組みではありました。その一方で、この石井君の例のように、アートのマター(批評、企画)を持ち込むことには慎重であるべきですよね。

■障害者アートのポリティクス

◇立岩:最近のご時世では、作業所で何かを作ること自体も、ある種の生産行為だとみなす話にはなってきている。何かを作らせることがトレンドになっていることには両面あって、そういう枠からはみ出るような、たとえば何もしないことの良さというような芸術性を傷めてしまうとかもあるんじゃないかと。ところで広瀬さんが参加されたような懇談会を政府がつくったりする時には、何が作用しているんでしょうね? たいして何も考えていないようにも思うけどね(笑)。

◇広瀬:[…]

◇リア:東京オリンピック、パラリンピック開催に向けて、文化プログラムの一環で様々な動きがありますよね。文化庁だけではなく厚生労働省主導で、障害者アート推進の動きがいろいろあって、そのための事前の審議に、広瀬さんも識者として呼ばれたわけですね。

◇広瀬:[…]

◇立岩:率直に言って、パラリンピックにはそんなに関心はないですが、あれはあれで成立しうるなとは思っています。身体の能力に関わることで、何かしら競争をする場合、普通には足が片方無い人と両方ある人とを分けて競わせる、そうすることの合理性はある。だけど、それとパラレルに考えてみた時に、障害者アートという括りで何かを催すことの正当性はあるかというと難しいと思う。今まで鑑賞や発表の機会が少なかったことへのある種のアファーマティブ・アクション(優遇措置)として、何かゲタはかせるとか、予算をつけることはあっても良いと思うけれど、それ以上の正当性は調達し難いというか、探してもないと思う。それにもかかわらず、障害者アートという括りで物事をまとめて提示することや、盛り立てていくという動きがあるとしたら、若干の不思議感と、それっていいのかな?と気にしてしまいます。

◇リア:障害者アートを勝手に括ること、さらに勝手に順位や優劣をつけることも、やはりおかしいようにも思えます。

◇立岩:良いとか悪いとかは、どこまでいっても観る側の勝手で、創られて、観る、鑑賞するということが続く限りは無くなり得ないことでしょうよ。でも、Aさんはこれが良いと言って、Bさんはこれが悪いと言う、そのAさんが良いと言ったものだけを括って、展覧会に出しましょうとか、美術館に入れましょうという話になるとレベルの違う話になる。そこで何が優先されて、何が排除、無視されるのかということは配慮しなければならない。そうした選別とか排除の仕掛けは、あるとしたら見ていかなければならないという気はします。僕はまるで知らない領域なので今何が起こっているかは知りませんけれど、気にはしていきたいかな。ただ、かなりの人たちは、受けたら受けたで嬉しいと思っている。それはそれで認めてよいことで、それをどういう形で括るか、付加価値をつけるか、あるいは公認するかとか、その辺りにある種のポリティクスが働いてくるのかなという気がします。

◇リア:一方で、障害者の施設で、それをやらないと気が済まないような、ある種の排泄的にどうしても生み出されてしまうものを、他者が「これを作品にしましょう」といって搾取しているような、そんな例が起こっているのではないかとモヤモヤしてしまうのですが。

◇立岩:それは利益を還元すればいいのでしょう。本人的には、何を創っているのかさえわからなかったとしても、その出来てしまったものが良くて、それが経済的な利益を生むのであれば、その帰属先がフェアであればいい。アートのコアな部分とは別の話としてそれを議論することはいいけれど、本人的な自覚があってもなくても、作品は出来る時には出来るものだし、それは鑑賞されてしかるべきものだと思う。それが利潤を生みだすものであることも、もちろんいい。だからそれをどういう形で帰属させるのか、端的には誰が儲けるのかということをきちんとしればいいんじゃないかなと、あえてそう言って、乗り切ろうかなと。

◇リア:そうしたことは障害者のアートに限ったことでは無いかもしれませんね。

◇立岩:そうですね。芸術一般のこととして、いろんな形でポリティクスが働いているでしょうね。そうしたポリティクスがあるゆえに、プラスの意味で障害者のアートに特に何かしてあげよう、付加価値をつけてあげようということが今あるのかもしれないですね。

■障害があるがゆえの「力」

◇立岩:知的障害・精神障害の人に絵画を通じて精神を健康にしようとするような教育的な流れがある。それとはまったく別のところからは、60〜70年代から出てきた暗黒舞踏とかにあるような「異形の身体」が流行った時期がある。原一男監督の『さようならCP』【11】なども、そういうものとシンクロする流れがあったのかもしれない。主人公のひとり横田弘さんは2013年に80歳で亡くなったんですが、あれ、かなりヤラセなんですよ。わざと車椅子から降ろさせて、歩道を這い回らさせて、それを撮る。横田さんは詩人なんですが、歩行者天国で詩をよむ。なんか妙にいいシーンで感動したりするんです。詩は日本語としてはよくわかんないですけど、きれいに読まれるより妙な説得力がある。脳性麻痺って、得でね(笑)、たいしたこと喋ってないのに「うがぁ、、、」って発するだけで、たいそうなことを言っているような気になったりするように、というアドヴァンテイジがあるんですね。それは障害があるゆえのインパクト、力なんですね。それは、「害」ではないので、素直に認めればいい。身体のかたち、動作や声が変わっていることはプラスであって、マイナスになっていない。現在でもたとえば金満里さんが主宰する劇団「態変」【12】もそういう気分ですよね。身体のメカニズムが違っていることが、明らかにアートになっちゃっている。そして、ある種の知的障害や発達障害の方が、時々なんかすごいものを創ってしまうのも、それは素直に言祝げばいい。

◇リア:こういう障害のある人には、こういう傾向が出やすいとか、どうしても似たような作品ができることがありますよね。

◇立岩:同じ括りの障害の人に同じ傾向の作品が生まれることはなんら不思議なことではなくて、当たり前のことですよ。それは頭のつくりというか、ある種の反復性や、ある種の脅迫性のようなものが、物体や平面に刻印されるという。頭の違い方といっても、そんなに無限にあるわけではなく、頭の偏り方にも傾向みたいなものがあるんですね。傾向のあるものを称して、我々は「障害」と言っているわけです。

◇広瀬:[…]

◇立岩:たまたま世に出た人の最初が山下清だったとか、二番目の人が二番煎じということでもない。飽きるまで二番煎じでも三番煎じでもやればよくて、溢れかえってもいい。ワンパターン自体が悪いことではなく、いいものはいい。楽しいものは楽しくていい。
 ぼくは京都の前は松本に住んでいましたが、松本蟻ヶ崎高等学校の出身で有名人に、草間彌生がいますね。彼女は、あきらかにアタマが普通におかしいですよ。ブツブツの変に気持ちのいいカボチャとか、アタマがおかしいから創れているところがある。それに感動する人がいて、それでいいなと思う。才能として、世に言うある種の障害が作用して出来ていることには、事実として認めざるを得なくて、それがよい作品を創っている限りにおいては、よいと言えば良い。

◇リア:草間さんは、明確に人に作品を見せたい、その評価を得たいという欲望が自覚的に厳然とある。先ほどの石井君もきっと人に見せて世に問いたかったんですよね。

◇立岩:そうですね。受けたいって言ってますよね。

◇リア:障害をもった当事者だけはなく、障害に対する親や兄妹といった家族の問題や、社会の関係性の問題にも広げて考えるとどうでしょうね。

◇立岩:「うちの息子すごい」っていうことであれば、それはそれでけっこうだと思うんですよ。ただ、ある意味障害があるがゆえに出来てしまうことがあるとさっき言いましたけど、それはことの一面で、出来ない方が圧倒的に多いですよ。普通は出来ない。同じ障害だからといってうちの子が出来るわけじゃないくらいの当たり前のことを各人が踏まえていれば、そんなに変なことは起こらないという気はします。

◇リア:逆に、そういうのに向いている子がいると、先生も一生懸命指導して、親御さんも一心同体になって発表会などもやっている方々もいますね。実際に接してみると家族に希望を与えているなというようなことは思ったりしますけど…。

◇広瀬:[…]

◇リア:広瀬さんご自身は小さい頃に何か特別に習われたようなことはあるんですか。

◇広瀬:[…]

■共生の可能性

◇立岩:テレビで見たんですけど、パラリンピックって1964年に始まったんですって。 

◇広瀬:東京オリンピックのときですけど、たまたまのようですね。

◇リア:内訳としては、ほとんどが戦争で手足不自由になったり、目が見えなくなったりした人が多かったそうです。

◇立岩:それはそうでしょうね。結局、体全体が動かない、動きが変という人にはスポーツはやはり非常に困難なのでね。手や足が折れちゃった、もげちゃったといった人だったら義手や義足をつけて、まだまだ走ったりできるわけじゃないですか。さっき言った『さようならCP』とかに出てくる脳性麻痺や、身体ぐにぐにしてて、なんかどっちも動かないみたいな、変なふうに動いちゃうような人は出てこない。パラリンピックはそういう場。あれが「障害者の」と言われると脳性麻痺の人達なんかはピンとこない感じはあるでしょうね。確かソウルでパラリンピックがあったとき、そんなもんやるなって言った韓国の障害者の人達がいたんです。やっていけないことはないんだけれど、そんなものに金使うくらいだったら俺たちにまわせって言ったんですよ(笑)。障害の中でも手や足がもげたようなのだけが出てきて、その人たちの競技に金を使うよりはもっと違う使い方がある、障害に対する別の対し方があるだろうというのは、もっともな提起だと思いました。

◇広瀬:[…]

◇立岩:いろんな倫理学があって、ビジネス倫理学っていうのもありますが、スポーツにもある種の倫理学みたいなのがある。例えば車椅子のマラソン。車椅子で走るのと足で走るのとどちらが速いかというと、車椅子の方がはるかに速いんです。だけど足がうごく人でも車椅子で走ることは可能ですよね。その時にその人が車椅子に乗ってマラソンに出て争っちゃいけないのかって考えていくと、どうなんだろうねっていう話になっていく。何ゆえにメンバーシップを限定するのが正しいんだろうとかいった話があることにはあるんですよ。基本、僕は別のところに頭を使うようにしていますけど、思考実験的に考えてみるには面白い。実際に話題になったことだけど、義足もうまく使うと両足がある人より速かったりするわけでしょ。南アフリカでそういう人いたじゃないですか。普通に物理学的に考えていくとありうることで、要するに人間と機械をどこまでこうやるかとか、ドーピングの話とか、そういう話にいろいろ絡んできて、それはそれなりに面白い話なんだけども…。

◇リア:AI(人工知能)が絵を描きだしているのと倫理的にはちょっと近いような気も。今はまだ過去のをサンプリングして再現するような感じですけど、これから先をAIが自分で思考して作り出すようになったらどうなるんでしょうって。

◇立岩:案外やればいいんじゃないですか。マイナスの影響としてはアーティストの失業問題になってくるのか(笑)。

■ユニバーサル・ミュージアム

◇リア:ここ数年でご自分の専門領域などで、何か状況が変わったことなどありますか。

◇広瀬:[…]

◇リア:そうした立場から、例えば生存学や立岩さんの研究に期待する事はありますか。

◇広瀬:[…]

◇リア:立岩さん、ここ数年の変化は。

◇立岩:7月26日に相模原で19人殺されてしまった事件があって、その後いろいろなメディアに話したり書いたりして、そういうことがあると世の中が良くない方向に行っていると言いたくなりがちなんだけど、僕はそういうことはあまり言わないようにしてます。毎日そういうことを言っていると聞いてもらえなくなるというか、言いたくないというのもあるし、実際本心からそう悪くはなっていないとも思っています。まあ、たいして良くもなっていないんですが。
 僕自身はやりたいことを全部やっていると自分がいくつあっても足りないので、何を切り落としてきたかというと、アートなんです。もともと文学少年で、でもそういう道楽をしているとそれで一生が終わってしまうと思って、20代半ばで映画を観るのをやめたんです。そういうこともあって芸術的なことから足を洗って今日に至るので、今日は適役ではなかった(笑)。昨日も80枚くらいの原稿を終わらせたんですが、やっぱり暗い話で【13】、特にメディアに出る時には安楽死とか障害者殺しとか暗い話ばかり、我ながら死の商人みたいでよくないなと思うんですけど。ただ、そういうことにも歴史がある。そういうことも押さえておかなくては、と思ってやっていると本当に時間がなく、小説なんか何十年も読んでいない。いろいろやりたいことがあって。ややこしい話をややこしく書いていくとすごい嵩になってしまって、なかなか読んでもらえないので、コンパクトにわかりやすいものもやらなきゃと思う。大学でやっている生存学(研究センター)というのも何らかの規模で続けていきたいと思ってます。学者なんていくらでもいるように思われているんでしょうが、私が必要だと思っているような研究の総量は全然まったく足りてない。自分でなんでもというのはとうてい無理なんで、人にやってもらうしかないんですが、でも人にやってもらうというのもけっこうなコストがかかるんですよね。

◇リア:博物館とかは?

◇立岩:行かないです。朝起きて原稿書いて酒飲んで寝る、の繰り返し。知的でも何でもない。文化人ぽく、文人みたいになりたいです(笑)。

◇リア:ユニバーサル・ミュージアムのイメージは?

◇立岩:基本的に広瀬さんが言っていることは正しくて面白いし良いんです。車椅子マラソンの話と一緒で、どこまでユニバーサルが可能で、あるいは正統であり、どこからがスペシファイせざるを得ない、するべきとか、そういう話自体は学問的に思考実験的に面白い。基本ユニバーサルでいいんですよ。何の間違いもないし正しい道なんだけれども、それはそうだと認めたうえで、プラスどうなのか。実践的にも面白いし、狭い意味での学問的にも興味深いテーマだと思ってます。

 【2016年9月10日 京都にて】 

■註 ※編集部がつけたもの

【1】国民の文化活動への参加の機運を高め、新しい芸術文化の創造を促すことを狙いとした祭典。1986年から開催され、今年で31回目となる。
【2】「収蔵品による小企画展:美術の中のかたち−手で見る造形」兵庫県立美術館 2016年7月2日〜11月6日
【3】参加委員は今中博之、高木金次、建畠晢、根本知己、はたよしこ、日比野克彦、広瀬浩二郎。参照http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/sanka/dl/bunka01.pdf
【4】「すごいぞ、これは!」埼玉県立近代美術館(2015年9月19日〜11月3日)ほか、札幌、高知、広島に巡回。文化庁「平成27年度戦略的芸術文化創造推進事業」として、埼玉県立近代美術館に事務局を置く「心揺さぶるアート事業実行委員会」が実施し、全国の美術館学芸員やキュレータなどが各地を調査して選んだ作家12名による展覧会。
【5】1993年に発足した名古屋YWCA美術ガイドボランティアグループ。視覚障がい者と美術館を訪れ、言葉によって絵画を説明し鑑賞する活動を行う。
【6】1809年パリ郊外に生まれる。3歳で事故で失明し、〔15〕歳のときに現在も〔世界で〕使われている6点点字を発明した。
【7】生活書院刊、立命館大学生存学研究センター編。2009年2月に創刊され、2016年3月に9号で終刊。
【8】1992年、精神的な疾患や発達障害などをもつ当事者たちが集まり、京都府宇治市に開設されたいこいの場。現在では特別非営利活動法人ほっととうがらしが、いこいの場「ほっとハウス」及び「とうがらしはうす」を運営している。
【9】棚谷直巳+岡本晃明「ほっとする場所」『現代思想』「特集=精神医療の新時代−オープンダイアローグ・ACT・当事者研究」、青土社、2016年9月号)
【10】池坊保子。2006年から2008年まで文部科学副大臣を務めた。
【11】1972年、原一男監督のデビュー作。日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会のメンバーを撮ったドキュメンタリー映画。日本各地で上映され、障害者解放運動を後押しした。
【12】1983年、金滿里を主宰に大阪を拠点に創設された、身体障害者にしか演じられない身体表現を追究するパフォーマンスグループ。
【13】立岩真也「七・二六殺傷事件後に 2」『現代思想』44-19(2016-10):133-157 〔加筆して『相模原障害者殺傷事件』に収録〕


UP:20190103 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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