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障害者運動って、なんですか?

「障害児を殺してもいい」という一九六〇年代から

立岩 真也 2016/10/25 インタビュー、聞き手:奥田直美・奥田順平
『Chio』113:64-75

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立岩 真也 2016/10//25 「障害者運動って、なんですか?――「障害児を殺してもいい」という一九六〇年代から」(インタビュー、聞き手:奥田直美・奥田順平),『Chio』113:64-75
『Chio』113 特集:知らないうちに?だれかを?わたしは「差別」しているの?)
立岩真也 編 2015/05/31 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books 700

時代ごとにかたちを変えてきた障害者差別と社会運動。戦後どんな移り変わりがあったのか、社会学者で立命館大学生存学研究センター所長である立岩真也さんにお話いただきました。
聞き手は、京都西陣で古本屋「カライモブックス」を営む奥田直美さん・順平さんです。お二人は、五歳のお子さんの子育てまっ最中です。△065 [立岩写真]△066

社会学者 立岩真也(たていわ しんや)
立命館大学院先端総合学術研究科教授。専攻は社会学。「生存学研究センター」センター長。著書に『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』(青土社)、共著に『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者横田弘と「青い芝」』(生活書院)ほか。

聞き手 京都・カライモブックス店主
奥田直美(おくだ なおみ)・奥田順平(おくだ じゅんぺい)△067
http://www.karaimobooks.com/

69 特集 ひとはいつ「差別」を覚えるの? 心根にある差別とどう向きあうか@ 68

■同情を買って希望が実現した一九六〇年代

―差別というのは昔からずっとあったと思うのですが、障害者差別について見てみると、戦前から戦後でどういう動きがあったのでしょうか?

立岩 差別って、ある意味歴史がないようなできごとですよね。なので、そもそも歴史といっても、それに対するアンチのような動きしか見れないものです。たとえば、戦前戦後をみてみると、まずハンセン病と結核の人たちの動きがあります。
 ハンセン病と結核の人たちが△067 隔離され、施設に収容されていったのは戦前からですが、その条件改善などをふくめる療養者たちの運動が本格的に起こったのは終戦直後からです。
 一九五一(昭和二六)年に「全患協(全国国立らい療養所患者協議会)」が結成され、革新系の政党の労働運動と連動し、療養所の労働組合と療養所の入所者がいっしょになって経営者や国にものをいうかたちで展開されました。戦後、食料事情もなにもかも悪いなか、施設に押しこめられたことで当事者が集まったということは、社会運動を誘発する要因になったと思います。

―やはり、そういった運動は同じ状況の人が集まって、それで動き出す……?

立岩 それが、一九六〇年代になると、障害児運動のなかで、スタイルが変わっていきました。障害児の親たちの一部が有力政治家にとり入って、「私たちはたいへんだ。こどもがかわいそうだ」と訴え、同情を買って政策が進んでいくという流れができます。
 運動のその後をみると、金銭や保障を得るといったかたちで政府を動かそうというときに、政党の運動といっしょにやるようなやり方、つまり政治色はあまり出さないほうがいい。
 一九六四(昭和三八)年に「全国心身障害児をもつ守る会」が結成されます。前の年に作家の水上勉の「拝啓池田総理大臣殿」という公開書簡が『中央公論』に載ります。これが話題になったこともあり、親たちの嘆願によって重度心身障害児のための施設がつくられ、障害のある子どもたちが施設に入れられていきました。
 水上勉の動きによって、この時代に日本の福祉は進んだといわれていますが、彼は「(障害児は)かわいそうだから救え」といいながらも、一方で「そういう子どもが生まれたら、生かすか殺すか政府が審判したらよろしい」という発言もしていました。そのことはほとんど知られていま△068 せんが、六〇年代はそういった論調があるなかで、次々と親の会ができ、親たちが陳情に行って希望が実現するという時代でした。
 これは、いまのお母さんからみたら、おばあさんの時代の昔話ですよね。

―そうやって、親の会を結成する、陳情に行くというとき、やはりお母さんが中心だったんですか?お父さんはあまり出てこなかったのでしょうか?

立岩 最初に動いたなかにはお父さんもいましたし、男性が組織の頭に多いのはいまも昔も変わりませんが、日ごろ地道に動いているのはお母さんが多かったと思います。いまでもそうじゃないでしょうか。
 一九四〇年代から一九六〇年代の話はもっとこまかく複雑で、ここでは説明しきれません。いま『現代思想』(青土社)の連載でもそのあたりのことを書いているところです。

■いまにつながる流れは一九七〇年の事件から

―一九六〇年代の動きのなかで、障害のある子どもを殺してもいいというような論調があったのは衝撃的です。

立岩 そういう親の運動にアンチができていくのが一九七〇年代です。
 ターニングポイントとなるのは一九七〇年で、その年の五月に、二歳になる脳性マヒの女の子が母親に殺されるという事件が横浜で起きました。そのとき、地元の親の会を中心に、母親の刑を軽くしてほしいという嘆願運動がおこなわれたのですが、このとき脳性マヒ者の障害者団体「青い芝の会」の人たちが、「障害児を殺したら刑が軽くなるのはおかしい」といって減刑嘆願運動を批判する運動をおこないました。
 軽減嘆願運動はその以前からたびたびあったのですが、障害△069 者自身が「自分たちが差別されている」といって問題提起していくという動きになったのは、このころでした。
 同じ年、重度心身障害者が入所していた府中療育センターでも、障害者自身が施設の処遇を批判し、改善を求めるという動きがあり、これがのちに、施設を出て暮らすという運動になっていきました(安積純子ほか『生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学』生活書院)。
 このふたつは、いまにつながる運動の流れとなっているといえるでしょう。

―いまにつながる流れ、一九七〇年代はほかにはどんなことがあったのですか?

立岩 一九七〇年代には優生保護法★01の改定の動きがありました。そのなかに「出生前の検査で障害があるとわかったら中絶を認める」という新たな条文を加えるという案があり、それに対し障害者が反対運動を起こしました。
 一方で、改正案のほかの条文への反対もあり女性団体も運動をやっていて、「産む産まいは女性の権利」という主張と障害者の運動には対立もありました。しかし対立しながらも議論できる関係にはあり、「中絶の権利は女性にはある」、けれど「人の質を△070 選ぶ権利は産む側にはない」、ということで両方の主張は両立するという理解も出てきます。
 一九七〇年代なかばになると、Chio編集協力人である山田真さんも関係する養護学校義務化(実施は一九七九年)に対する反対運動が起こります。「障害児が分けられることは隔離の一環」だと反対する人たちと、「障害児に特別な教育をほどこして〈全面発達〉を促すのが良い」という人たちとのふたつにわかれ、この対立はしばらく続きます。
 それが、一九九〇年代にかけて「インクルージョン」(障害児と健常児をいっしょに教育する)という考え方が力を得てきます。そんなこともあって、それだけでじゃないんですが、行政にも反対し、福祉業界にも反対し、親たちや学者たちとも対立していたマイナーな運動が、ある種の主導権を握るようになったんですね。

―山田真さん★02、和光大学名誉教授の最首悟さん、私たちも知っている方のお名前が出てくるのは、このころからですね。

立岩 障害のある子も地域の学校で健常な子とともに学ぶべきだという「障害児を普通学校に全国連絡会」に最初からいまにいたるまでかかわっているのがこ△071 のお二人です。 この運動によって動いてきたこともたくさんありますが、それでだんだんよくなっているかというとそうでもなくて、発達障害、特別支援学級のようなかたちで名前が変わって同じことが続いています。

■声をあげる、怒る 集団から個人へ

―いまの親世代である私たちには、反対運動のような大きな動きにはなじみがありません。

立岩 組織にかかわらないとなにもできないのかというと、そういうことでもないだろうと。
 さきほど話したような一九六〇年代の「お涙ちょうだい系」というとしかられるかもしれないけど、お母さんたちがみんなで陳情に行って、同情と憐れみを集めて国に施設を作らせることをやってきたような親の会には、いまのお母さんたちは魅力を感じない、ちょっとついていけない、そういう感じになっているようです。
 でも、まず、どこかの集団に属していなくても、たとえば今回の相模原の障害者殺傷事件のようなとんでもないことが起こったとき、個人として言うこともできる。
 怒ったらいいんです。相模原の事件の犯人は、施設の職員であったころから差別発言をしていたといいますが、それに対してだれかが本気で怒ることはあったのだろうか、なかったとしたらやるべきだったのではないかと僕は思います。
 まともに個々の現場で怒る、言うべきときに言う。少し前に「保育園落ちた日本死ね!」というお母さんの怒りがネットを通じて広がっていったというのがありましたが、いまどきそういうことがあるわけで、いろんなかたちで個々の声が伝わる回路もある。
 とはいえ、個別に動いている△072 と、やはり心細くはあるわけだから、そういうときに「それはOK」といってほしい。それがリツイートなのかコメントなのかわかりませんが、Chioのような雑誌で、だれかが「いいんだよ」といってくれるのでもいいと思います。それがあると居直り感が保持できるということはあるかもしれません。
 いまもChioの山田真さんや石川憲彦さんはいろんな相談にのっていますが、昔のようなエイエイオーのようなのとはちがうノリで、この雑誌を通じて「あんまり心配することはないよ」と語りかけ、親たちにある程度の安心感をあたえています。それは一九六〇年代、一九七〇年代の運動のひとつの継承のしかただと思います。

―親側の感じ方や人間性などが変わったというのもあるのでしょうか。

 どうなんでしょう。ひとつ、昔は団結してがんばっていたっていうのは、半分は当たりでしょうけど、半分はそうでもないと思うんです。さっき話に出した横浜の障害児殺しの減刑嘆願批判運動というのも始まりは最初は数人、それから何十人といった人たちです。
 相模原の障害者殺傷事件では、たとえばDPI(障害者インターナショナル)日本会議がすぐに声明を出しました。この団体は三〇代から五〇歳ぐらいの人が中心で、横浜の事件のときに動いた人たちからいったら孫の世代の人もいる。それぞれの時代にアクティビストがいてずっと動いてきています。ですから、僕は昔のほうが社会運動が活発だったとも思わないし、いまのほうが静かだとも思いません。
 組織は組織があること自体が目的じゃなくて、運動も運動しないほうが楽でよいともいえる。ただつるんでやらないとうまくいかないことはあるから、せざるをえない。そして具体的に、体動かしてつるんでやっていくとそれはそれで楽しいことも△073 ある。社会運動ってそういうもので、それは続いていくし新しくなっていくものだと思います。

■差別される対象は遠いものではない

―私たちは、あまり集団になって動くというのが得意ではないので、いまのほうがいろんなあり方があって過ごしやすいとは思います。ただ、個人で意見をいいやすくなったという点では差別する側もいっしょなのかなと思います。

立岩 誰もが小さなメディアで好き放題発言できるというのはやばいところもあるわけです。いま、差別問題は遠くなっているどころか、そこらじゅうにばらまかれていますよね。

―障害者差別もそうですが、在日外国人に対するヘイトスピーチにしても、身近なところ、知りあいにそういう人がいたら、その人たちの顔が思い浮かんでできないはずです。そういう意味で人とのつながりがたくさんあるっていうのは大事だと思います。
 私たちは水俣をよく訪ねていますが、そのなかで「当事者じゃないのに、気持ちがわかるか」という反発の声も聞き、かかわり方に難しさがあるのもたしかだと思いますが。

立岩 社会運動にはそういう側面もありますが、どうやっても当事者、僕は本人と言いますが、本人になれないものはなれない。ただ、障害ってことでいえば、僕の両親は本格的に認知症だし、一人だけいる甥っ子は発達障害。ほかにもいる。身内だけ見てもこうですし、私も年をとりつつあるわけで、好ききらいは別として当事者であること、本人になることから逃れられないということがあります。
 もうひとつ、逆向きからいうと、本人でなければなにも言えないかというとそんなことはないだろうと。本人にしかいえないこともたしかにありますが、それはしかたないわけで、本人△074 でない人は別のことをいえばいいのだし、いえるということもあります。親は子にはなれない。そのことをわかってなくて、子のための運動をしているとか思ってしまうとまずいわけですよ。でもそのことがわかれば、わかったうえで、親は親として親のためのこと、そして子のためのことをしていけると思うんですよ。(まとめ/編集部)

★1 一九四八(昭和二三)年施行。不良な子孫の出生を抑えるのが目的で、母体の保護はそのための手段という位置づけだった。
★2 山田さんの長女・涼さんは知的重複障害があり、最首さんの三女・星子さんはダウン症で知的障害がある。

■対談を終えて
 今回のお話のなかに、おかしいと思うことに対して、個人として文句をいえばいい、怒ればいいという点がありましたが、これは、私が自身の人生を生きるなかで、またこどもを育てていくなかで、大切にしたいと思いました。日々の生活で怒りを感じることがあっても、それを表すことについては、ためらうことも多々あります。表すことによって波風を立てるかもしれませんが、一方で、それによって人との新しいつながりができたり、あるいは自分のうちにある差別を見つめることにつながったりもするかもしれません。きちんと怒りを表せる人になりたい、そう思います。            奥田直美△075

*カライモブックスは2009年に開店。その当初から立岩さんの生存学を専攻する院生たちが常連だったという縁があり、今年5月には立岩さんが話し手となって『生存学の企て』(生活書院)刊行記念トークを開催。共通の知人も多く、和やかなムードで対談は進みました。


UP:20161109 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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