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0726殺傷事件後に
立岩 真也
2016/08/02 共同通信社配信
08/02新潟日報・08/02静岡新聞・08/02高知新聞
相模原市の障害者施設での殺傷事件
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※以下の本の第T部第1章(もとは『現代思想』2016年9月号掲載の
「七・二六殺傷事件後に」
)に、この記事の全文が収録され、その前後についての記述があります(2016/12/13)。
◆
立岩 真也・杉田 俊介 2017/01/05
『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』
,青土社,260p. ISBN-10: 4791769651 ISBN-13: 978-4791769650 1944
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※2016/07/31NHK大阪ですこし(1週間後放映だそう)。何を言いたくなったか、また書きますが、つまりは、その人に対して「圧倒的に」怒るということはしなかったのだろうかと。話せばわかるなんといういうことをそう信じているわけでないが、そう思う。施設に職員を「育てる」義務なんかない。それができなかったと反省しなくたっていい。けれども誰かまじめに怒れよ、怒ったのか、と。司会の方は、そういうことをその人が求めてたんじゃないかと言っていた。それはわからないけれども。(2016/08/01)
※[第3稿](2016/08/01)
幸いなことに、(会社の規定に基づく)かな→漢字へのなおし(結果漢字が増えました)以外のなおし要請ははいらず、中身はほとんど変わらずです。
安楽死の主張や優生思想・優生主義には種々の意味があるが、他人にとっての損得によって、時に人を生まれないようにし、時に人に死んでもらおうという考えや行いだと捉えたらよい。これは歴史的な事実でもある。
そしてその他人たち、つまり私たちにはそれを支持してしまうところがある。その方が楽で都合がよいからだ。その「内なる優生思想」を自覚しつつ、とにかく殺すのは駄目だと言い続けてきた人たちの主張を受け止めねばならない。ヒトラーなど持ち出して「とんでもない」と言えばおしまい、にはならないのだ。
次に、本人のためという言葉を使って、実のところは私たちの都合の良さを実現するのは、優生思想・安楽死思想の常とう手段だ。私たちの都合が大切でないと私は言わないし、言えない。ただ少なくともそれを、本人のためだと、死んだ方が幸せだなどと、「死んでも」言わないことだ。
容疑者はそれを言う。狂気・妄想でなく間違いなのだ。そしてこの容疑者をどうしたらよいかを説く「専門家」たちが、容疑者と等しくとまで言わないが、乱暴だ、そしてずるいと私は感じる。
精神医療の充実を、とその人たちは言う。だが何をするというのか。おおむね薬物の投与しかしない精神医療で何かできるようには思えない。そして、薬で、医療でこの間違った思想を直そうというのは乱暴だ。
結局、医療というのは名目で、監禁しておくために精神科病院を使えということでしかないのではないか。つまり本人のために存在するはずの医療を、隔離のために使うことを支持していることになる。そしてそれに気づいてもいないか、事実を隠している。人や人の未来を評定することの難しさを甘く見ている。この点で、優生主義者と、容疑者と、容疑者を責める人は共通している。
では代わりにどうすればよいのかと問われるだろうか。私は、死刑制度には反対するが、刑罰全般を否定できる人間ではない。ごく短く言えば、「現行犯」として対処するべきだし、対処できると思う。これ以上の説明はここでは略す。
そして、それとともに、優生主義を根絶はできないとしても、その勢力を弱くすることだ。そしてそれは可能である。
一つに、できる人が得をするのは当然だ、できることにおいて価値があるというこの近代社会の「正義」が優生主義を助長している。それをのさばらせないことである。
もう一つ、優生・安楽死思想は人を支える負担の重さの下で栄える。つらいと殺したくなるということだ。負担そのものをなくすことではできない。だが一人ひとりにかかる度合いを減らすことはできる。するとこの人はいなくなってほしいと思う度合いが少なくなる。
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相模原での殺傷事件
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相模原での殺傷事件 関連事項・声明・他
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障害者殺し
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安楽死尊厳死
◆
優生学優生思想
◆
能力主義
◆2016/07/29
コメント
ホウドウキョク
http://www.houdoukyoku.jp/pc/
◆2016/07/28
コメント
『朝日新聞』2016-07-28
◆横田 弘・立岩 真也・臼井 正樹 2016/03/25
『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』
,生活書院,235+xip.
◆
横田 弘
2015/06/03
『増補新装版 障害者殺しの思想』
,現代書館,254p. ISBN-10: 4768435424 ISBN-13: 978-4768435427 2200+
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※ cp. be. o/a01
◆立岩真也 編 2015/05/31
『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』
,
Kyoto Books
1000円
◆横塚 晃一 2007/09/10
『母よ!殺すな』
,生活書院,432p. ISBN9784903690148 10桁ISBN4903690148 2500+
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※ dh
◆立岩 真也 2015/11/13
『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』
,青土社,433p. ISBN-10: 4791768884 ISBN-13: 978-4791768882 2800+
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※ m.
◆立岩 真也・有馬斉 2012/10/31
『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』
,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009
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※ et. et-2012.
◆立岩 真也 2009/03/25
『唯の生』
,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360
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※ et.
English
◆立岩 真也 2008/09/05
『良い死』
,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193
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※ d01.et.,
※[第2稿](2016/07/31)
安楽死の主張や優生思想・優生主義には種々の意味があるが、他人にとっての損得によって、時に人を生まれないようにし、時に人に死んでもらおうという考えや行いだと捉えたらよい。これは歴史的な事実でもある。
そしてその他人たち、つまり私たちにはそれを支持してしまうところがある。その方が楽で都合がよいからだ。その「内なる優生思想」を自覚しつつ、とにかく殺すのはだめだと言い続けてきた人たちの主張を受け止めねばならない。ヒトラーなど持ち出して「とんでもない」と言えばおしまい、にはならないのだ。
次に、本人のためという言葉を使って、実のところは私たちの都合のよさを実現するのは、優生思想・安楽死思想の常套手段だ。私たちの都合が大切でないと私は言わないし、言えない。ただすくなくともそれを、本人のためだと、死んだ方が幸せだなどと、「死んでも」言わないことだ。
容疑者はそれを言う。狂気・妄想でなく間違いなのだ。そしてこの容疑者をどうしたらよいかを説く「専門家」たちが、容疑者と等しくとまで言わないが、乱暴だ、そしてずるいと私は感じる。
精神医療の充実を、とその人たちは言う。だが何をするというのか。おおむね薬物の投与しかしない精神医療で何かできるようには思えない。そして、薬で、医療でこの間違った思想を直そうというのは乱暴だ。
結局、医療というのは名目で、監禁しておくために精神病院を使えということでしかないのではないか。つまり本人のために存在するはずの医療を、隔離のために使うことを支持していることになる。そしてそれに気づいてもいないか、事実を隠している。人や人の未来を評定することの難しさを甘く見ている。この点で、優生主義者と、容疑者と、容疑者を責める人は共通している。
では代わりにどうすればよいのかと問われるだろうか。私は、死刑制度には反対するが、刑罰全般を否定できる人間ではない。ごく短く言えば、「現行犯」として対処するべきだし、対処できると思う。これ以上の説明はここでは略す。
そして、それとともに、優生主義を根絶はできないとしても、その勢力を弱くすることだ。そしてそれは可能である。
一つに、できる人が得をするのは当然だ、できることにおいて価値があるというこの近代社会の「正義」が優生主義を助長している。それをのさばらせないことである。
一つ、優生・安楽死思想は人を支える負担の重さの下で栄える。辛いと殺したくなるということだ。負担そのものをなくすことではできない。だが一人ひとりにかかる度合いを減らすことはできる。するとこの人はいなくなってほしいと思う度合いが少なくなる。
[第1稿]
安楽死の主張や優生思想・優生主義には種々の意味があるが、他人にとっての損得によって、時に人を生まれないようにし、時に人に死んでもらおうという考えや行いだと捉えたらよい。これは歴史的な事実でもある。
そしてその他人たち、つまり私たちにはそれを支持してしまうところがある。その方が楽で都合がよいからだ。その「内なる優生思想」を自覚しつつ、とにかく殺すのはだめだと言い続けてきた人たちの主張を受け止めねばならない。ヒトラーなど持ち出し、「とんでもない」と言えばおしまい、にはならないのだ。
次に、本人のためという言葉を使って、実のところは私たちの都合のよさを実現するのは、優生思想・安楽死思想の常套手段だ。私たちの都合が大切でないと私は言わないし、言えない。ただすくなくともそれを、本人のためだと、死んだ方が幸せだなどと、「死んでも」言わないことだ。
容疑者はそれを言う。狂気・妄想でなく間違いなのだ。そしてこの容疑者をどうしたらよいかを説く「専門家」たちが、容疑者と等しくとまで言わないが、乱暴だ、そしてずるいと私は感じる。
精神医療の充実を、とその人たちは言う。だが何をするというのか。おおむね薬物の投与しかしない精神医療で何かできるようには思えない。そして、薬で、医療でこの間違った思想を直そうというのは乱暴だ。
結局、医療というのは名目で、隔離しておくために病院を使えということでしかないのではないか。つまりまがりなりにも本人のために存在する医療を、隔離のために使うことを支持していることになる。そしてそれに気づいてもいないか、事実を隠している。人や人の未来を評定することの難しさを甘く見ている。この点で、優生主義者と、容疑者と、容疑者を責める人は共通している。
では代わりにどうすればよいのかと問われるだろうか。私は、死刑制度には反対するが、刑罰全般を否定できる人間ではない。ごく短く言えば、「現行犯」として対処するべきだし、対処できると思う。これ以上の説明はここでは略す。
そして、それとともに、優生主義を根絶はできないとしても、その勢力を弱くすることだ。そしてそれは可能である。
一つに、できる人が得をするのは当然だ、できることにおいて価値があるというこの近代社会の「正義」がこの思想を助長している。それをのさばらせないことである。
もう一つ、この思想は人を支える負担の重さのもとで栄える。つらいと殺したくなるということだ。負担そのものをなくすことではできない。しかし一人ひとりにかかる度合いを減らすことはできる。するとこの人はいなくなってほしいと思う度合いが少なくなる。
UP:201607 REV:20160802, 1214
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優生学優生思想
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病者障害者運動史研究
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