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もらったものについて・16
立岩 真也
2016/12/05
『そよ風のように街に出よう』
90:34-39
15
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[表紙写真クリックで紹介頁へ]
■『万博と沖縄返還』『われらは愛と正義を否定する』他
あと二回ということになった。そもそも続ける予定も依頼も何もない文章だったのだが、つれづれと書かせてもらってきて、今回が第一六回になる。二〇〇七年からということでもう十年だ。とりわけこのごろは、いろいろなところに書いたものの宣伝に終始している。前回は三つをお知らせした。
一つは
『万博と沖縄返還――一九七〇前後』
(吉見俊哉編・岩波書店、ひとびとの精神史・5、二〇一六)に書いた
「横塚晃一――障害者は主張する」
。題は編集部の人がつけてくれた。この巻には有名どころでは三島由紀夫、岡本太郎といった人たちが出てくる。知っている人は知っている人では、山本義隆、
田中美津
といった人たちについての文章がある。
一つは予告していたもの。横田弘・立岩真也・臼井正樹
『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』
(生活書院)。この三月に出た。おもしろい本になったと思う。
一つは、
文部省の科学研究費に応募したその書類
の一部。それはまた外れてしまった。やれやれ。私はこのことにかなり憤っている。また(当たるまで)出さねばならない。
■『現代思想』相模原障害者殺傷事件特集
そして相模原での事件が起こってしまった。やはり書いているときりがない。実は今、この遅れに遅れている原稿を国会参議員会館で書いている。(その日原稿は終わらず、そして仕事が立て込み、今は10月10日。ようやく再開。)九月二六日、事件から二月が経った。追悼集会かあってその後日々や公園から出る行進がある。
そして同日、
『現代思想』二〇一六年一〇月号
、緊急特集=相模原障害者殺傷事件が発売になった。いかにも芸がないが、目次・執筆者だけ列挙しておく。
【エッセイ】「「事件」の特異性と普遍性を見つめて」森達也、「障害と高齢の狭間から」上野千鶴子、「ぼちぼちの人間世間へ」最首悟、「この不安をどうしたら取り除くことができるのか」大澤真幸、「「日本教」的NIMBYSMから遠く離れて」斎藤環、「「個人の尊重」を定着させるために」木村草太、【「当事者」からの視点】「事件の後で」熊谷晋一郎、「相模原障害者虐殺事件を生み出した社会 その根底的な変革を」尾上浩二、「相模原市障害者殺傷事件から見えてくるもの」中尾悦子、「相模原市で起きた入所施設での大量虐殺事件に関して」白石清春、「「言葉に詰まる自分」と向き合うための初めの一歩として」星加良司。【反復する優生思想――障害をめぐる生政治】「反ニーチェ」市野川容孝、「「生きるに値しない生命終結の許容」はどのように語られたか」大谷いづみ、「優生は誰を殺すのか」杉田俊介、「事件が「ついに」起こる前に「すでに」起こっていたこと」児玉真美。【「障害者殺し」の系譜――運動史からの問い】「七・二六殺傷事件後に 2」立岩真也、「「殺意」の底を見据えること」荒井裕樹、「相模原障害者施設殺傷事件と優生思想」廣野俊輔。【医療観察と「社会防衛」――精神障害をめぐるポリティクス】「精神医療と司法・警察の「入り口」と「出口」という問題系」高木俊介、「役に立たない?危険な人間?二つの苦しみ」桐原尚之、「精神障害者の立場からみた相模原障害者殺傷事件」船橋裕晶、【介護労働の現在】「介護者は「生気の欠けた瞳」をしているのか」深田耕一郎、「障害者地域自立生活支援の現場から思うこと」渡邉琢、「津久井やまゆり園の悲劇」西角純志、【憎しみの時代ヘイトクライムとしての相模原事件】「「これはヘイトクライムである」の先へ」明戸隆浩、「このいま、想像力の圧倒的な欠如」岡原正幸、「土地の名前は残ったか?」猪瀬浩平。
以上。知っている人も知らない人もいるだろう。こちらのサイトにページがある人にはリンクを張っている。「生存学」の表紙から関係のページに行けるようになっている。ご覧ください。そしてこの号は買っていただいてよいと思います。私の文章は「2」となっている。その雑誌の九月号が精神医療の関係の特集でそこに「1」を書いた。「1」は、この事件が精神障害者の取り締まりにつなげられてしまってはならないと思って書いた。「2」は障害者殺しを巡って振り返って置かねばならないと思うことを並べた。前者が(四〇〇字詰)六〇枚、後者が八〇枚の長いものになった。その他、新聞等にはもっと短いものも書いた。その九月二六日が締切で二九日の『聖教新聞』に載ったものとして
「自らを否定するものには怒りを――横田弘らが訴えたこと」
(題は編集部がつけてくれた)等、短いものは全文読めるようにしてあるから、読んでいただければと思う。
■『私的所有論』でお世話になった人たち
『私的所有論』という、一九九七年に初版が出て、二〇一三年にその第二版(生活書院・文庫版)が出た本の
英訳版・電子書籍版
を作った。PCでもキンドルでもスマホでも読める(音声にしたい人は音声にできる)日本語電子書籍版もこみで、HPから約一〇〇〇円(一〇ドル)で買える。
なにか「学術的な」本の英語版についてここでお知らせすることになんの意味があるのだろう。それは私も思う。ただ、その本も「もらったもの」があって書かれた。そのことを知ってほしいという思いはやはりある。最初のほうでこんなことを書いている。
「現実や現実を肯定する流れがあり、それに対する批判がある。そして批判者は以上にあげてきたものを適宜援用してきた。どちらかと言えば、異を唱えてきた人達の方が何かを言っているだろうと私は感じてきたし、この本を書いてみた今、あらためてそう感じてもいる。ただ、両者のいずれにも満足できなかった。ずっと両者のその間にあったと思う。これは嫌われる立場である。しかし私はそのようにしか考えられなかった。徹底的な批判であるかに見える批判が、空虚な常套句でしかないように思われる。それは、どこかで相手にしているものと徹底的に対峙していないからだと思われた。そこでこの本を書いた。現実にある、どう考えたらよいのかわからない事柄をどう考えたらよいのかと考えながら書いた。同時に、どう考えたらよいのかというその足場を現実の表層の中に見出そうとする。論理を辿って、と先に述べたこととこれは矛盾しない。感覚は論理的である、感覚は論理を備えているのだが、その感覚=論理が、近代社会にあると公称されるものによって隠され、うまく記述されていないのだと思う。そして、考え記述するその手掛かりの多くは、結局、(私の不満の対象でもあった)疑問や批判の動きから得られた。たったこの本に書いただけのことを言うのに、考え始めてから十年よりは二十年の方に近い時間がかかってしまった。それは、別の仕事に時間をとられ、回り道をしていたからでもあるが、ただそれは悪いことだけではなかった。その仕事の中からいろいろなことを考えることができた。そこで得たものは、文字になったものからよりむしろ、呟かれたことや行われたことからだった――もちろん行われる時には様々な理念が語られるのだが、そうして公称されるものとは別のことが起こっていると思うことが何度かあった。ただ、この本には骨のような部分しか書かれておらず、どんな場で何を得たかは書かれていない。まだ三十年も経っていない出来事が、そのままにしておけば、それがあったということさえ忘れられてしまうだろう、その歴史を辿るのはまた別の仕事になる。」(第二版文庫版・四八−五〇頁)
本誌で断片的に書かせてもらったのは(私が間接的に関わった限りでの)「どんな場で何を得たか」「その歴史」の一部ということになる。そして『現代思想』(青土社)の連載では(主に書いているのは一九六〇年代以降のことなので)私が生まれてからのことではあるが、このたび初めて知ることになったという部分も含め、「歴史」ものを、ごく安直なやり方でではあるが、書いている。今までに本になったのは
『造反有理――精神医療現代史へ』
(二〇一三)、
『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』
(二〇一五)。次のはもっと長いものになりそうだ。
さてその『私的所有論』では、その「もらった人」はところどころに、人によっては気がつかないかもしれない感じで出てくる。じつはどんな人が出てくるのか、第二版を出してくれた生活書院のサイトに私は二〇一二年から一四年にかけて三九回の連載をさせてもらっていたのだが、第二版が出た時にその宣伝のつもりで、連載の第二一回から二五回まで、「『私的所有論』の登場人物」という文章を書いた1「「視労協」関係」、2「視労協・宮昭夫」、3(生命倫理研究会/青い芝の会)」、4「最首悟」、5「最首悟・続」。簡単に読めるようにしておくので、読んでください。「立岩真也 もらったものについて」で検索するとこの文章が出てきてそこからリンクさせてあるから、どうぞ。
そしてなんとこの『そよ風』の連載でも引用しようと思っていた箇所を既に引用していた。それは第二版に新たに付した二つの「補章」のうちの二つめ、「いきさつ・それから」に付した註だ。
「時代の雰囲気とは別に、しかし必然性をもって、ものを書いた人の書いたものが、その人たちは「学者」でないことが多いのだが、あったにはあった。よく知らないからでもあるのだが、本書では控えめに、注などで、幾人か・いくつかについて記した。新たに加えた文では、補章1の注4(797頁)で、そこには「◆01 時代の雰囲気とは別に、しかし必然性をもって、ものを書いた人の書いたものが、その人たちは「学者」でないことが多いのだが、あったにはあった。よく知らないからでもあるのだが、本書では控えめに、注などで、幾人か・いくつかについて記した。」と記してある。そして人の名前が列挙される、どこに引用したかは本にある註の方を見てください。ここでは名前だけ。第二版で、
田中美津
、
吉田おさみ
、
吉本隆明
、
最首悟
、
森崎和江
(809頁)、ほかに本補章で、
稲場雅樹
、
山田真
、
米津知子
。初版で、
石川憲彦
、
石牟礼道子
、
奥山幸博
、
小沢牧子
、
北村小夜
、
最首悟
、
篠原睦治
、
堤愛子
、
野辺明子
、
福本英子
、
古川清治
、
宮昭夫
、
村瀬学
、
横田弘
、
毛利子来
、
横塚晃一
、
山下恒男
、
山田真
、
米津知子
、
渡辺淳
。 そしてこの註は、その補章の冒頭、1「なりゆき」の1「いきさつ」の、「本書でわりあい名前がたくさん出てくる人たちの幾人かはそんな人たちでもある◆01」という箇所につけた註だ。その本文のほうを、長くなるが、引用する。
「[1]いきさつ
例えば障害に関わることについて書くことがあると、「なぜそんなことをわざわざ?」と聞かれることがあるが、「身内にどなたか?」と尋ねられることもあるが、具体的に、とくにそんなことは――時とともにその比率が高まっているのではあるが――ない。しかし、私は――もっと広い意味での――「能力主義」にまつわることごとが、この世に起こる困ったこと不要なことの基本にあるとずっと思ってきたし、思っている。私は、すくなくとも大学に入る前は社会科学だとかなにも知らない人だったが、学校には通っていた。学校というのはそういう社会のための場所として機能している。それは、なんの「学」がなくても自明なことだった。
もちろん他にもいろいろなことがこの社会には起こっている。しかしそれらの多くが、たとえ建前であっても、「差別」であるとか、よろしくないとされているのに対して、これはそうではない。ここが違う。そしてさらに、だんだんとそんなことを問題にしようという人が意外にいないことを知ることになった。
そういうのは流行りではなかったのだ。当時、おおむね一九八〇年代、その前後、私が学生や大学院生をしている頃にも、いろんな人がいろんなことを書いていた。よくできている(利口な人が書いている)と思えるものと、そうでもないと思えるものとあったが、そうした出来不出来はともかく、私に関心があることについて書かれているものはあまりないようだった。
正確には、それはすこし違う。誤解を招く。正しくは、ある時期すこし流行りだった。いや、そのような社会への文句の言い方は、私は、有史以来ずっとあると思っているのだが、「社会」を語る語り方として表立って口にされ始めたのは、この国では、「成長」が一息ついて、「前向き」な感じがいくらか疑われ始めた頃からだったと思う。それには「学問」的なものもあったし、そうでないものもあった。一九七〇年代辺り、そういう「問題意識」があって書かれた本などそれなりにあった。一九八〇年の前後にも、そういう気分の社会運動が例えば大学の中でもあった。
「団塊の世代」「全共闘世代」について私の評価は――全体としてものを考えない、というか途中でやめてしまったと思えてしまうために――かなり辛いのだが、それでもその人たちがいた。それより年が上の人も下の人も含め、一九七〇年頃から「能力主義」だの「優生思想」だの、呪文のように同じ言葉を繰り返していた社会運動のある部分があった。ほぼ消滅しかかっていた学生運動にもあった。それはこの国にかなり特異なことと言ってよいのかもしれないように思う。多くはあまりものを書かない人たちだったが、それでもいくつか本もあった(534頁、そして[2007a]にいくらか列挙した人たちや本)。そしてそういうものにわりあい深くあるいはすこし関わりのある私とほぼ同世代の人たちがそう多くはないにしても周囲にいた(そして結局、そのうちの一定の部分は研究者になった)。本書でわりあい名前がたくさん出てくる人たちの幾人かはそんな人たちでもある◆01。(そしてその時期のことについて、またそのしばらく間の私が直接には知らないことについては、『そよ風のように街に出よう』という雑誌に筋なく続けさせてもらっている「もらったものについて」という「連載」([2007-])があるので、それをそのうち整理してまとめられればと思っている。)
ただ、そうした批判的な言論にしても、能力主義とか優生思想(優生主義と言った方がよいのかもしれない→第6章注24・434頁)とか言って、ただ槍玉にあげていればよいようにも思えなかった(例えば本書の第8章と第9章の題はそんな気持ちの題になっている)。それはそんなにわるいものではないとも、一方では思える。だから、それなりに考えることがあると思った。だが、あまりそうしたことについて考えている人はたくさんはいないようだった。考えて言っている人が他にいれば委ねてしまえばよいが、そんな人は少ないようだった。
今回とくに注を点検して思ったのは、というか、もっと前から思い知らせされてきたのは、そうして私に与えたものがある人たちやできごとについて、注で名前等はあげているものの、たぶんほとんどの人は知らないはずだということだ。それで電子書籍版でいちいち関連ページにリンクすることにはしたが、いかにも説明が不足している。それは一つに、その人たちがつまりは一言ですむようなことを連呼している、すくなくともまずはそのように読める聞こえるので、取り付く島がないということがあった。自分にとってというより、人々に、それをあげていくことに羞恥のようなものがあったと思う。ではそれだけかというと、そうでもない。ただ、それを説明すると長くなる。本書をもっと長くすることはできないという事情はあった。知っているはずだという、非現実的な思い、願いもあったかもしれない。しかしそれだけでもない。ためらいがあってしまったと思う。今回いくらか注を足してはみたが、不全感だけが残った。まずはリンクだけでもつけておいて、あとはまた仕事を、と思う。それはたんにもっとたくさん、ということではない。取り付く島がないような、体系を構築したり、細部に枝分かれしていったりしない言葉にどのように対するかということでもある。『母よ!殺すな』(新版・横塚[2007])に付した「解説」([2007c])。そしてこれは繰り返しになるが、普通の「学問」の世界では、さらにもっと普通の「論壇」といったものでも、それは主題とされることがほぼないといった様子だった。」(第二版文庫版・八一八−八一八頁)
そんなことで
電子書籍版
を作った。日本語のものは私が作った。といってもHTMLファイルと呼ばれるホームページで私たちが毎日見ているページに使われている形式のものだ。私たちがhttp://www.arsvi.com/というところで毎日作っているページと体裁が似ている。横書きだから縦書きの書籍のような風情には欠けるかもしれない。だが、ただクリックすればすぐに読める。そしてそこにおそろしく大量のリンクを貼ってある。いまあげた人たち――その全員を知っている人たちも一定いるが、一人も知らない人たちもたくさんいる、そういう人たち――についてのページにリンクされている。そのすべての人たちがなにか素晴らしいことを言った書いたというのではない。むしろ、そうでない、まだ考えることがある、そう思ってこの『私的所有論』という本を書いたと、さきに引用した文章に書いた。だが私のように思うかどうかはともかく、知ってほしいと思う。だから、買ってください。
この本、初版は、六〇〇〇円というとんでもない値段だった。それで文庫本にしてもらって一八〇〇円になった。こんどの電子書籍版は一〇ドルである。英訳(私は英語できないから訳してもらった)他にかかった手間を考えるとどんな値段にしてもわりにはあわないのだが、あわないからかえって、安くした。英訳を巡る苦労話をここでしても仕方ないからそれは略す。(ただ、これはなかなか英語圏の人たちには伝わりにくいのだろうと思いながら、いくらか気が滅入りながらこの作業をしてきたのではある。同時に、だからこそ、訳してもらったのではあるが。あえて訳してもらい、しかしなかなか「受容」には至らないということが起こり、やはり難しいと思う…という順番になる。)買ってくださいませ。
「立岩真也」
で検索すると出てくるページ(http://www.arsvi.com/)の左上に
「Kyoto Books[直売]」
というところがある。そこ(等)から今私が使っているガムロード(Gumroad)というところで買える。ここの手数料は一点につき二五セント+売り上げの五パーセント。クレジットカードが必要だが、カードを使えれば(使う気があれば)ごく簡単にすぐ購入できる。(カードを使いたくない人使えない人は立岩に連絡をください。)今のところ使ってもらえなくて、私は悲しい。六〇〇〇円の紙本(初版)はなんだかだ一万冊ほど買ってもらえたのだったが…。しばらくやってみてだめなら(もっと手数料の高い)アマゾンとか使うことも考えてみるが今しばらく努力してみようと思う。よろしくお願いいたします。
◆立岩 真也 2013/10/14 「『私的所有論』の登場人物・1(「視労協」関係)――連載:予告&補遺・21」
生活書院
のHP:
http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa.html
◆立岩 真也 2013/10/21 「『私的所有論』の登場人物2(視労協・宮昭夫)――連載:予告&補遺・22」
生活書院
のHP:
http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa.html
◆立岩 真也 2013/11/07 「『私的所有論』の登場人物3(生命倫理研究会/青い芝の会)――連載:予告&補遺・23」
生活書院
のHP:
http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa.html
◆立岩 真也 2013/11/11 「『私的所有論』の登場人物4(最首悟)――連載:予告&補遺・24」
生活書院
のHP:
http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa.html
◆立岩 真也 2013/11/18 「『私的所有論』の登場人物5(最首悟・続)――連載:予告&補遺・25」
生活書院
のHP:
http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa.html
◆2007/11/10
「もらったものについて・1」
『そよ風のように街に出よう』
75:32-36,
◆2008/08/05
「もらったものについて・2」
『そよ風のように街に出よう』
76:34-39,
◆2009/04/25
「もらったものについて・3」
『そよ風のように街に出よう』
77:,
◆2010/02/20
「もらったものについて・4」
『そよ風のように街に出よう』
78:38-44,
◆2010/09/10
「もらったものについて・5」
『そよ風のように街に出よう』
79:38-44
◆2011/01/25
「もらったものについて・6」
『そよ風のように街に出よう』
80:-
◆2011/07/25
「もらったものについて・7」
『そよ風のように街に出よう』
81:38-44
◆2012/01/25
「もらったものについて・8」
『そよ風のように街に出よう』
82:36-40
◆2012/09/10
「もらったものについて・9」
『そよ風のように街に出よう』
83
◆2013/03/25
「もらったものについて・10」
『そよ風のように街に出よう』
84:36-41
◆2013/09/25
「もらったものについて・11」
『そよ風のように街に出よう』
85:
◆2014/04/25
「もらったものについて・12」
『そよ風のように街に出よう』
86:44-49
◆2014/12/25
「もらったものについて・13」
『そよ風のように街に出よう』
:87
◆2015/08/20
「もらったものについて・14」
『そよ風のように街に出よう』
88:42-49
◆2016/04/25
「もらったものについて・15」
『そよ風のように街に出よう』
89:48-55
◆2016/12/05
「もらったものについて・16」
:
『そよ風のように街に出よう』
90
◆2017/09/05
「もらったものについて・17」
:
『そよ風のように街に出よう』
91:60-67
◆2011/07/25
「そろいでもってます」
『そよ風のように街に出よう』
81:-
◆2016/12/05
「『そよ風』終刊に寄せて」
『そよ風のように街に出よう』
90:49-50
UP:20161010 REV:20161122, 20220712
◇
『そよ風のように街に出よう』
◇
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
◇
病者障害者運動史研究
◇
立岩 真也
◇
Shin'ya Tateiwa
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇