HOME > Tateiwa >

もらったものについて・15

立岩 真也 2016
『そよ風のように街に出よう』

Tweet


 本誌があと何号かで終わるとうかがった。残念なことだが、なにか言う資格もなにもない。ずっと以前、一九八〇年代の後半にいちどその時あった分全号を購入させてもらって、その後しばらくは定期購読というものをしていたが、いつどこまで払ったかわからなくなり、いくらかあいた後、この当初は連載でもなんでもなかった文章をだらだらと書いて送って、すると十冊送っていただくという具合で、なんの貢献もしていない。
 こないだ、二〇一五年の年末のことだ、生活書院という横塚晃一の『母よ!殺すな』他を出している生活書院の高橋社長に会った。生活書院も高橋(淳)さん含め家族二人でやっている極小出版社で、景気のよい話はない。その時、本誌のその話になって、その時に出たのは、本誌が、そしてその発行元であるりぼん社がいったいどんな具合に、やってきたのか、ともかく今までやってこれたのか、うかがたいという話だった。
 本誌はほんとに多くの人たちに話を聞いてきた。取材に出向いて話を聞くことがなければ、文字にならなかったことがたくさん文字になった。それか続けられてきた。それらにはこれから残してよいものもあるはずだ。そのこともある。それとともに、そよ風・りぼん社がどうしてきたんだろうということもある。話を聞いて写真とって文字にして、雑誌にして、一般書店でないところで売る。どうしたってそう金にはならない仕事をどう続けてきたのだろうという、かなりやじ馬的な気持ちもある。河野秀忠さんが、河野さんらしく、書かれてきたものはかなりある。それでも本誌自体のことはそんなにたくさん出てきてはなかったように思う。そして小林敏昭さんの書かれたものはなお少ない。というかとても少ない。だから、うまくことが運んだら一度お話をうかがう機会を得られればと思っている。相談させていたただこうかと思っている。まずそれが一つ。

■『万博と沖縄返還――一九七〇前後』・横塚晃一
 ここのところ結局、宣伝に終始している。前回は、昨年、横田弘の『障害者殺しの思想』が現代書館から再刊され、それに「解説」を書いたことを宣伝した。そして次に、電子書籍――というほどのものではないのだが、とにかく紙媒体ではないかたちの――資料集として二つを出したことを宣伝した。一つは、二〇一四年末に作った『身体の現代・記録(準)――試作版:被差別統一戦線〜被差別共闘/楠敏雄』。一つは、その半年後に作った『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』。後者の今出ているものは、一つ花田春兆の文章を加えたので、第二刷――とは普通は言わないのだが――といったものになる。おろしろい、と私は思っているのだが、つくづく売れないものだと思う。ほんとはみなは紙が好きなんだろうかとも思う。そういう理由だけでもないのだろうとも思う。だがともかくしばらく今の形態で売り続けようと思う。どんな文書が入っているか、私のHPから詳細が見られるのでどうぞ。
 そして昨年末、『万博と沖縄返還――一九七〇前後』という本が出た。岩波書店のシリーズもので「ひとびとの精神史」という全9巻のうちの第5巻。編者は吉見俊哉。その巻は山本義隆について最首悟が書いていたりもする巻なのだが、私は横塚晃一について書いた。題は編集部がつけたもので「横塚晃一――障害者は主張する」というものになった。私は横塚の『母よ!殺すな』が出たときにそのかなり長い「解説」を書かせてもらって、そこで書くべきはまず書いたと思っていたので、何を加えようかとだいぶ迷って、でもともかく書いた。
 その始まりは次のようになっている。

 「敵とつきあわざるをえないということ
 戦後のでも二〇世紀のでもよいのだが、その時期の三人をと問われたら、私は、横田晃一(一九三五〜一九七八)、高橋修(一九四八〜一九九九)、吉田おさみ(一九三一〜一九八四)になる。横塚晃一より前に生まれ、共に「青い芝の会」で活動し、彼よりはずっと長く八〇歳まで生きた横田弘(一九三三〜二〇一三)の再刊された本『障害者殺しの思想』(二〇一五年、現代書館。初版は一九七八年、JCA出版)の「解説」にそう記した。その本の帯に森岡正博は横田晃一、横田弘、田中美津の三人を記している。私の三人は若くして亡くなったことにおいて共通している。横塚は四二歳、高橋は五〇歳、吉田は五二歳で亡くなった。レーニンやガンジーやマンデラは知られているだろう。ここであげた人は、田中美津は知っている人は知っていようが、他はそうでもないだろう。
 ただ、高橋修はものを書かない人だったが――私の手元にあるのは五〇〇字の文章、代わり三度のインタビューをして彼についての文章を書いた――、他は自身の著書があって、それを読んでもらえればよい。これは当たり前のことではない。横塚・横田についてはその人たちから大きなものを貰った人たちが尽力し、七〇年代の著作をここ十年程の間に再刊してきた。横塚の公刊された本は『母よ!殺すな』だけだが、七五年に出たその本は、逝去の三年後の八一年に増補版が出て、その後長く入手できなかった。それを二〇〇七年、再刊を強く願った編集者が立ち上げた出版社(生活書院)から再刊され、二〇〇九年にはさらに未収録の九篇を収録した版(第四版とする)が出た。もとの本の三倍ほどの厚さになっている。そこには未収録の横塚の文章の他、追悼文なども収録されている。横塚が私信としてでなく書いた文章はこれで網羅されたのではないか。横田のことは前段に記した。だから直接に読むことができる。だから、こんな(私の)文章よりなにより、それらを読んでほしいと思う。(そしてまずここにあげた人がどんな人か、事件がどんな事件か、本がどんな本か、「生存学」http://www.arsvi.com/「内」を検索してもらいたい。「横塚晃一」でもよい――様々にリンクさせておいた。本章で記すことのできない情報がいろいろと収録されている。)
 それにまずはつきる。さらに私は再刊されたその横塚の本に(も横田の本にも)「解説」を書かせてもらった。その文章は「この本は、前の世紀に出た最も重要な本の一冊であり、再刊が長く待たれていた」(【428】、以下【 】内は第四版の頁、横塚以外の文章については筆者名を記す)と始まる。かなり苦労して私が横塚から受け取れるものを書いた。そしてずいぶん前、一九九〇年に『生の技法』という本を出してもらったのだが(現在は第三版が生活書院から文庫版で出ている)、その第7章が「はやく・ゆっくり」という章で――この題は横塚の遺言「はやく、あわてず、ゆっくりやっていくように」からとっている――その当時の障害者運動のかなり込み入ったところも含め、簡略にではあるが記している。合わせて読んでもらえたらと思う。それ以外の何を書けばよいだろうと思った。
 けれどせっかくその人のことを知らせる機会を与えられた。まず、横塚(たち)なぜおもしろいのか、すごいのか。そのことを簡単に説明する。
 その人(たち)の行動と思想は、この社会の仕組みと現実の「本体」に関わっている。その根っこにあって、逃れ難く思われるものを問題にした。まず、「能力」に関わるきまりと価値によって、その人たちは最も不利な位置に置かれている。もう一つ、異なりがある。例えば脊髄損傷といった人たちが普通に車椅子に乗っている人であるのに対して、脳性まひの人たちは、身体がつっぱっていたり、曲がっていたり、痙攣〈けいれん〉していたりする。この時代・社会に限られないかもしれないが、それは快く迎えられたりしない。(しかし『母よ』に収録されている写真は、それを見る人は誰もがそう思うはずだが、美しい。この「異形」を巡ることごとについてはここで何も記すことができない。)
 同時に、その人たちは、この社会でうまくいかず、むしろその社会は敵として現れるのだが、その現実を生きる。敵は敵なのだが、だからといってそこから全面的に離れるわけにもいかない。端的には他人の手、介助(介護)が必要である場合がある。「現実」に反対しつつ、現実に関わった人たちだ。ときに現実の解を求めざるをえない時がある。今さらなおるわけでもなく、その身体から退くことができない。そうした人たちはものごとをまこともに、まじめに考えざるをえない。
 それはその時期の社会運動、社会運動を担っていた人たちと異なる。その人たちは、どこまで本気だったかはともかく、いくらでも威勢のよいことを言えたし、言った。そしてそれがうまくいかないとなると――実際多くはうまくいかなかった――そこから撤退して、「一般社会」に戻るあるいは入っていった。あるいは退かないとしても、言うことは言うこととして言い、他方で、そういう口説の徒になって稼ぐことも含め、自分の生業は生業として成り立たせていくことができた。しかし、この人たちはそうもできない。社会と渡り合うことをやめることは生きられないことにもなりうる。最も基本的なところから批判しながら、つきあうことをやめられない。これはたいへんにやっかいな位置だが、そこに居続けることになる。[…]」

■横田弘
 そしてやはり前回、未発表の横田弘との二つの対談と横田弘と長い間のつきあいがあった臼井正樹(現在神奈川県立保健福祉大学教員)の文章を収録した本が出るはずであることを書いた。この本はこの三月に出ることになった。今日(一月九日)その「まえがき」を書いたので、それをそのまま。

 「まえがき
 どんな経緯でこの本が出ることになったのかについては、そして横田さんと臼井さんとの関わりについては、臼井さんが書いてくれているので(→◆頁)そこを読んでください。また白井さんと私が知り当たったいきさつのことも臼井さん書いてくれている(→◆頁)。以下、結局私(立岩)と横田さんのことに限っての話になるおことわりしておきます。
 まず、私にとっては、それまで会ったことのなかった横田さんから声をかけてもらって三度も話ができたことを得難いことで貴重な機会であったことを不思議なことで、そしてうれしいことだった。そんなことはそんなにあることではない。
 一つ、私たちは一九八〇年代の後半、もう三〇年近く前になるが、多くの人に話を聞くことができて、それは今となってはずいぶん貴重なことだった――文字化されていないものも実はかなりあって、音源が残っているか、探してみなければならないと思っている。だからまったく知らないわけでないが、話をうかがった方が私(たち)のことなど覚えているはずなどないと思っていたが、二十数年年といった時間か経って再会する機会があった時、覚えていると言ってくれて妙にうれしかったことがある。そんなこととして覚えているのは、三井絹子さん(→◆頁)が著書『私は人形じゃない』が出た時に、その本を販売しに長野大学で開催された障害学会に一族郎党でやってきた時、、私なら覚えているなんてありえないと思ったのだが、そのずっと前のことを言ってくれて、単純にうれしかったということが一つ。
 そして三井さんの兄でもある新田勲さん、彼も横田さんが亡くなった二〇一三年に亡くなったのだが、新田さんも初めてインタビューをしてから二〇年以上経って対談をもちかけくれて、実現した(そこには三井さんもいらした)。それは二〇〇八年『足文字は叫ぶ!』(全国公的介護保障要求者組合)、そして二〇〇九年に『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』(現代書館)に収録された。これも私にとっては貴重な機会だった。
 これらはみないただいた機会だった――例外は高橋修さんに(これも八〇年代だが)三度のインタビューをしたことだった。、そんなことがとにかく大切なことだと思う。私は基本的には自分でごちょごちょと考えてそれを文章にするタイプの人間だと思うが、そそのごちょごちょ考えるもとにはこれらの人からもらったものがある。そんな恩義もある。そしてとにかく人はいなくなってしまう。二〇一三年は多くの人がなくなった人だった。二〇一四年にもなくなった。二〇一五年にもなくなった。うかがえるときに聞いておこう。今私は大学院というところに勤めていて、毎日そのことを言っている。
 そうして横田さんと話したその話の中身は、この本のとおりだ。私はそこでしばしば「しどもど」しているところあるが、実際そうだったのだから、仕方がない。そういった部分も含めて読んでもらうことになる。どんな人たちに、どのように読んでもらえるのだろう、と思う。でも何かは引き出すことができるはずだ。
 私が話している時に感じたのは、一つ、横田さんがが「若い障害者」に怒っていること。私は、そこはそうでもないという受け答えをしている。というか、横田さんの気持ちはそれとしてわかるのだが、第一に、自分たちもそんなことを年寄りたちに言われてきた私としては、ということもあり、第二に、(もちろん横田さんもそれはわかっていて言っているのだが)怒らなくてもすむならそれでいいじゃないかということもあり、第三に、これから仕方なく若い者も怒るようになるだろうということもあって、その話には斜めから応じるということになっている。三つめについては、障害者運動という括りで、といより、反貧困とか差別言動への抗議といった形で――そんなことをせざるをえないこと自体、悲しいことではあるのだが――ここのところ起こってきていることでもある。
 もう一つは「綱領」問答がけっこう長く続いたことだった。やはり横田さん思いいれが強いのだと思った。私は格別にあの綱領に「もっていたれた」という人間ではないので、ただ、同時に「いけてる」とも思ってはいたいから、そのへんもしどもどしながら話している。私はどちらかいうと、この「覚悟」の表出の後、そういう気分をもちながらもどうやって「ものをとるか」というところが大切だと思ってきたし、そこでがんばってきた人たちを見てきたことろがあった。そこから見ると神奈川は施設の整備も含め、青い芝によるものもの含め運動は古くからあるけど、「とれてないじゃないか」と思ってきたことろがあるから、たしょう冷たいところがあるのだ。
 そして綱領のなかの一つ、一つ「CP者であることを自覚し」というくだりについては、これはいわゆる「アイデンティティ・ポリテックス」というようなものもに関係して、すこし複雑な主題だということもあり、私はCP者ではないのでということもあり、やはりしどもどしている。読者のみなさんならどう考え、どう答えるだろうと思う。
 最後にこの本が出来たいきさつの続き。じつは横田対談(といよりインタビュー)第一回の記録は、印刷したものを横田さんに送ってあってこれを公表したいのだがという伺いを立てて、了承をもらっていた。ところがそのファイルが、私の手元からはしばらく行方不明になり、PC上では結局見つからずじまいということになってしまっていて、いろいろと探したら、印刷されたものが発見された。それをスキャンしてまたPCのファイルにしてという面倒なことをするはめになった。とにかく記録をきちんと保存・整理することは大切です。私もなにが残っているか、探してみようと思う。そして録音物や(私は撮ったことがないのだが動画)など見つかったら、以前と違ってDVDなどで簡単に提供することができるのだから、それも、と思う。横田さんの言葉の一部はここに残ったが、横田さんのかなりきつい方の言語障害のある語り口はもう直接に話をしたり聞いたりした人しかしらない。それももったいないことだと思うのだ。」


 そんなこんなで、昨年そして今年になっても、いささかレトロなものを書いたりしている。別のこともしたいともしなければとも思う。けれどもやっとかないと、という思いはあって、続けてそんな仕事をしてしまった。そしてさらに、他の研究者などとそんな作業をするとよいと思って、研究費の申請書類――五年だか続けて落ちているものだ――にそのことを書いた。その全文に近いものを『現代思想』にもう一二〇回も続けている――これも「連載」などと呼べるようなものではない――連載の第一一八回に「病者障害者運動研究――生の現代のために・六」として『現代思想』二〇一五年一二月号に載せた。こんなことは普通しないと思うのだが、した。

・概要の概要の概要
 障害・病を有する人達の主張・運動の大部分は記録も考察もされていない。資料の散逸は進み今後しばらく長く活動してきた人の声を聞く最後の機会となる。研究を組織化し、世界的な流れの中に位置づけつつ、その過程を明らかにする。T結核・ハンセン病等の収容施設が批判の対象とされつつ生活のための砦であったことがある中での運動。U社会・政治を加害の原因として糾弾しつつ自らの内にも対立や困難を必然的に抱えてしまった公害・薬害に関わる運動。V医療福祉政策の狭間に置かれる中で自らの位置を得、生活を獲得ようとしてなされてきた「難病」を巡る運動。Wすべてに関わりつつ障害と病の位置の転換を主張して1970年前後に新たに現れた運動、それが起こした波紋。そしてXそれらを経て世界に共通する現況を診断し、これからを展望する。

・概要の概要
@背景・経緯
 これから一〇年も経てば証言がまったく得られなくなるだろう時期から始まり、現在に至る、障害や病に関わるこの国での社会運動についての研究の重要性は認識されてはおり、とくに一九七〇年代以降の身体障害者の運動についての研究は幾らかなされるようになってきた。だがなお広大な未踏の部分が残されており、さらに考察すべき部分を多く残している。そしてその手前で、より広い範囲の人々の利用に資するための資料・情報の収集・整理・発信を行う必要がある。新たなインタビュー調査とその記録、その公表も重要である。ただ満遍なく全てを集めるのはもはや不可能だ。重要と考えられる部分に当たり、その検証から新たに調査すべき場所を見つける。その繰り返しの作業を速く進める必要がある。調査・研究を効果的に遂行できる体制を組み込み、個々の研究を随時まとめながら、個々に独立しているかに思われる事象の連関を確かめ、この時代の全体像を描く必要と有効性がある。それがこの計画が実現するなら可能であると考えた。
A明らかにしようとすること
 第一に、必要でこの研究で可能なのは、基本的・具体的な事実を明らかにし、記録・記述し未来に残すことそのものである。種々の障害や病を巡る社会運動やそれを担う組織・人についてのこうした研究はなされるべき一割もなされていない。私たちが約三〇年間蓄積してきた資料に加え、新たに資料を渉猟し、証言を得、研究成果に繋ぐ。史料・資料を集中させ散逸を防ぎ、文字化されていない記憶を文字にする。現在入手困難な文献の一部については電子書籍等電子媒体での保存、公開を進める。第二に、事態を捉える視点として、身体の状態が、何――苦痛/死/不便/差異/加害、とまず分けられる――をもたらすか、それらが誰――本人/家族等の関係者/医療等の供給者/より広く「社会」…――に対して、いかなる利益/不利益をもたらすのかに着目する。この視点をとることによって複雑な歴史過程と現在とをよく捉えられると考える。詳細は4頁から説明するが、とくに以下の5つの相を取り出し研究する。
 【T】「社会防衛」のために結核、ハンセン病等の療養者の収容がなされたことから、共通の利害が生まれ、集合的な運動が、戦前を引き継ぎ戦後すぐに始まった。その運動の事実の記録はなくはない。ただ、そこに生活する人は、その処遇に不満を持ったから運動を組織したのだが、その施設・制度は生活を支える場・資源でもあった。この部分を捉えた研究、この時期の運動が後にどのような影響をもたらしたかを捉えた研究は僅かである。そして社会防衛は、定義によるが感染からの防衛に限られない。衛られることを願うのはまずは家族だ。その願いは切実で、それが1960年代初頭の重度心身障害児(重心)施設、筋ジストロフィー児の施設・施策に繋がる。またこれらの施設には結核療養所が転用されていくという具体的な場の連続性もある。それは親たちの願いに発し、当時善いこととされたから、施設を求める親たちの組織の側の記録は一定存在するが、例えば精神病院について家族会側の推進の動きのあったことは表には出てこない。多面的・多角的な調査によって、防衛の対象とされた側と防衛を求めた側双方の運動を明らかにする。
 【U】1960年代前半から、加害者として社会を名指し社会に対する動きが前面に現れた。つまり公害、薬害の健康被害が大きく問題化される。これは世界的にも生命倫理学や医療社会学といった学問領域の誕生に関わり、日本社会にも大きな影響を与えた。だが例外的に水俣病について一定の記録が残され研究が組織的になされている以外、いくつか事件当時の資料集等の刊行物がある以外、ほとんどまとめられ分析されていない。そしてそこから受けとるべきはただ加害に注意深くしていこうといったことではないはずだ。加害の償いと生活の保障とをどう関係させるべきか、そこにほぼ必然的に現れる病・障害の悲惨の表象をどう解するかということもある。
 医療・福祉の大きな政策動向を紹介する文献は相対的には多く、大まかなことは知られている。ただ【V】どこまでをどんな理由で社会的支援の対象にさせ、またしてきたのか。病気でもあり障害でもあるような領域、「難病」「特定疾患」に関する運動・政策の推移から見えてくるものがある。Tの一部、親や子に対する同情から、医療と福祉、児童と成人の境界に、法外の、また複数の法に根拠をもつ制度が現れていく。さらに、Uに関わりスモン病に対する対応として始まり、研究のためとして医療費の負担を免除するという説明で徐々に難病対策が始まり、その後対象を増やしてきた。しかし、そうして拡大しますます複雑になった制度がそのままでよいと思っている人はどこにもいない。そして何を基準にどのような公的支出をなすかは普遍的な主題でもある。
 【W】Uの動きとも連続しつ、一九七〇年前後に新たに現れた運動がある。それは社会を糾弾するが、その糾弾は障害を悲惨とすること自体に向かうのでもある。これには一九六〇年代末からの社会運動との関係がある。その時期、本人たちに自らの位置と主張を転換する動きがあり、研究者・専門職者集団の一部にも自らの営為を問い直す動きがあった。それは日本では左派内部での対立が絡んでもいた。社会改革を肯定し志向した上での対立を受けてなされる主張(の一方)は、時に「極端」なものともなる。例えば(なおせても)「なおさなくてもよい」と主張する。ゆえにその脆さを突くことは容易だが、同時にそれは――時に欧米の同じ領域の言説より――主張しうることの「限界」まで行こうとしたと見ることもできる。その動きを跡付け、理論的に考察する。
 【X】厳しい対立もあった運動は現在、おおまかには「障害者権利条約」を受けた国内法・制度の整備という方向に収斂しつつある。それは、様々の困難に遭いながらも前進をもたらすだろう。ただその運動はより困難な局面に遭遇してもいる。運動が、Tの時期から抵抗し、Wにおいて自覚的に対象化し批判してきた「社会の都合」が、身も蓋もない資源・経済の問題として現れている。すると例えば、医療・福祉に関わる社会運動において対置されてきた「自律」を言い続けるだけではうまくいかない。そしてこれは世界的な問題であり、W〜Xが国際的にどのように捉えられてきたかを見る必要もある。国によっても差異がある運動と主張とその背景を比較検討するために、催の共同企画等既に研究協力関係を築いている[…]らの協力を今後も得て互いに議論し、成果を多言語で発信する。
B意義
 学問の意義の一つは記録することにある。この研究は今しかできない。本申請の年にもその前の数年も、運動で中心的な役割を果たした人たちが数人ずつ亡くなった。その中の数人に存命中の聞き取りが実現し、現在その書籍化を進めているが、その速度を上げる必要がある。多くの人たちが語ろうとしているが、自らそれを文字にして公けにできる人は少ない。それは公正でない。そして惜しい。つまりもう一つ、この研究は実践的な、人々に有益なものであろうとする。私たちは技術や人を使って生きていくし、それを使える専門家も、金も政府も必要であり、それを引き出しうまく使っていく必要があり、そのために自らが活動・運動しようともする。人々がどのように自らとその身体を了解し、技術を使い、政治に働きかけ、組織や人を使っていくか、そのためにも、そのことを巡って何があったのか、どんな工夫がなされてきたのか、どんな困難があってきたのかを知る必要がある。得られた事実・資料は原則HPに公開し、必要な部分は多言語化し、誰にでも利用してもらう。ここにも本研究の大きな意義がある。
 同時に理論的な貢献も期待される。本研究は、社会学にある「範疇化」「医療化」「専門家支配」といった言葉に、この国におけるその内実を与えるものであり、同時に、それらの言葉で何がどこまで言えるのかを吟味し、確定する作業でもある。そしてまた、障害者運動・障害学の知見も踏まえつつ、そこにあった「障害者は病人ではない」といった主張をどう捉えるのか、「社会モデル」という標語をどの水準で捉えるのか、これらを考察し確認する作業でもある。
 そして研究を組織的に進める意義がある。これから本格的に研究を進めようという人達の力も得て、日常的な研究体制を整備・確立し、個別の研究の集積以上の効果を産み出す。研究・成果発信の速度を加速させ、研究成果の塊を作り出す。この体制が恒常的な国際発信を可能にする。


UP:2016 REV:20160729
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)