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補章

立岩 真也 2016/03/31
立命館大学生存学研究センター 編 20160331 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』,生活書院,pp.180-230

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◆立命館大学生存学研究センター 編 20160331 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』,生活書院,272p. 2500+ ISBN-10: 4865000526 ISBN-13: 978-4865000528 2500+ [amazon][kinokuniya] ※

立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙

 ■1 概略の続きと本と賞
  組織のこと/「趣意書」続き/学問か?/「関係者」の本たち/生存学奨励賞
 ■2 両方・複数がいて考えられる
  なおりたい・そのままでいい/語らなくてすむこと・埋没すること/しかし取り出され・証すことを求められる/わけを知る、ことがもたらすこと/孤立が悪いわけではないが、そうもいかない時
 ■3 穴があいているので埋める・塊を作る
  ケア場/政策系/測り指定することについて再度/指定し難く代行者に権限が行く場/福祉労働についても
 ■4 言葉にしていくこと
  日常を言葉にする&言葉でない世界を言葉にするのは難しい、が/一つ見つけてくること/人と人たち/組織・運動/最後に例:「精神」な人たち

■関連・言及

◆入試出願(立命館大学大学院先端総合学術研究科)2020年12月16日(水)〜 2021年1月13日(水)→https://www.r-gscefs.jp/?p=122

◆2016/03/31 「序章」,立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』,生活書院,pp.7-23


◆立岩 真也 2018 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社

◆立岩 真也 2020/05/25 「ヘルパーをしてみる・2――新書のための連載・3」,『eS』011
 「★14 […]なお、『生存学の企て』(立命館大学生存学研究センター編[2016])
「補章」第3節「穴があいているので埋める・塊を作る」に「ケア場」という項があり、そこに私の勤め先の研究科でケア・介助に関わる研究(や仕事)をしてきた人たちとその仕事を列挙している。人名だけを、そこであげた順にあげておく。なお同じ章・節には「福祉労働」という項もある。別途紹介する。
 長谷川唯山本晋輔西田美紀酒井美和安孝淑川口有美子白杉眞辻義宏伊藤佳世子、中西京子、小谷千明金野大仲口路子、杉島優子。」


 ※これからリンクしていきます。今のところいくらかリンクがあるのは→ ■3「穴があいているので埋める・塊を作る」の「ケア場」だけ。(2016)

■■補章  立岩真也

 
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 ■1 概略の続きと本と賞

1 組織のこと
 序章p.7に引用した文章は、2007年、文部科学省がしばらくやっていたCOE(Center of Excellence、卓越した拠点)プログラムという恥ずかしい名称のもの――当たると(まずは)5年間多めの予算(私たちのは多くなかった)をもらえるというもの――に応募するときに出した書類の冒頭の一番短い部分、「拠点形成の目的]だった。
 こういう制度的なことから解説した短文を引用する。望月昭・サトウタツヤ・中村正――三人ともセンターの運営委員を勤めている――編『対人援助学キーワード事典』(望月・サトウ・中村編[2009])の「生存学」の項目だ(執筆は立岩)。

 〓生存学(羅)Ars Vivendi 過去に他の使用例がないわけではないが、立命館大学的には、グローバルCOEの申請にあたりごく短い標語を求められ、2006年末に考案された語で、採択されたために、2007年度から若干の予算とともに実在することになった。その研究企画・拠点は、正しく(長く)は「立命館大学グローバルCOEプログラム〈生存学〉創成拠点――障老病異と共に暮らす世界の創造」と呼ばれる。その英訳には苦慮し、結局「Ars Vivendi: Forms of Human Life and Survival」となった。「Ars Vivendi」とはラテン語で「生の技法」といった意味である。生存学がなんであるのか、それを定義する必要はたぶんない。申請書類等、上記拠点の関係者が何をしようとしているのかは、また上記拠点その他で毎日産出される「成果」は、そのウェブサイトに掲載されている。人手は常に不足しており、おそらく経済的にはどんな利得ももたらさないであろうが、研究活動への参画を常に歓迎している。〓

 その、文部科学省が予算を出すプログラムとしての――「21世紀COE」というものの後に募集された――「グローバルCOE」の一つ、「〈生存学〉創成拠点――障老病異と共に暮らす世界の創造」は、2011年度で終わった。「事業仕分け」でCOEという制度・仕組み自体がなくなったのである。だから国から予算がついていたのは、2007年度からの5年間、ということになるが、実質的には4年半ほどのものだった。
 ただもちろん私たちがやっていくことが基本的に変わるわけではない。今記した正式に書くと長くなる「〈生存学〉創成拠点」と同時に設立した大学内の組織としての「生存学研究センター」は続いていくことになって、続いている。そのセンターがどんな組織でどうなっているかについては、センターのホームページ(http://www.ritsumei-arsvi.org/)に載っており、本書はその組織を説明する本でないから、略す。ただ一つ。その「センター」は必要だと思うからやっているのだが、そこでやっていること(だけ)が「生存学」だとか――そんなことはもちろんない――、他ではどこでやっているかとか、それはどうでもよい。ただ、センター・拠点というものが、とりあえず一つ、あるとよいことの意味については序章で説明した(→p.17)。

2 「趣意書」続き
 本書冒頭の申請書類の「拠点形成の目的]の次の「拠点形成計画の概要」の部分を引用しておく。

  〓なにより日常の継続的な研究活動に重点を置き、研究成果、とりわけ学生・研究員・PDによる研究成果を生産することを目指す。効率的に成果を産み出し集積し、成果を速やかに他言語にする。そのための研究基盤を確立し、強力な指導・支援体制を敷き、以下の研究を遂行する。
  T 身体を巡り障老病異を巡り、とくに近代・現代に起こったこと、言われ考えられてきたことを集積し、全容を明らかにし、公開し、考察する。◇蓄積した資料を増補・整理、ウェブ等で公開する。重要なものは英語化。◇各国の政策、国際組織を調査、政策・活動・主張の現況を把握できる情報拠点を確立・運営する。資料も重要なものは英語化。こうして集めるべきものを集めきる。それは学生の基礎研究力をつける教育課程でもある。◇その土台の上に、諸学の成果を整理しつつ、主要な理論的争点について考究する。例:身体のどこまでを変えてよいのか。なおすこと、補うこと、そのままにすることの関係はどうなっているのか。この苦しみの状態から逃れたいことと、その私を肯定したいこととの関係はどうか。本人の意思として示されるものにどう対するのか、等。
  U 差異と変容を経験している人・その人と共にいる人が研究に参加し、科学を利用し、学問を作る、その場と回路を作る。当事者参加は誰も反対しない標語になったが、実現されていない。また専門家たちも何を求められているかを知ろうとしている。両者を含み繋ぐ機構を作る。◇障害等を有する人の教育研究環境、とくに情報へのアクセシビリティの改善。まず本拠点の教育・研究環境を再検討・再構築し、汎用可能なものとして他に提示する。また、著作権等、社会全体の情報の所有・公開・流通のあり方を検討し、対案を示す。その必要を現に有する学生を中心に研究する。◇自然科学研究・技術開発への貢献。利用者は何が欲しいのか、欲しくないかを伝え、聞き、やりとりし、作られたものを使い、その評価をフィードバックする経路・機構を作る。◇人を相手に調査・実験・研究する社会科学・自然科学のあり方を、研究の対象となる人たちを交えて検討する。さらにより広く研究・開発の優先順位、コストと利益の配分について研究し、将来像を提起する。
  V このままの世界では生き難い人たちがどうやって生きていくかを考え、示す。政治哲学や経済学の知見をも参照しつつ、またこれらの領域での研究を行い成果を発表しつつ、より具体的な案を提出する。◇民間の活動の強化につながる研究。現に活動に従事する学生を含め、様々な人・組織と協議し、企画を立案し実施する。組織の運営・経営に資するための研究も並行して行い、成果を社会に還元する。◇実地調査を含む歴史と現状の分析を経、基本的・理論的な考察をもとに、資源の分配、社会サービスの仕組み、供給体制・機構を立案し提示する。◇直接的な援助に関わる組織とともに政策の転換・推進を目指す組織に着目。国際医療保険の構想等、国境を越えた機構の可能性を研究、財源論を含め国際的な社会サービス供給システムの提案を行う。〓

 その後、ここ2年ほどのことだが、4つに分けてみたこと、本書はその4つの分け方で分けて書かれていることも紹介した。だからその解説もここでは不要だ。ここでは当初の上記の3つについて一つ二つ補足しておく。
 Uの一つ目の◇については、研究科にやってきた大学院生に実際に必要のある人が多かったこともあり(p.19)、いくらかのことをしてきた。二つ目のと三つ目の◇、つまり技術の開発者・提供と利用者の間について、双方をつなぐこと、つながり方を考えることについては、これまであまりできてなかった。ただ一つ、とくに人数の少ない病気や障害について――それと「難病」と呼ばれるものは正確には対応しないのだが、一応「難病」という括りにしている――は、とくに生活や制度に関わる情報を提供するとともに、当人に登録してもらい情報を寄せてもらうという「箱」はこちらで作って、登録システムも稼働を始めている→「生存学」表紙(http://www.arsvi.com/)→「難病」http://www.arsvi.com/d/n02.htm。それを使って、何が欲しいかまた何はたいして欲しくないといったことを、提供者、技術開発に関わる人に提供し、他方の技術・提供系の人からは治験などに関する情報提供をすることができるようにする。その基礎を作ったところで、2年間の厚生労働省が提供する研究費は終わった。すこしばかりの――実際そうお金はかからない――資金が、できれば継続的に――ここでも続けていくことが大切だ――得られれば、持続・発展させていけるだろうと思う。スポンサー募集中です。

3 学問か?
 さまざまな学問があるが、「生存学」はその一つなのか? 学問なのか?「いいえ」とも「はい」とも、応えられる。
 まず、そんなことはどうでもよくはないか。例えば私は自分を社会学者だと称していて、それ以上肩書を増やしたいとは思っていない。人間に関わることと社会に関わることは重なったり交差したりしているから、極端なことを言えば、一つだけでよい。いちおう自然科学と人文社会科学とは二つに分けられるとするなら、おおざっばには二つでかまわない。そして人文社会科学の一つということになっている社会学には、どこからどこまでが社会でどこからがそうでないといった境界などない。何をしてもいい。だから「私は社会学者である」と言うことは何も意味していないのだが、そこがよいと思って私は社会学者を名乗っている
 もちろん大きく括ったその中をいろいろに分けていくことはできるし、その方が便利なこともある。しかし、むしろ、分けるというより、ざっと眺めてみたときに空いているところがいくらもある。一番短くは序章(p.9)に書いたように、そしてこの後も書くように、やってよい、なされてよいことがなされていないことがあると考えている。穴が空いているとは思っている。だから、最初に掲げた「趣旨」はその穴のところをもっと掘ろうという宣言のようなものだと考えてもらってもよい。「生存学」と名乗ったのは、先に記したように「看板」が要ったからという身も蓋もない理由もあるのだが、看板を掲げることにはそんな意味合いはある。
 それにしても、他に聞くことがないのか、COEの時の「審査」等で「学問としての体系性」がどうのこうのということはよく聞かれた。それにはあきあきしたのだが、すこし弁明しておく。
 一つ、学問とはもとになにか「原理」があってそれから枝が伸びているようなものであるというイメージをもっている人がいる。そんな学問もあってわるいわけではない。例えば人文社会科学のなかでは経済学がそうした学問であるとも言える――ただその最初の原理、その他いくらでも疑える(変更できる)部分はあるから、じつはそうまとまってもいない。他には、(理論)物理学とか、(分子)生物学というのも、そういうものなのかもしれない。しかし、そうでないものも多いはずだし、そうでなければならないものとも決まっていない。
 むしろたいがいの学問は「……について」の学問である。そして自然は多様で、比べればたいしたことはないが人間もいろいろだから、その様々・いろいろをきりのいいところで切り取ってその切り取った「……」という部分について「……学」などど称する。それで例えば「政治学」といったものがあったり「経営学」といったものがあったりする。それでよいことになっている。そして「……」に入るものは短くは◇に記した。それで十分なはずだ。
 そしてあまり「学」というものを重々しく考える必要もない。「……について勉強しよう」というぐらいのことだと考えてもよい。「女性学」と訳される「ウィメンズ・スタディーズ」というのはそういうものだろう。訳しようによっては「変態学」となる「クイア・スタディーズ」というものもあったりする。その意味では生存学なるものも「…についての学」である。ただ、あえて「仕切り」をいれていない。序章にも述べたように、病気と障害を分けて考えるのでなく、いっしょに考えること、その境界について考えることこそがおもしろい、大切なことだと考えるからだ。それはいささかの「わかりにくさ」を生じさせるかもしれない。しかし実際に何ができるかの方が大切だと思って、そうしている。
 もう一つ、たんに「……について」というだけでない。「どこに向かって(何かをよしとして)」という要素をある学問たちがもつことはある。それ自体はよいことでもわるいことでもない。なんの役に立たない、やっていること自体が楽しいだけ、という営みがあってよくない理由はない。けれど例えばさきの「ウィメンズ・スタディーズ」にしても「クイア・スタディーズ」そして「障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)」にしても、おおまかにはめざすものがあってなされている。生存学も「サバイバル」などと言っているのだから、そんな性格はある。このことはすなおに認めよう。
 ただ、ここはすこし難しいところだが、他方では、具体的に何がよいかについては、まずは各自に委ねよう。積極的にそう考えなくても、ものを考えていけば、自然とそうなる。「解放」を目指すのだと言うとして、何が解放なのかはすぐにはわからない、むしろだから考えようということになる。話の筋は通してもらう、それは求めるが、一人ひとりはこれが正しいと考え、それを譲る気はないということはある。だから幅はできる。だが、これも序章に述べたことだが、一致しているなら、わざわざ場を置く必要もない。
 それは「相対主義」とはすこし異なる、と私は思う。ある「かさ」と密度をもった仕事を重ねていけば、話は収斂していくかもしれない。それは集まりがあることの効果でもある。しかし差異があることが集まりがあることの意味でもある。両者はまったく矛盾しない。なにかしらの方向性とともに幅を有する、そういうものが学問と言われるのだろうと、ここでは学問を擁護する立場から述べることもできる。

4 「関係者」の本たち
 ここまで読んでいただいたように、いくつかの文章を本書に再録したが、それはもちろんごくごく一部だ。ここでは「書籍」になったもので、センター、研究科の「関係者」のものだけをあげる。そして、教員たちのものはとても多いので、院生や修了者との共著・共編者となっているものを別として、またセンターのために細々としたことを含めて働く「特別招聘研究教員」という名称の人のものも別として、それらはあげない。「生存学 成果」と検索してさらにそこから「単著・共著・編書」の頁をクリックすると、今日(2016年2月11日)は、もれているものもあるのだが、245冊出てくる。それは誰が選んだというものでもなく、なんとはなしにできたもので、そこには「関係者」という自認のない人のものもあるだろうし、ただたんにもれていて、以下に出てこないものもあるはずだが、その範囲内で並べておく。
 まず「先端研」の博士論文がもとになって書籍化されたものを発行年順に並べていく。そしてその筆者に他の著書・編書がある場合には、その後にそれも並べて記していく。
 大学院が始まったのが2003年度で、その年度は当然博士前期課程(博士一貫制なので、他では修士課程と呼ばれるものがこう呼ばれる)の一年次だけがある状態から始まった。ただ既に修士号をもっていた人も入学してきたから、最短3年の早期修了という例外が設けられた。最初に博士号を授与されたのは「「尊厳死」言説の誕生」(大谷いづみ[2006])。大谷には[2010]等、「(生)死の教育」を批判的に検討した論文多数、編著に玉井・大谷編[2011]。そして大谷は立命館大学の教員になり、『生存学』創刊号の座談会にも参加し(p.231)、センターの運営委員を務めることになった。
 博士論文が出て、書籍になった最初のものは『臨床場面のポリティクス――精神障害をめぐるミクロとマクロのツール』(吉村夕里[2009])。その後、『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(定藤邦子[2011]→本書第1章1)。『技術からみた日本衛生行政史』(横田陽子[2011])。『ガブリエル・タルド――贈与とアソシアシオンの体制へ』(中倉智徳[2011])。『若者の労働運動――「働かせろ」と「働かないぞ」の社会学』(橋口昌治[2011])、その橋口の共著に、『税を直す』(立岩・橋口・村上[2009])、『<働く>ときの完全装備――15歳から学ぶ労働者の権利』(橋口・肥下・伊田[2010])。『トランスナショナル・フィリピン人の民族誌』(永田貴聖[2011])。『主婦と労働のもつれ――その争点と運動』(村上潔[2012])、村上の共著に『家族性分業論前哨』(立岩・村上潔[2011])。『受精卵診断と出生前診断――その導入をめぐる争いの現代史』(利光恵子[2012])、利光には他に書籍の分担執筆として利光[1998]等(cf.本書第4章2)。『情報福祉論の新展開――視覚障害者用アシスティブ・テクノロジーの理論と応用』(韓星民(ハン・スンミン)[2012])。『老年者控除廃止と医療保険制度改革――国保料(税)「旧ただし書き方式」の検証』(牧昌子[2012])。『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』(有吉玲子[2013]→本書第1章1)。『日本における作業療法の現代史――対象者の「存在を肯定する」作業療法学の構築に向けて』(田島明子[2013])、田島の他の著書に『障害受容再考』(田島[2009])、編書に『「存在を肯定する」作業療法へのまなざし――なぜ「作業は人を元気にする!」のか』(田島編[2014])。『家庭奉仕員・ホームヘルパーの現代史――社会福祉サービスとしての在宅介護労働の変遷』(渋谷光美[2014]→本書第1章3)。『どんなムチャぶりにも、いつも笑顔で?!――日雇い派遣のケータイ販売イベントコンパニオンという労働』(田中慶子[2014])。『沖縄闘争の時代1960/70――分断を乗り越える思想と実践』(大野[2014])、大野の同年の共編書に『戦後史再考――「歴史の裂け目」をとらえる』(西川・番匠・大野編[2014])。『日本の血友病者の歴史――他者歓待・社会参加・抗議運動』(北村健太郎[2014])。『顧みられない熱帯病と国際協力――ブルーリ潰瘍支援における小規模NGOのアプローチ』(新山智基[2014])、新山の他の著書に『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動――生存の視座から』(新山[2011]。『死産児になる――フランスから読み解く「死にゆく胎児」と生命倫理』(山本由美子[2015])。『人工授精の近代――戦後の「家族」と医療・技術』(由井秀樹[2015])。『フランスの生命倫理法――生殖医療の用いられ方』(小門穂[2015])。そして、今年は『戦後日中関係と同窓会』(佐藤量[2016])が刊行され、『移植と家族――生体肝移植ドナーのその後』(一宮茂子[2016])、『性同一性障害からトランスジェンダーへ』(吉野靫[2016]、仮題)が刊行される。
 次に、先端研在学中あるいは在学前に出た本がある。博士論文「聴覚障害児医療の再検討」(上農[2009])を書いた上野正剛の入学前の著書に『たったひとりのクレオール――聴覚障害児教育における言語論と障害認識』(上農[2003])。博士予備論文(後期課程には進まなかったので、別に審査した上で修士論文とされた)がもとになった本に『「労動」の哲学――人を労働させる権力について』(濱本真男[2011])。在学中に出版されたものとして、本書第3章3でも取り上げられた櫻井悟史の『死刑執行人の日本史――歴史社会学からの接近』(櫻井[2011]、博士論文は櫻井[2013a]。そして天畠大輔の前期課程入学とほぼ同時に出た書籍に『声に出さないあ・か・さ・た・な――世界にたった一つのコミュニケーション』(天畠[2012])。前記した田島[2009]も在学中の刊行。櫻井・田島の本は博士予備論文が下敷きになっている。さらに、本書第2章1で川口[2011]が取り上げられた川口有美子の『逝かない身体――ALS的日常を生きる』(川口[2009])、博士論文は川口[2013]、共編著に小長谷・川口編[2009][2016]、対談集に川口[2014]。三輪芳子[2013]は後出。そして、医師早川一光へのインタビューと早川の文章と、早川の娘でありこちらの院生でもあって早川たちの活動を研究してきた西沢いづみの論文を収録した『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』(早川・立岩・西沢[2015])がある。
 そして、その研究科の修了者である人もでない人もいるが(以下では修了者は齊藤拓)「拠点」や「センター」の研究員等を勤めた人の著作として、『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』(立岩・齊藤拓[2010])。『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』(野崎泰伸[2011])、その後の著書に『「共倒れ」社会を超えて――生の無条件の肯定へ!』(野崎[2015])。『差異と平等――障害とケア/有償と無償』(立岩・堀田義太郎[2012])。『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』(立岩・有馬斉[2012])。『新印象派のプラグマティズム――労働・衛生・医療』(加藤有希子[2012])。『フーコーの闘争――〈統治する主体〉の誕生』(箱田徹[2013])。『障害学のアイデンティティ――日本における障害者運動の歴史から』(堀智久[2014])。
 私(立岩)はこれらのいくつかで共著者として加わっているが、そうした形とまた別に、天田城介(現在は中央大学教員)が2冊の共編書を出している。既に名前の出た人たちが編者・著者に加わったもので、『差異の繋争点――現代の差別を読み解く』(天田城介・村上潔・北村健太郎編[2012])、そして『体制の歴史――時代の線を引きなおす』(天田・角崎洋平・櫻井悟史編[2013])。後に列挙する「センター報告」の編者の多くも大学院の修了者や大学院生が務めている。
 これで50冊ほどになる。このごろの大学院生は、研究職に就きたいなら博士号をとるのは当たり前で、そしてそれを本にしとくぐらいした方がよいという風潮も影響はしているのだろう。また、国・大学・研究科等の出版助成が利用できたことも、最近は(大学→研究科の方は)厳しくなっているのだが、関わってはいる。もうすこし手間をかけた方がよかったと(私は)思うものもあるのだが、急がされるのがこのところの「流れ」になっている。
 そしてそうした処世術とあまり関係なく、とにかく一つ、一冊書きたくて、書かれねばならなくて、書かれたものがある。本書第1章であげられた本にもそんな本があり、第4章でその文章が引かれている利光惠子の本もそんな本だと思う。(私はその著者の名前を、こちらの大学院に来る前から、「優生思想を問うネットワーク」のメンバーの一人として存じあげていた。入学志願者に名前を見つけて驚いた記憶がある。)他にも何冊かそんな本がある。
 本が売れないと言われて久しく、実際そのとおりなのだが、このことはむしろ、その自転車操業的出版業界において、費用の一部負担など一定の条件を満たす本については、利が薄くても部数を少なくしても出版する方向で対応してくれるという動きにもつながっている。自費出版という手もあるが、その場合には多く、実質的な助言を得ることはない。どうせ本にするなら、人の意見を入れ、そして註や文献をきちんと記載した本にした方がよい。博士論文というものには、面倒な制約もあるが、いちいち証拠・出典をきちんと記載するなど、合理的なところもある。こうした方法を習得するだけでも博士課程で苦労する意義はある。

5 生存学奨励賞
 以上はセンターそして研究科という場の「関係者」のものだ。しかしそれに限ったのは、そんな条件でも付さないと、収拾がつかなくなるというだけのことである。どこまでその範囲か、そんなことはどうでもよく、ただやってよいこと、やるべきことがあるし、そのために、人がある濃度で関係したり、文字などが集まる場所が最低一つはあってよい。それだけだと述べた。
 そんな場合に、その名前を「かたった」(語った・騙った)賞というのはどういう位置づけなるのか。あまり深刻には考えず、賞をもらうのはたぶんうれしいことだろうし、少しは本の宣伝にもなるかもしれないし、他方でこちらで(も)やっていることが知られるかもしれないということで、2015年からセンターに「生存学奨励賞」というものを設けることになった。
 その初めての年にその生存学奨励賞に選ばれたのは、磯野真穂の『なぜふつうに食べられないのか――拒食と過食の文化人類学』(磯野[2015])。
 なにか一つの評価基準で順位をつけるといったことも難しく、審査委員の意見はたいへん見事に分かれ、応募したものの多くは、どれが選ばれても不思議でない情勢であったのだが、その混沌とした状況を収拾すべく、ということもあり、奨励賞に加えて「審査員特別賞」として2冊、戸田美佳子『越境する障害者 アフリカ熱帯林に暮らす障害者の民族誌』(戸田[2015])、山本美佳子『死産児になる――フランスから読み解く「死にゆく胎児」と生命倫理』(山本[2015])が選ばれた。「生存学 奨励賞」で検索していただくと、各々についての評も読める。私はそれらを読んでみて、ものを書いていくという時にどんな道筋は行き止まりになり、どこならその先があるのか、そのことをまた考えてしまった。そんな気持ちで、総評らしくない総評は私が書いた。
 この賞、しばらくは続くだろうと思う。第2回の募集がそのうち始まるだろうから、もらえるものはもらおうという人は応募してください。

 
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 ■2 両方・複数がいて考えられる

なおりたい/そのままでいい
 まず、ただ本を年の順に並べたが、序章(p.17)で、人々が一定の数ぼつぼつと集まってきたこと、しかも違う人が集まっていることに意味があると述べた。以下、このことに関わって、さきとあまり重複しないように、書かれたものを並べながら、いくつかその実例をあげていく。数が多くなりすぎるので、博士論文のもとになった論文はほぼすべて略す。また以下に出てくるのはほぼ筆者(立岩)が関わった人たちに限られることをお断りしておく。
 障害がある身体には手をつけず、社会が補えばよいというのが、ごく単純化した障害学の主張だと述べた。ただこれはむしろ少数派の主張であって、だからこそ意義があるのでもあるのだが、いったん驚き、そしてその意義を認めたうえで、やはりなおりたいことはあるし、それは不当なことではないようにも思われる。そう言えば、それはそうだと障害学者も障害者運動家も答えるだろう。例えば病人はなおりたいだろうし、それはもっともだ、しかし私たちは病人ではない、障害者だといったことを言う。しかしその病気と障害はどこがどう異なっているのか。そして近年は――と言ってももう長いこと――専門家の方から「障害受容」を勧められることがある。これももっともであるととにも怪しげでもある(cf.田島★[2009])。例えばそんなことを考えていくという方向がある。
 最近「生存学」を紹介するインタビューで「全部ひっくるめて考えたときに、治る/治すことはいいことなのだろうか、明日にでも治りたいという人もいれば、ひとまずはこのままでいいやという人もいる――そういうあわいというか境といったものをちゃんと考えましょうというのが「生存学」のスタンスです」といったことを語っているのだが(立岩[2016])、そういう部分こそおもしろいと思う。それを一人で考えてもよいのだが、実際になおりたい人たちとそれほとでもない人たちがいるから、その人たちやその人たちが言っていることを調べてみるという手もある。
 例えば、「聾文化」という言葉は一部の人に知られている。その立場からは、聞こえるようになろうとすることはそこから離脱しようという行ないであるともされる。「手話は言語である」という主張は知られている――日本語の語順他をなぞった「シムコム」と呼ばれる種類のものではなく、聾者たちの間で使われる独自の文法他の構造をもつ日本手話がある――が、その日本手話による教育を行なうフリースクール「龍の子学園」の活動が始まりそして「明晴学園」という学校になった経緯、そこで起こったことを調査して論文を書いているクァク・ジョンナン★がいる(博士論文は準備中、既発表の論文にクァク[2014][2015][2016])。他方に、クァクと、そして聾者でもある甲斐更紗★(センターの研究員を務めた、甲斐[2013][2015])と時々極小の勉強会をしてきた田中多賀子★は、その息子が人工内耳を初期に使い始めた人でもあり、日本で人工内耳が普及してきた経緯を調べている(田中[2013])。
 また植村要★は、粘膜他を冒される――薬の副反応が主な要因だと言われる――スティーブンス・ジョンソン症候群(SJS)で失明した人なのだが、この同じ障害で視力回復の手術を選んだ人に、その前のこと、決めたときのこと、その後のことを聞いた。そのままで暮らしている人にも聞いた。そして「視力回復手術を受けたスティーブンス・ジョンソン症候群による中途失明者のナラティブにおける「治療」についての障害学的研究――当事者性を活用したインタビュー調査から」(植村[2014])という長い題の博士論文にした。結局、どちらにもはっきとは落ち着かないという、当初の彼の感覚とそう違わない話になった。しかしその「どちらとも(簡単には)言えない」ということを説得的に言えれば、それはそれで意味がある。答が出ない条件を一定の精度で示すという論文には存在価値があるということだ。
 またやはり自身が脊髄損傷者でもある坂井めぐみ★が研究しているのは、脊髄損傷の人たちとその団体とその活動なのだが(坂井[2013][2014])、その一つ「日本せきずい基金」は脊髄損傷がなおるようになるための基金である。事故である日突然障害者になるという事情もあり、多くの人はなおることを強く望む。しかしその上で、変な(なおらない、危険な)なおし方を受けいれるわけにはいかないということはある。そしてなおらない間は、障害者として必要なものを得ようとする。そうしたまずはまっとうと思える動き――というのは、ひたすら治療法を求めだんだん暗くなっていくといった、バランスを欠いている活動、組織もあるということだ――他を追っている。
 さらに、さきに近刊を予告した吉野靫★――博士論文(吉野[2013])提出後の、本が出る手前の論文に吉野[2015]――は、「性同一性障害」とそれを巡る医療・制度について書いてきた。手術の技術や前後の対応の拙さが表に出にくいその事情を吉野は明らかにする。さらに、吉野は身体を変えることを否定しないのだが、「きちんと」変えないと戸籍上の性別が移動しないという仕組みを問い、どちらかにすっきり変えるように定めてしまうのはおかしいと主張する。
 そしてこの問題・主題は、当然、精神疾患・障害、発達障害にも関わる。補章4の最後でその方面の研究・研究者を紹介する。(関連する拙文にTateiwa[2011]、他に『造反有利』★『自閉症連続体の時代』★等に関連する記述あり。)
 そして注記。この補章2の次の項から、すこし話がややこしくなっているかもしれない。まず飛ばして3(p.203)に進んでもらってもよいかと思う。

語らなくてすむこと・埋没すること
 肯定する/しない、受容する/しないことと関係しながら、自ら(たち)をまた他者(たち)を取り出すこと、自分(たち)とそうでない人(たち)の間に境界線を引くという営みがある。前節最後の吉野の議論が既にそのことに関わるものだった。
 一方に「語る」ことをわりあい肯定的に語る人たちがいる。そしてそうして自己を語ることがその自己を固定化してしまうといった指摘を受けると、今度は「語り直し」が言われるなどする。実際そんなことは様々あろうし、あった方がよいこと、それで楽になることもあるだろう。
 ただ、そう簡単でないとも思われる。(普通の意味における)身体にも変えられる部分とそうでもない部分、物理的には可能だが、ためらわれる部分もある。すると例えば記憶はどんなものだろう。不如意なものでもある。すくなくとも自在になるものだとは言えない。
 自分を規定する、差異化する、探す、そうした営みを心理に即して見ていくというやり方もあるだろう。ただ、それを必要とさせたり、促したり、容易にしたり、困難にしたりする要因・条件があったりなかったりする。それは何なのだろう、そこにどんな事情があるのだろうと問うことができる。
 自らを探求し、それが見つからなくとも、探求の営みを続けるということがよいことであるという、なにかしらの信仰が学の伝統にもあるように感じられることがある。それが気になっているのが山口真紀だ。論文に山口[2009][2011]等がある。そして、このことを巡る信仰の違いとでもいったものが現れたのは、アーサー・フランクを招いてのシンポジウムの時のことだった(→生存学研究センター報告5、有馬・天田編[2009])。通訳の問題もあったのかしれしれないのだが、山口の「語らずにすむ世界に」という主張は、なかなか通じにくいようであった。
 山口の主張は、煎じつめれば、よく言われることを単純に裏返しにした主張である。その単純な主張をしたらよいと思う。ただそれ自体は、一言言えばすむことであるかもしれない。その手前で、なぜ語ったり証したりすることが必要とされるのかを問うていくという道がある。
 探し、語ろうとするそのこと自体がよいことであるとされているから、というのが一つの答だ。そしてその「探求」は、帰属であるとか属性であるとかそんなものを離れたところに「私」を置く、そうした自由な私という方向に行くのがよいという立場からも言われる。
 しかし、それもまた窮屈な営みであるかもしれない。もう一方に、集合性、所属・帰属というものに包まれてある人間という捉え方があって、そこからも、私や私たちの存在のあり方が言われる。第3章1の安部彰の文章をそのようなところから読むこともできる。
 普通に「個人」「主体性」を言い、それに「共同性」が対置され、さらに双方を越えた「ポスト」の主張がある。個性そして/あるいは集合性の主張は外圧に抗する場合に強くなる傾向はあるだろう。それは抵抗の拠点となる。そのことはわかった上で、その危うさが言われてきた。石田の文章(第2章2)もそんなことに関わるのだが、線引きし、規定し、意味づけることによって分断を作り出し、支配や従属を作り出し、統治を維持することが指摘された。そんなことがあるのも事実そのとおりで、取り下げる必要はない。アイデンティティなどを平和に語っている領域と異なり、そんなに素朴でない(と自らを思う)学の流れは、おおむね「脱」を志向するものになる。これは、「思想」が自働的に進んで行ってしまう道筋であるかもしれない。そうした議論の布置を追っていくという研究も、あまりここではなされていないが、あることはある。ただ、図式そのものはほぼ固定しているようにも見える(cf.立岩[2004:chap.6]「世界にあるものの配置」)。
 あえてもっと普通に考えてもよいかもしれない。例えば適度な愛国心などは人を幸福にする。私ではないが私たちのなかの誰かがよいことをすると、それは私にとって誇らしいということはある。他方、負けても――真面目に没入してしまいひどく傷まって自分自身も危うくする人もいるのだが――自分自身が負けた時ほどには気にしないですむということもあるかもしれない。横浜ファンのような人たちがいて、勝てばうれしいが、負けてもそれなりに愛し続ける。これはなかなか得な処世術かもしれない。
 加えておくと、このように考えていくことは、帰属といったもののよさ、「神聖さ」を脱色する方向にも作用しうる。どんな時に、どんな事情で、人は何かに入れ込んだり脱したりしようとするのかと問うてみてもよい。

しかし取り出され・証すことを求められる
 こうして私たちは、私は私であると思ったり言ったり、連〓ルビ:つる〓んだりすることがある。そして、名指すこと、示すことにまつわるもっと「現実的」な事情がある。人々・社会の対処を求めるために、みずからがそうして対処されるべき対象であることを証さねばならず、そして認めてほしいのに認められないということがある。また他人たちが人々のある範囲を囲い込むことがある。そして両者は時に別のことではない。
 大野真由子は、研究者としては自らが「複合性局所疼痛症候群(CRPS)」の人であることを言わずに論文を書いたが、始終とても強い身体の痛みととも生きることになる――前々項の続きで言えば、そのままでいればよい、とはとても言えそうにない――その病そして/あるいは障害を有する本人だった。大野は痛みに関わる種々の困難を記録し、それが社会的支援の対象にならないことの問題を取り出し、博士論文「複合性局所疼痛症候群患者の支援に関する一考察――認められない」病いの現状と課題」(大野[2012])を書き、その後、韓国での「障害学国際セミナー2012」で「慢性疼痛と「障害」認定をめぐる課題」を報告し、それは大野[2013]になった。
 自分が支援の対象であることを示さねばならないこと、しかもただ自分が語ったのでは信用されず、「客観的」な証拠を求められ、そしてそれがないとされる。「難病」に認定されず、制度が使えない。問題はこんな具合になっている。それに対して、たしかに足がないとか手がないとかいうレベルではないが、その痛みと生活上の障害とを示す方法・基準があるのだと返す手もある。それは現実的な対応だろう。その際、実際に障害と認めている事例があると心強いし、役に立つ。大野は、専門家の協力も得てそうした主張を行ない、一定の政策的対応がとられている韓国や米国の事情やそこの患者会について調べて報告した。
 ただ、まずは考えるだけなら、本人の申告だけでかまわないのではないかといった、もっと極端な立場を取ることができるかもしれない。つまり、支給するためには測れないとならないと言われるのに対して、ほんとうにそうかと正面から問うてみるという手もある(cf.立岩・堀田[2012:32ff.])
 ただ、大野は2014年3月にクモ膜下出血で急逝し、議論を続けることはできなかった。その死を皆が悼んだ。だが大野が書いたものは残り、HPでそれを見た人たちから時々連絡をいただくことがある。それは日本でも患者会を作れないかと考えている人によるものであったりする。さきに述べたこと、構造的に不利な立場にいる本人たちにせめて情報ぐらい提供すること、切れている回路を繋ぐことを手伝うという仕事の一端を、大学という、知に関わって恒常的に存在する組織が担う可能性が現にないわけではないことを思う。
 わかること、わからせることは必要か。何も問わない、言わなくてすむという状態をすくなくとも思考する際の一つの極として立てることによって、こんなことを考えることができる。なぜどんな場合に、知ったり測ったり区別したりすることが必要なのかという問いが立つ。
 イム・ドクヨン(林徳栄)は韓国のホームレスを巡る歴史を辿った優れた博士論文「「韓国におけるホームレス歴史研究――政策カテゴリーとしての「浮浪児・人」から「露宿人等」まで」(イム[2015])を書いた(その後イム[2016])。それが大野真由子のCRPSの研究とどんな関係があると思うだろう。ただ、この二つを並べて見い出せるものはある。イムは、戦後の各時期にどんな人たちがホームレスになりやすかったのかというその経緯とともに、為政者の側がその時々にどんな人を取り締まり〜保護の対象にしてきたかを追って、それぞれの時になされたことを記していった。そうして取り締まられた人たちは、たしかに他人たちから取り締まりの対象にされたのだが、包摂と排除はときに別々のことではない。日本のことを振り返ってもそうだ。ハンセン病や結核の人たちが取り出され、取り締まられた。そして、取り締まれた後、閉じられた環境の中での生活を営むことになった。むろんその人たちはその処遇に反発し組織的な運動を起こしたが、例えば結核療養者のベッドに空きが多くなり、それを廃止しようという時には、それに対する入所者の反対運動が起こった。なにかであること、あることを示すことは、排除とともに救済を意味することがあり、この二つは時に別々のことではない。そこをどうしたらよいのか、どう考えたらよいのか。
 身体に痛みをもたらす病・障害とホームレスという一定しない範疇。独立した事象のように見える双方に関わることがある。複数のものがあることによって同じ問いがあることに気づく。そのことが次を考えさせることになる。

わけを知る、ことがもたらすこと
 以上は人のある状態に対して、社会が何かをする、本人が社会に何かをすることを求めるそんな場面に、その人が何であるか、何であるとされるかが関わってくるということだ。わかることが求められるもう一つは、原因を発見したり、特定したりすること、そのことによって本人の責任を問うたり、その原因に介入し手を打つことによって、問題を解決しようといった営みのなかにある。
 その営みの全体を否定することはまったくできないだろう。原因が究明され、それで(実際には原因がわからないままということも多いのだが)対処策がとられる。原因の究明・発見が有効・有益なことはいくらもある。そして原因がわかることは、ときに本人の免責にもつながることがある。また刑事的には免責されるとともに、強制処遇・強制医療の対象とされることにもなる。罪と罰、責任と免責を巡るこの大きな問題については、本書でも第3章3でその文章が引かれた櫻井悟史や、犯罪被害者の救済という流れの形成・変遷を追った大谷通高の博士論文(大谷[2014])があるにもかかわらず、これ以上ふれられない。ただ、その刑罰・行刑や犯罪(の「二次被害」からの救済)の歴史・現在を研究しようという人たちと、精神疾患によるとされる犯罪・再犯の可能性に依拠する司法的・医療的介入について考える人がいる(p.229)。やはり、両者いて、そこから見えてくるものがあるしれない。そんな場がなかなかない。法学が対応すればよいだろうか。しかしその学はもっと縁取りがしっかりした折り目の正しい学問であるために、なかなか難しいかもしれない。
 そして、この原因をあげ、その知見に基づいて介入することは単純な営みのようだが、実際に、そこそこ複雑なことも起こす。社会科学者は社会に問題・原因を見出すのが好みだが、それで問題が社会の問題となり、個人が実質的に免責されるかといえば、そうなるとも限らない。(このことに関わる拙著としては『自閉症連続体の時代』。)
 それを本書でコラムを書いている(p.111)藤原信行が示している。その博士論文は「日常生活世界における自殺動機付与活動の知識社会学――自死遺族らによる動機付与のポリティクスと常識知/専門知」(藤原[2010])――その後の論文に『生存学』3(特集「精神」)所収の藤原[2011]の他[2012a][2012b]。
 自殺の原因がうつ病であるとされ、病気であるとされ、その病気の原因は例えば過労に人を追い込む社会にあるとされる。それが間違いだというのではない。そしてそれは、そのまま受け取れば、本人の責任も家族の責任も解除するものである。しかし、健康を管理する、すくなくとも気遣うのは家族だとなると、その兆候を見逃したのは家族だということにもなる。また、社会に問題があるといっても、社会はすぐには直りようがないないので、自分が医者やカウンセラーにかかって気をつけたり、家族が気をつけさせたりということになる。だから必ずしも免責にはつながらない。自殺した人の遺族にインタビューを何年も続けるという調査ができていること自体すごいことだと思われるのだが、そこで明らかにされたことの一つがこのことだ。
 また本(田中[2014])になった田中慶子の博士論文は家電店で携帯電話のセールスをするコンパニオンの話なのだが、その前年に書いた所謂「電通過労死事件」を追い分析した論文(田中[2013])でもこのことが確認される。この裁判で初めて、過労がうつ病をもたらし、それが自殺の原因だとされた。たしかに企業の責任はここで認められた。しかしその後にできあがった構図は上述のものだった。
 示そうとする人、仕方なく示さねばならないと思う人、それが億劫だと思う人がいる。示すことが意図と異なる効果を生じさせること、それで迷惑を被る人がいること。ここでも、複数性と、一見意外にも見える繋がりがあることによって、自らの研究主題における、わかること、示すことの位置を考えていけることがある。

孤立が悪いわけではないが、そうもいかない時
 そして次に、同じものあるいは異質なものが交わることについて。「セルフヘルプ・グループ」についての研究は後出の白田幸治のもの以外まだ意外にここにはないから、後者について。
 まず、異質な他者との交流といったものはたいがいよきものとして語られるのだが、それはよいのか、必要なのか。
 趣味が違うのなら別々に暮らしていくというのは一つのあり方ではある。「孤立」はなにか否定的に捉えられることがあるが、そう決めてかかることはない。孤立主義はあらかじめ否定されるようなものではない。片山知哉が「ナショナリズム」を言うのにもそんなところがある(p.225、片山[2014])。仲良くすることがあらかじめよいことにされているが、つきあわないというやり方もあるということだ。そうした欲望も、ときにはその権利も認めた上でどう考えるのかということだろうと思う。分離主義も――それはどこにいる人が言うのか行なうのかで、例えば追い出したい人たちが言うのかそうでないのかで、まったくその意味が違ってくるのだが――ありうる。
 ただ、実際には接触してしまう。それは望まれるからであることもあるし、生活のため仕方なくということもある。そのときにどうするか。例えば言葉が異なるときにどう考えるか。
 言語や、行動の様式は、身体そのものではないとしても、身体に付着しているものであり、すくなくとも完全に自由になるものではない。そんな意味で物質的なものである。その自分(たち)のものが、別の方式・様式でやっている多数派との間でうまくいかないといった場合がある。
 まず、普通の技術で、また日々進歩している技術でかなりのことができる場合はある。視覚障害のある大学院生が複数いたこともあって作られ、センター報告として刊行された青木慎太郎編[2009]、作った2000部がなくなって増補して出した[2010]にその方法がまとめられている。また博士論文が本(韓[2012])になった韓星民(ハン・スンミン)の仕事もそんな方向の仕事だ。韓は韓国からやって来てもう日本での生活の方が長い人で、弱視の人だ。視覚障害の人のための機器を開発し販売する会社に勤め、博士論文を書き本を出した後、現在は日本の大学の教員をしている。そして堀田[2012](第4章1)もそうした技術の開発・変遷についての報告である。
 視覚障害などの場合になされてるのは、基本的には逐語的に字を点字にする、音声にするといったことだ。音声が出ない人がPCを使う場合も基本的には変わらない。ただそれだけですまない場合、すくなくともそのように思える場合がある。普通に上手な翻訳者・通訳者がいれば、あるいは機械・ソフトがあればそれでみなうまくゆくとは限らない。
 飯田奈美子は戦後中国で長く暮らした帰国者などの通訳の仕事に携わってきた。「コミニュティ通訳」と呼ばれる。役所での手続きや病院での診療などの場面で働く。一般に通訳は無色透明・中立の存在でありまたあるべきだとされる。しかしそれがこうした場面で通用するか、あるいは通用させるべきか。通訳は二者の間に入るのだが、その二者が対等でない場合がある。通訳者が透明で中立であろうとするとかえってその対等でない関係が維持されたり、拡大したりするかもしれない。ではどうしたらよいのか。通訳者と別に不利な人の側に立つ人がいればよいというのが一つの答ではある。しかし現実にそんなことがいつも可能なのか。また別の人である必要があるのかという問いもある。現にどうなっているか、どんな問題が生じているかを調べ、どうしたらよいかを考えることになる。飯田[2010][2012][2014])等で考え、博士論文にまとめようとしている。また訳書(Hale[2007=2014])がある。そして「翻訳学」について佐藤=ロスペアグ・渡部編[2010]がある。
 そして天畠大輔が考えているのも、ただの逐語通訳ではうまくないという場面だという意味では共通するところがある(天畠[2013]天畠・黒田[2014])。彼は、詳細は省くが、世界で一番障害の重い大学院生かもしれない。通訳者が「あかさたな」と唱え、本人が身体をおおざっぱに動かして例えば「さ行」を指示し、「さしすせそ」と唱える間に同じことをして例えば「す」を確定する。そんなわけで言葉の発信にひどく時間がかかる。それを一字一字拾っていくと手間がかかる。そこで「先読み」できる通訳者がいるとよいということになる。とすると、発話者の「主体性」というのはどれほどのものになるのか。例えば――というのは、視覚障害があって身体が細かに動かない天畠の問題は発話の速度の問題だけではないと私には思えるからだ――そんなことを天畠は考えている。そして飯田が考えているものと天畠が考えていることと共通するところもあるが違うところもあるはすだ。どこが違うのかを考えることは、自分が何を考えるかをわかるために有益なことがある。
 そして、補助技術に関わる費用の問題、通訳等交信を可能にするための手間・負担の問題がある。「障害」が固定されたものであるとするなら、そのことに関わって生じている不利についての費用が社会的に負担されるべきであると主張するのはまず理屈としては素直に言えるだろう。ただ、それはそれとして、実際のところはどうなのかを見ておく必要はある→第3章2。
 かつて西川長夫――西川は研究科開設時からの教員で、退任後、2013年に亡くなった――は多文化主義など言うだけならいくらでも言えると、しかしまじめに実際にやるとなったら違うことを述べた。「文化はあいまいな概念であるから、多文化主義を唱えることは容易である。それはたいして我身にかかってこない。だがひとたび多文化主義の必然的な帰結である多言語主義が導入されれば、事態は急変する。多文化主義を受けいれながら多言語主義を拒否する理由の説明は、いままで私の知りえた限りでは、経済的効率のみである。それは妥協によって成立つ現実政治の観点からは説得的な理由である。では、文化的多様性を認め、それぞれの文化的自立と共存を積極的に推し進めようとする多文化主義は、経済的な効率によって左右されるような性質のものであろうか。そこには論理的あいまいさが残されており、その理論的なあいまいさにあえて立ち入ろうとしない姿勢がうかがわれるのである。」(西川[1997:17])
 「母語」と異なる多数派の言葉を習得(すること/させること)がまったく不可能とも言えない場合がある。見えない人に墨字は明らかに無理だが、他方には習得が可能な場合もある。私たちは「同化主義」というものがそう単純に否定されないものであることも踏まえておく必要がある。その主義者たちは、多数派の様式を取り入れた方が有利に楽に暮らしていくことができると述べる。それはまるきり非現実的なことというわけではない。実際(かなり)うまくいくこともある。それでも同化主義を受け入れない、受け入れられないとすればそれはどうしてか。こんな問いがある。(拙稿に「多言語問題覚書」がある。改稿の上、どこかに収録する。)
 後でもすこし紹介するが、梁陽日(ヤン・ヤンイル)は大阪の民族学級について書いている。そこには、政治的な種々の対立が絡み、たいへん複雑で厄介なことが起こった。その複雑怪奇さとともに、弾圧された、にもかかわらずがんばって維持してきた。それが書ければまったくよい、それを十全に書くことが十分な学的達成になると私は考える。そのことを後でも述べる。梁の論文に同化主義を巡る理論的議論がある必要はない。しかし読み手としては、この問いの存在はわかっていて、それで梁の研究成果をどのように読むかと考える、そのような読み方があるということである。
 さらに、差異が気にされる場とされない場とがあるという、これも考えてみればごく当たり前のことを考えてみてもよい。例えば、仕事さえできればよいという場では、それ以外のものは気にされないはずである。市場ではそんなことが起こりやすい。工程・販売の過程がいろいろに分かれていて商品の背後にいる人が見えない、見えなくてよい場合もある。ならばその人の(仕事の遂行能力以外の)属性は気にされないはずだ。
 ただ、杉原努の博士論文(杉原[2010])にも出てくる米国的障害者差別禁止法は、「当該の職務に本質的である能力以外のもの」で差別することを「禁ずる」という仕組みものだが、気にされないなら禁止される必要もないではないか。そんな疑問も生じるかもしれない。それに対する答はとりあえずは簡単で、例えば車いす対応の職場にするとか、費用が余計にかかる人は避けられてしまうというものだ。そこでそうして避けることを禁じ、費用を雇い主にもたせるというのが一つの案になる。しかしそれでうまくいくか。他に(も)手はないかと問いは続く。
 そうすると、ずいぶんのことが言われてきたはずの差別という事象・問題についてもまだ考えてよいことがあることがわかる。そして、とにかく社会は一様に構成されてはいない。いくつもの領域がある。そのことを考えにいれて考える必要もある。すると、社会が分かれているその分かれ方に応じて学問が分かれているというのは、便利そうでかえって不都合であることがわかる。経済学の中で差別を考えるより、差別を考える時、あるいは差別されずに生きることを考える時に、経済学を(経済学も)使った方がよさそうだ。
 以上、何種類か、一見関係がなさそうに見えても、考えていくと関係があること、そのことに気づくことによって、自らの主題をさらに深め展開させていける場合があることを述べた。次に、一定の数の「業績」が集まって、それによって何かが言えるということがある。次節でその例をあげる。

 
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 ■3 穴があいているので埋める・塊を作る

ケア場
 「ケア」は、とくに近年、例外的に研究が様々あった領域だった。だからそこは他にすっかりまかせておいてよかった数少ない部分だろうとも思える。ところが実際にはそんなことはまったくなかった。
 まず、ときに生ずる人的関係の極度の困難さを、その困難さに見合う濃度において書くことがなされてこなかった。『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史[2003]])は名著で、すこしばかり論文ぽい外装を施せば十分に博士論文にもなる本だが――というか、このごろ量産される博士論文の多くよりずっと優れている「ノンフィクション」本はとてもたくさんある――そこに出てくる、なかなかやっかいな人物である鹿野靖明(筋ジストロフィー)よ△204 り、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の中ある人たちの一時期、とくに急な進行期の人とはとてもやっかいな、こじれた関係ができることがある。それを諸般の事情で研究という以前に体験することになってしまった人たちがいて、『生存学』創刊号(→本書pp.231-232)に1〜4の続きものとして載ったのは、そこに巻き込まれた人たちの文章である。
 その後、長谷川唯はこの主題で博士論文「重度障害者の安定した地域生活構築のために――ALSの人の独居生活支援活動を通して」(長谷川[2012])を書いて、いましばらくは日本学術振興会特別研究員。この研究科としては異色の、建築学の修士号をとって(3年次=後期課程に)やってきた山本晋輔も、ALSの人たちの居住空間に関する博士論文「重度身体障害者の居住/住居――家族の支援がない2人のALSの人の支援を通して」(山本[2012])を書いて、現在は建築事務所で図面を引いているのだが、このごろ福祉関係の建物の設定にも関わっている。このできごとに最も長く深刻に関わり、受傷した西田美紀(看護師、アルバイト先のデイケアで偶々その厄介な人に遭遇することになった)は、その後もその厳しい体験を、それほど直接的なかたちでというわけではく、論文にしてきたが(西田[2010][2011][2013])、ゆえに博士論文にするまでに手間がかかっている(現在は大学病院の難病在宅支援室といったところで働いている)。福祉系の大学務めの酒井美和はALS協会の地方支部の活動に関わったこともある(酒井[2012])。
 そして、安孝淑(あん・ひょすく)がALSの母とともにソウルから日本にやってきた。論文として安[2012][2015]がある。私と同じ年齢で、学校にもしばしばやってきた母堂は日本で亡くなられ、その研究がその人に還元されることはない。ただこれは日韓(→東アジア)フォーラムを通してわかってきたことでもあるが、韓国の制度には、いくつか日本と似た経緯を辿ってきた部分もあり、また差異もある。そして、両国において(また台湾でも)生きられるようにしようとする力は「欧米」より大きい。相互に知り、比べ、本来は世界中で使えるはずの仕組みを示すことができるはずだ。
 この人たちの、学会報告等も含めればおびただしい数の論文・報告を、まずは読んでほしいと思う。これらで明らかにされるのは、葛藤の深さ、困難の大きさでもあり、それをすっかりなくすことなどどうがんばっても無理そ△304 うだということだが、同時に、どうにかならないわけではない部分が確実にあるということだ。
 その一つが、制度、とくに介助(介護)に関わる制度と、その制度を作り出し、また制度外でなされてきた実践を知り、それに与することだ。もう一つが、機能を果たしていない「相談支援」と今は呼ばれるものの機能を働かせることである。
 例えば前者について、ケアマネージャーや役所の担当者やら、知らない人たちにとくに悪意があるわけでなく、単純に、現在では「障害者総合支援法」に規定されている制度、とくにその中で「重度訪問介護事業」と呼ばれているものを知らないし、知らないから伝えないということがある。様々に在宅や訪問が大切だと説いている人たちがわかっていない。個々の人たちはよい人で熱心であったりもする。だが、あるいはよい人たちであるからこそ、その人たちの話をそのまま受けとり、こんなものかと思って、生きていくのは無理だとあきらめてしまう。そしてこの制度は、交渉しないと取れないし、役所が認めても、事業所がその事業を受けないならやはり使えない。
 そんな状況だから、研究は研究として継続しつつ、自分たちで「事業」をやった方がよいのではないかという話はずいぶん前からあったが、例えば日本学術振興会特別研究員というものになると研究専念義務というものが発生し、他の仕事を(基本的に)してならないということになっている等、諸般の事情でまだ実現はしていない。そしてそれはひとまず研究外の活動ということになる。だが、その事業・活動がどのように可能なのか、また現実になされているのかは、研究の課題となる。そしてそうした研究もまたこれまでほぼなされていない。それには幾つか要因があるが、その一つは、事業・事業所の内情が研究者に伝わっていないことだ。事業をしている人たち自身の方がその仕事・事業のことをよく知っている。実際に経営に関わっているから書けることもある。そして、その気になりさえすれば、自分たちのことならいくらも書けるということはある。
 既にNPO法人の理事長であったり、会社社長であったり、事業主として、あるいは働き手として、事業に関わっている、経営している人たちがいる。東京では前出の川口有美子が重度の所謂医療的ケアを必要とする人への介助者派遣会社「ケアサポートもも」を経営してきた。そして白杉眞が京都市内に自立生活センター(CIL)「スリーピース」を設立して運営している(白杉[2010][2011])。辻義宏は神戸市内で介助者派遣等の会社「小鳩」を経営している(辻[2015])。筋ジストロフィー病棟で非正規で働いている時そこでの処遇がよくないことに憤って研究を始めた伊藤佳世子が、いくつか論文も書いた(伊藤[2008][2010])ものの、そんな施設から出て暮らせるようにと千葉県で始めた事業があまりに忙しくなって、研究を(いったん)やめたのは残念なことだったが、事業をきちんと行なうことの方が論文など書くよりたぶん大切なのだから、仕方がない。(ただ、代わりに筆者は、伊藤が調べ始めた分野を書くことにはなってしまった。)
 そしてもちろん、経営できていること、経営において有能であることと、ものを書けることは、いつも相伴うものではない。それでも、なかなかに苦労しつつ、書いている人、書き始めている人がいる。その仕事がうまくいけば、知られてよく使われてよい制度がどうしたらもっと普通に使えるようになるか、この仕事をするところが増え普通に経営していけるようになるのか、それがわかるはずだ。そして、そうした事業と例えば訪問看護はどんな具合に仕事を分けたり、いっしょにやったりしていくのか。訪問看護を担うことによって新たに背負うことになった看護師の責任の問題を扱った論文(中西[2016])から研究を始めた中西京子の研究が寄与するところもあるだろう。
 それはまずは個々の組織についての研究となる。大きなお金を誰か教員がとってこないかぎり大がかりな調査は困難だ。そんなタイプの研究をする教員は今のところいない。ただ米国の大学院に長くいた小谷千明が、その国の組織、そして日本の組織(全国自立生活センター協議会=JIL)との協力関係のもとに多くの組織を対象とする調査を行なってきていて、その結果を使うことができる――そのデータを用いた北京での報告としてKotani[2015])。こうした多様な人たちが同じ組織に所属しなければならないということは、もちろんまったくないのだが、その場やそこにいる教員他の人が間をつないで生産力を上げることができることもある。
 なぜないのか、どうすればあるようになるのか。また、あるにはあるものがなぜ届かないのか、知らされないのか。金野大の本業は公務員だが、所謂医療的ケアを必要とする子がおり、そんなこともあって、そうした子たちが在宅で暮らせるための条件について調べようと研究を始めた。子が退院する時から何か役立つことを聞いたという記憶がなく、病院経由では使えるものもたいしてなく、それ以前に使えるものについて知ることも難しいことを感じて暮らしてきた。NICU(新生児集中治療管理室)からの早期離床、病院からの早期退院という方針は既定のものになりつつ、その後のことはほぼ気にかけられないということになった要因を探ろうと、まず、NICUが一杯でたらいまわしにされた妊婦が亡くなってしまったという事件(2008年)の後に立ち上げられた国の会議で何が問題とされたか(されなかったのか)を調べて論文にした(金野[2015])。
 とりわけ子どものことは、法律的にも面倒な複雑なことになっている。子ども用の法律(児童福祉法)が基本とされるとともに、医療が関わり福祉が関わり、家庭が関わり、施設や保育園や学校が関わって、その全体を把握し説明できる人はほとんどいないといった状態だ。それを集めて整理して知らせるのは研究者の義務ではないと思う。しかし他でなされていない。仕方がないから、人と時間をかけて集めていく必要がある。
 そしてそこここに穴が空いているのには理由があり、事情がある。それは序章でも述べたことに関わる。業界の人たちが自分たちの領分外のものを避けてきた、あるいはその取り分を巡って綱引きをしたり、あるいは譲り合いをしてきた、その経緯がある――その一端について『現代思想』での連載に記すことにした。所謂「医療的ケア」を巡る綱引きが長く続いて、実際には遅くとも1980年代にはなされていた(家族でない)介助者による痰の吸引等はすべきでないことと否定された、という以前にその事実自体が記されないといったことが起こった。また、「ソーシャルワーク」という言葉が廃れ気味になった間に用語として使われるようになった「相談支援」が機能してないことにも理由・事情ががある。その事情は、この補章の終わりに出てくる萩原浩史の仕事からも知らされるし、私もそれですこし勉強して『精神病院体制の終わり』に書いた。空いている所以がわかれば自動的にそこが埋まるわけではない。ただ、それでも知っておく意味はあるということだ。
 そしてここでは、一つひとつの機器・技術がどのように、誰に、使われるようになり、使われなくなっているのか、そのことを巡って何が言われてきたのか、診療報酬等、制度がどのように変わってきているのかを、いちいち、細かに見ていかねばならない。胃ろう(PEG)を巡って、仲口〔路子〕[2013]、杉島〔優子〕[2015a][2015b]――著者はいずれも看護学の研究者・教員――があるが、こうした研究がさらになされ、拡大される必要がある。

政策系
 それにしても、普通に社会保障だとか社会福祉だとか言われている領域は、社会政策学とか社会福祉学がやってくれている、はずである。かつてあまり研究者の層がなかった社会学でもこの種の領域の研究者が一定でてきている。よいことだと思う。それでも、すこし混んできたかなというぐらいではないだろうか。まだやっておいてよいことはたくさんあって、大学の教員用人材は過剰なのだが、研究している研究者は足りないといった具合だ。
 政府系の、審議会であるとかそんなものに名を連ねているような人が、これはわずかな数だが、おり、そこで決まったことを短くして伝えるといった仕事をしている人たちがいる。もちろんそれはそれで大切な仕事で、それが専業の人がいてもいっこうにかまわないのだが、他にもすることはある。他方に現在の動向に対する反対・批判勢力ももちろんいる。その人たちも必要だ。ただ、今はその批判の「型」もそうきちんとは伝承されていない面もありながら、それでも大方決まった筋で言われる。
 その型はいったん置いておいて、もっと言われてよいこと、その手前で調べられてよいことがある。そして、看板を立ててまわるのが私たちの仕事ではないのだから、それらをすることを社会福祉学だと言っても、福祉社会学だと言ってもよい。実際そんなところで仕事をしている人たちが多数いる。ただ、序章に述べたことを繰り返せば、人と人に差がないなら差をめぐってなにかする必要もない。だから「分配的正義」の問題を考えることは、最初からこの生存学なる企みの本体の重要な部分である。
 それは、大きくは「所得保障」と「社会サービス」という具合に分けられることがある。これがどのような理由で分けられるのかという理論的な問題もあって、それをついて述べたこともあるが、それはここでは略し、まず、前者の一部をなす年金、そのなかに障害基礎年金について。政策の本流からも少し離れ、そして定形的な批判からもこぼれる部分がいくらかあって、そしてそれが、ある人たちの生活にとってはそれなりに大きな部分を占めているということがある。障害基礎年金は1985年に始まったのだが、その時に生きてはいた者から見ても、なんとなくできてしまったという印象がある。これは厚生省のある部分と障害者運動のある部分がそのころ接触をもったというが一因ではあるらしいのだが、それだけとも考えられない。それを調べるといった仕事がある。高阪悌雄がそうしたところを追っている(高阪[2015][2016])。私たちが1980年代に行った厚労官僚(故人)へのインタビュー記録も使ってもらった。社会に起こっていることのたいがいはそうだが、結局どの要因がどれだけ作用しているかを特定することはできないだろう。それにしてもやっておけるところまでやっておく仕事はできる。
 そしてとくに公的扶助・生活保護は、本来は「王道」の主題のはずである。だがしばらくこの主題は社会福祉学のなかでもあまり流行らなかった。それが今般の(といってももう随分長い)社会状況のために盛んになってきた。貧困が当たり前のこの状況自体はよからぬことだが、研究は出てきている。だからここでは、どこを掘っても何を書いても新しいということにはならない。ただ、なされてよいことがなされていないところはある。この領域にかぎらず、全般に言えることとして、新しいことについての研究がなされていない。それはいくらかは当たり前でもある。近年のことについて、それより以前に研究のあるはずがない。しかしまだ新しいうちに取り上げて分析を加えておくことは、次の手を考えるためにも必要なことだ。そして、これもやはりこの領域に限らないのだが精度を上げることだ。この十年ほどの間に何が変わったか、どこが変わったのか。まだこれからだが、そんな仕事を続けていけば、まっとうなことが言えるはずだと思う。
 三輪芳子は(後期課程への)入学前、既に著書『生活保護リアル』(三輪[2013])のあった人だが、論文を書くのとはそれとは違う。かと言えば、基本的な違いはないと私は思う。審議会に通いつめるなど政策決定や支給・受給の現場をよく知っていることは、非常に有利に作用する。ただ、そこから印象的な事例を示しつつ、ことがらを大きく括るのが、売れる本にすることであれば、他方で、記述の精度・密度を上げていくという方向がある(三輪[2016])。たぶんそれは本にしても売れない。しかしやっておいた方がよいことではある。そして、中村亮太はつい数年前の、しかしもうよく覚えていない「バッシング」報道・騒動でまず一つ書いた(中村[2016])。やはりここでも、一つひとつのことを追って積んでいく仕事をしていく必要がある。

理論系
 他方、こうした仕事とまったく地続きだと思うのだが、「理論的」なことをやる人は、とくにこのごろ近くに多くない。より「勉強」ができる人はそういう人たち用の大学院に――本当にそういうものがこの国にあるのかどうか?――行ってしまうということなのかもしれず、残念でさびしいことだが、それを止める理由はなく、仕方のないことであるかもしれない。にもかかわらず、と言うべきか、新しい研究科のなかではわりあい「古手」の院生・修了者たちによっていくかの仕事がなされきた。そして井上彰(政治哲学)といった教員がいる布陣を見ても、ここは実はそんな仕事をするための環境として悪くない、狙い目のはずだ。そして「現場」を整理する道具をもっている人を現場系はほしいかもしれない。他方、現場には理論構築に使えるものはたくさんある。そんな意味でも、両方がいた方が本来は楽しい。加えると、「使える理論」をという前者の期待は、しばしばたいした理論がないためにかなえられないことがあるのに対して、むしろ、素材を使わせてもらうという後者の方が美味しい。だからまず片方でもと、私はそう考えているのだが、まだそのような幸福な関係はあまり生じていないように思う。
 さきにあげたいくつかの共著で仕事をした人がいる。「ベーシックインカム」については齊藤拓の博士論文(齊藤[2009])が巷にあるときに怪しいものとは異なる水準の達成としてある。いろいろと考えるところはある。ベーシックインカムは現実の社会における所得の格差に対する一つの対応であるが、そのある種の主張をそのままに受け取れば、個別の身体〜必要の差異に対しては一律の給付で対応しようするものだとされることがある。それでよいか。そうではないと、このアイディアの首謀者の一人である人自身が、齊藤が訳したその本(Van Parijs[1995=2009])で述べている。さてその理屈を採用してよいか。私はよくないと思ったから、そのことを記したことがある(立岩・齊藤[2010:147ff.])。そんな理論的な仕事がある。そしてそれは、政治哲学者が身体や身体の差異をどのように扱おうしているか、(そして私の考えでは)失敗しているかを確認する作業でもあり、そしてそれは先に述べたこと、例えば身体の痛みを示さねばならないという要求にどう応えるのかといった問題に直結するのでもある。
 またそのベーシックインカム論者(のある型の人たち)は労働政策を認めない。例えば最低賃金を認めない人たちがいる。所得政策だけでよいとする。そしてその主張はたんに乱暴なだけではなく、それなりの理由がある。では労働政策は否定されるか。そんなことはないと思うなら、そのわけを言うことになる。そして現になされている労働政策はそれでよいか。そんなことを考える仕事がある。さきに名前と書名をあげた橋口昌治の仕事があり、小林勇人の博士論文(小林[2008])とその後の仕事がある。そうした人たちが今はこちらに多くない。他にいればそれでよいのだが、どうなのだろう。どこででもよいからもっと仕事してくれたらよいのと思う。

代行者に権限が行く場合
 差異について、名乗ること、名乗らねばならないこと、このことと保障すること補償することとは大きく関わる。それが気にいらないなら無条件にというのでよいように思われる。しかしそれでは結局差異に対応できないというのが一つの問題だ。このことを述べた。
 その問題が差別への対応の場面で生ずる。その博士論文(矢野[2015])において矢野亮が丹念に行ったその記述から見えてくるのは、それを巡る争い、問題の難しさでもある。また山本崇記の博士論文(山本[2009])他の仕事もそのような方向に読んでいくことができる。
 ここまで種々の研究に隙間が開いていること、穴が開いていることを述べてきたのだが、部落差別に関わる領域については例外的に研究が厚く蓄積されてきた。完全な素人である私に言えることはほとんどない。ただ、前項に述べたことに関係する問題があること、現に生じていることは言える。
 差別を解消しようと言う。すると普通は誰が被差別者かその特定から始まることになる。しかし、部落差別は名指されることにおいて現れてくるようなできごとでもある。すると誰が被差別者だと誰が決めるか。個別に指定することが問題であれば、被差別者側に委託し、そこが代表して受け取り、それを分けるというやり方は合理的な方法ではある。というか他のやり方をなかなか思いつかない。するとそこには権限が生じるし、権益が発生する。それは「取り合い」の世界にもなる。それは好ましくない結果も生じさせうる。その実際のところを知り、ではどのように考えるかという課題がある。
 一つだけのものを記述する。その場において様々な力が働いてる。たんに今まで気づかなかったり、語る人がいなかったり、あるいは作為があり利害が働いて、見えなくなっている部分がある。それで取り出して丹念に記述する。それはそれとして意味がある。それを十分に書けたらそれだけでよいとも思う。しかしそれはただ特殊なことであるのか。そうではないはずだ。すくなくともそれだけではないことがある。個別の複雑なできごとをなにかの筋で捉えることもできる。それは実は多く基本的な問題に接合する。事件の記述が、ごく基本的な問題を考えさせてることにつながる。いろいろな人の仕事を見ているとそのように感じることがある。

福祉労働についても
 あってよい研究がないと言ってきたが、高齢者福祉、その関係の労働についてならいくらでもあるように思える。しかしここでも、現在を歴史的・政治的に見ることが必要で、それが意外なほどなされていない。
 本書では渋谷光美の著書の一部が引かれた(第1章3)。ホームヘルパーの常勤化闘争があった。その苦難の歴史が描かれた。そうした業績があるからこそ、それに加えて、全体を、それもそれほど大仰なことではなく、例えば、まずは1970年代・1980年代あたりからでもかまわない、何が起こってきたのか。いくつかの業績がようやく出ているが、まだすべきことはある。
 教科書の類には自治体の家庭奉仕員派遣事業は長野県で始まったと書いてあるのだが、佐草智久はそれより早い京都他での始まり、その時の様子を明らかにした(佐草[2015a][2015b])。それ自体価値のある研究だが、そこで言われているのは、介護される対象が貧窮者に限られていたこととともに、この事業そのものが戦争未亡人といった貧窮者対策の性格をもっていたということである。そしてこれは公的な施策だが、それと別に家政婦がおり、やがて廃止される病院の付添婦がおり、そうした人たちを供給する会社もあった。そして80年代になると、「有償ボランティア」と呼ばれた人たちやそのその人たちの組織がいっときずいぶんもてはやされた。その人たちの多くは専業主婦で、金と時間がある程度あり、仕事をし、いくらかを受け取った。
 こうした複数の流れがどのように連続し、そして途絶え、現在に至ったのか。まず常勤化を目指したがそれが果たせなかった人たちが、非常勤の仕事としてする人になったという部分もあるが、それは数的には多くない。有償ボランティアができた層が担っているのでもない――とすると、しばらく有償ボンティアが期待されたがあきらめられたということか、それともそうではないのかという問いも立つ。他方、民間の派遣所で働いていた人が移ってきた部分はかなりあるようだ。そして、シングルマザーをしながらシングルマザー研究をしている谷村ひとみは、資格が比較的簡単にとれる仕事として(ちなみにさきに記した介護保険外の制度の場合は、資格なしでもできなくはない)、そして長く続けられる仕事として多くの人がこの業種に就くこと、その職にたどり着くにあたっての経緯を記している(谷村[2013])。シングルでない人もたくさんいる。そうわりがよくはないが、多く働けばそれで食べていけないことはない仕事、空いている時間を使いいくらかを稼ぐ仕事としている人がいる。一筋縄で行かないことは明らかだが、そこにどんな筋を見出すことができるか。それが佐草(たち)の仕事になるかもしれない。
 私は、この高齢者介護〜介護保険という「本流」の方についての知識はない。「障害者関係」――といっても高齢者も障害者だから介助が必要なのだが――同性による介助を原則とするから男性も多く、学生も含め比較的に若い人たちが多い介助者の世界、その利用者の世界のことをすこし知っている。それと比較対照したときに何かが見えるのか、それもまだわからない。ただ事実として、まず一つ、端的に言えば公務員として派遣されるヘルパーを嫌った人たちを知っている。そして、専門性を言って自らを正当化する、そのものの言い方はそう主張する人自身にとってもよくないと考えてきた。むろんそれは、その仕事に熟練を要する部分があることを否定するものではない。さらに、公務員であること、常勤公務員であることを否定することにもならない――実際、一九七〇年代から八〇年代、公務員ヘルパーを批判した人たちにも公務員化を支持した人たちはいる、そのぐらいには事態は複雑だ。介助(介護)者の労働条件をよくすることについて異議がない。それは言うだけならいくらでも言えることだが、だから言うことにして、言ってきた。介助者・ヘルパーの労働運動の再建あるいは開始の動きもあって、それも必要だと思う。その上で、どのようにその職とその条件を肯定するかである。
 それをこの業界・学界にまかせると多く「専門性」の話に収斂させられる。それに対して別のことを言うことができるし、別のことを言うべきだと思う。そのように口をはさむことができる。

 
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 ■4 言葉にしていくこと

日常を言葉にする&言葉でない世界を言葉にするのは難しい、が
 三野宏治が仕事をしていたのは精神障害者の作業所だった。それを題材に別の研究科で修士論文を書いた。ただ、このぐらいまでだとなんとなく想像できる。もっとやりよう、工夫のしようはあったかもしれないが、まずはあまり思いつかなかった。それで、自分がそこでスタッフとして働いているという以外に、なぜ作業所が気になったのかを考えることになった。だいぶ苦労することになったのだが、なんとかなった。次節で述べる。
 そういう「普通の世界」は書かないほうがよいということではまったくない。うまく書ければ、それがいちばんかっこがよいのである。渡辺克典が共編者となっている本(中河・渡辺編[2015])が出ているゴッフマンという人はそんな人であったかもしれない。ただ、それは「芸」でもある。自分でやってみてどうもおもしろくないなら、いちど引いてみて、違うところを掘ってみるという手がある、あるいは掘ってみるしかないということになる。
 他方、日常というのとは違う、むしろ逆向きの営みであることも多々あるのだが、これまでのところ、一つ難しかったと思うのが、幾人かの人が取り組もうとしてきた「アート的な営み」だ。おもしろいと思ったからそれを主題にしようというのだろう。そして、言葉のない世界、すくなくとも言語化しにくいところがあって、むしろそのことに意味のあるような実践ををうまく書ける人はいるのだろうと思う。ただなかなかに難しいということはある。実際、つまらないと私には思える論文、学位論文もある。
 だが私にはたいがい対案がない。むろん、美術史のようなやり方で切り取ること書くことは、そこそこの歴史や背景があるものについては可能だろう。しかしいつもそちらに話をもっていく(ことを勧める)というのも芸がないようには思われ、いくらか気がひける。とすると代案がなかなかない。いろいろと考えるのだが、なかなか思いつかないでいる。
 それでも、いくつか思いつくことはある。
 例えば「障害者アート」「アール・ブリュット」――二つは異なる――といったものがあって、例えば前者はいかにも胡散臭いのだが、しかし名前はなんであれ実際にすごいものはあって、そしてそれは障害の有無と関係ない、と言えるかというと、そんなことはない、関係があると思われる。(『生存学』の表紙のいくつかを見てもらってもよい。)胡散臭いことと実際すごいことの間に何があるのか、それは難しそうだが、なんとか書きようがあるような気もする。そしてそこには、教育業界であるとか医療・福祉業界であるとか、いろいろな思惑があってきたことも明らかだ。そこを書くことも、なんとかなるように思える。書いて書けなくはないと思える。
 もう一つ、視覚障害者の触る美術鑑賞というものがあって、実際それを研究の対象にしている人がいる(鹿島[2014][2016])。それにもその成り立ちがあるのでまずそれが書けるのだが、それとともに、素朴に、触る人たちは何がおもしろいのだろうと思う。お客はいるのだから、なにかは楽しんでいるのだが、なにを楽しんでいるのだろう。それは調べれば書けそうな気がする。さしあたりそのぐらいのことは思う。
 他の領域・主題についても言えることだが、自分はこれはすごい、と思ったとしても、あるいは思っているからこそ、たいしたことないんじゃないか、という反問、横槍をきちんと、まじめに受け止めるところから書くというやり方がある。あるいは、「そのもの」がなかなか書けないのであれば、それを捉えるだめな捉え方、扱い方をもってきてそれを批判することによって、「そのもの」に近づくというやり方がある。

一つ見つけてくること
 そんなわけでなかなか苦労することもある。ただ、そんなところを通りこして、なにか一つ見つけること、見つけられることがある。それはときに、集まってしまったことの、偶然と言うしかない部分を含む効果でもある。
 吉田幸恵がまず論文に書いたのは精神障害のある人のホームヘルパーについてのことだった(吉田[2010a])。それはそれで意味のあるもの、あるものになったかもしれないものだったと思う。どこにそのおもしろさ(難しさ)があるのかについては『ズレてる支援!――知的障害/自閉の人たちの自立生活と重度訪問介護の対象拡大』(寺本他[2015])という本が参考になるかもしれない。つまり、身体障害の人の介助というと何をするかわりあいはっきりしているのだが、知的障害・発達障害・精神障害となるとどうか。そのように問いを立てると、これはかなりおもしろい。これまで幾度も言及してきた、自ら状態・必要を示す、示さざるをえないとされるという事態をどう考えるかということにも関わる。ただすくなくともその時、吉田自身には、その続きを続ける見通しは立たなかった。
 それからしばらくの時間が経つことになるが、吉田はかなり異なる主題にとりくむことになった。というか、さきの論文と同時期、「黒川温泉宿泊拒否事件」についての論文(吉田[2010b])は書いていて、既にハンセン病に関心はあった。ただハンセン病療所やそこでの人々の生活については比較的・例外的に研究がある部分で、手を出しにくい。吉田が書く場所を見つけたその時は、偶然のようにやってきた。と今なら舞台裏を言ってよいと思う。センターが韓国の人たちと研究交流を続けきたことは紹介したが、そのなかで、吉田は、韓国からの留学生で研究科の院生の李旭(イ・ウク)の案内で、日本の占領時代にできたソロク島のハンセン病施設を訪れたのだが、その近くに建っている児童施設はじつはイの祖父が設立したもので、そこではハンセン病の病院、そこから出て暮らす場所として与えられた「定着村」というところに暮らす親の子を預かっている施設だった。そこで、イの家族からその施設のこと、そして定着村のことなとを聞くことができた。そこで得られた情報は大きな意味をもった。分量的には博士論文の大きな部分は文献研究によって得られたものだったが、例えば日本占領下での政策や施設の状況については既に書かれたものがないではなかった。韓国に行ってイの家族に教えてもらったところ、調べるきっかけを与えられたところに「はつもの」の部分があった。それで博士論文が書けた(吉田[2015])。
 そしてその李は日本に来て高齢者施設で働きながら、そこでの「ユニットケア」と呼ばれるものを研究してきた。ただここは例外的に「混んでいる」場所だろう。すくなくとも実践報告の類はたくさんある。李はいくつかを書きながら(李[2013a][2013b])、その方向でまとめられるかいくらか迷っている間に、しばらくが過ぎた。そして、家庭の事情などあって韓国に戻った李は、その施設を経営する法人の理事長になった。そして、次に会った時、李は主題を変えたいと言った。つまり、自分の祖父が創り、自らも(もと)ハンセン病者の子たちといっしょに育ったその施設について書くことにしたと述べた。それがよい、ということになった。きっと重要な論文が書かれるだろう。そしてこの順番だったから、よかったのでもある。李が主題を変える前に吉田は論文を書いた。順序が逆だったら、吉田が(初めて)書くことは少なくなっただろう。
 一つのことを見つけること、一つのこととして書くこと。これから人についてまた一つの組織について書いたものをいくつか紹介し、いくつかのことを述べる。他に似たようなものもどこかにあるとしても、ただ、まずその一つを書くことだ。梁陽日(ヤン・ヤンイル)は民族学級のことを書いている(梁[2010][2013] )。それは外側との関係においてもまたその内部においても異なるものがぶつかる場所であり、さきに述べた多文化・多言語問題であるとか同化主義という主題に直接につながるのではある。ただそれは、そのように読むこともできる、そんな関心をもって読むこともできるということであって、書き手がそんなところに立ち入らねばならないということではない。民族学級はいくつかあったとして、梁が書こうとするのは梁がじかに関わった場である。その「一つ」について(初めて)書く人は、そこから別の人が何かを考えるためにも、その一つの全体を示してほしいと思う。
 それは人々の努力の結実したものであってきた。それはそのとおりだ。ただそれと同時に、梁から――書いたものよりむしろ――聞いて感じるのは、とてもたくさんの「へー」という感じだ。梁は、せっかく、偶々、その世界にいてしまった。これはまったく特権的なことで、それは大切にした方がよい。ただそれはその本人にとって当たり前であった空間で、そこを端折〓ルビ:はしょ〓ることがときどきある。それは知らない者にとっては困る。まず「様子」がわかること。民族学級として間借りしていたその場所はどのように使われていたのか、あるいは使われてはならなかったのか。「空気感」といった、学術的でない言葉を使ってしまうことがある。それを単発の論文でわからせることは難しい。査読論文に仕立てるのには工夫がいる。しかしそれはなんとかやりくりしつつ、長いものによってその「世界」を書けたらよい。
 尖っている部分、波風の立っている部分を調べる方が、実際には楽だし、楽におもしろい結果を出せるとさきに述べた(p.19)。大きい争いや小さいいざこざがどこでも起こっている。それを無理に丸く収める方が難しいと思うのだが、そんな癖をどこかで身につけてしまっている人がいる。というより、それは人の性質の問題というより、むしろある種の業界・学界の問題だ。何十年もあるいはもっと長くどうにもなっていないことについて、16000字や20000字でなにか「展望」を示せると思うことの方が倒錯しているし、実際にそんなふうに書いてあるものの多くは、空疎である。まずは「ことに即する」ことだ。それでも、一つや二つ、なにかまとめ風に言えることはあるはずだ。そうやって雑誌論文の数を増やしながら――ここに出てくる研究科では査読に通った論文が3本以上あることが博士論文提出の条件になっている――一つについての全体を書いてみようということだ。
 さきに藤原信行の調査がいかにもたいへんそうだと記したが、小宅理沙の博士論文「レイプで妊娠した被害者女性の産む・産まない――インタビュー調査から」(小宅[2010])は、何年間かに渡るインタビューに基づく。こうして、主題・相手が重いので、丸く収めるといったことがそもそも無理で、きれいにまとめるなといったことをわざわざ言う必要のないこともある。ただ、とくに「臨床系」は前向きであることが求められる。そのこと自体は当然のことであり、そのようなことを言いたいと思うのも当然のことである。言いたいことがあれば言えばよい。だがそのためにも、まずはその世界がどうなっているのかを書き出してみることだと思う。
 谷口俊恵は、あとで(p.224)最後にまとめて紹介する「精神」の関係の研究者の一人で、大学に務め、ダルクの活動にもかかわりながら薬物依存症者の人たちのことを調べている(谷口[2016])。それを読むと、薬物の世界に馴染みのない人間には謎なことがたくさん出てくる。薬を「やめられない感じ」は結局は書きようがないものなのかもしれない。しかしそのことの周辺に起こっている様々について、その人はよく知っているのだから、もっともっとその世界を書くことができるはずだ。そうしてたくさん、さんざん書いていって、その果てに、明るいことを言いたいのであれば、言えると思うのであれば、書けばよい。

3 人と人たち
 論文というものに妙な先入観があって、それがものを書くことを妨げることがある。しかし世に論文と呼ばれるものも、すこし広げて考えてみれば様々ある。例えば夏目漱石が松山か熊本かで何をした誰に会ったといったことを(きちんと)書くと文学の論文になる。誰それが京都のどこの美学校でしかじか学んだことを(きちんと)書くと美術史の論文になる。だから、というのはじつは理由を言うことにはなっていないのだが、個人を取り上げて書いていけないわけでなく、それに意義のあることがある。
 「社会福祉事業史」と括れるような領域には人物伝のようなものもある。それはそれで貴重なのだが、それはたいがい偉人の話で、偉人を偉人に描く。偉い人のことを偉いと書くのはもちろん間違っていないのだが、その上で、それだけでなく何を書くかとなると、すこし工夫がいるかもしれない。
 どこから発するのかよくはわからない熱情をもって、人にとりくんでいる人たちがいる。例えば、博士論文の準備をしている田中真美は神谷美恵子という、よく知られており今もその書きものを読むことができる人のことを書いている。この場合には本人の書きものは書店に行けば売っており、その人の伝記的なものもなくはない。だからどうするかということはなる。だから調べたというわけではないのだが、田中はいっとき神谷が医師として通っていた長島愛生園の資料室他に通って、神谷が関係した人のカルテや記録を調べつくすことになった(田中[2013][2015]))。
 もう一人、こちらは知る人ぞ知る人ということになるが、楠敏雄という人がいた。岸田典子はかつて銀行勤め等をし、現在はNPO法人に関わったりしている全盲の人だが、1970年代以降の障害者運動を率いたやはり盲人であった楠について書こうとしている。博士予備論文として岸田[2013]があり、その研究を続けている。ただやっかいなのは、その対象=主人公であった楠が2013年に亡くなってしまったことだ。当然それまで、楠の健康に気遣いつつなされたきたインタビューも行なえなくなってしまった。そこでどうするかを考えながら続けていかねばならないことになった。
 楠はものを書くのが仕事であった人ではなく、本人に多くの著作があるわけではない。彼がそのときどきに関わった人や運動、社会状況を織り交ぜながら書いていることになるだろう。そしてここでも、長いものの一部を単発の論文としても、なかなかその意義を求めてもらいにくいという悩みをかかえながら、やっていくことになる。その困難は、学術雑誌論文というものにある、それ自体にはあまり合理性のない制約である。これは、一つの論文で一つなにか「それらしいこと」を言ってみるといった小さい工夫を重ねて乗り切るしかない。
 ただそんな努力にどれだけの意味があるかどうかはともかく、その人について一つの長いものが書かれる意義はある。というか、意義のある人はいる。その意義は、「天才」というような類の人についてもあるのだろうが――しかしそれはそれで、挿話集はできても、書きにくいように思われる――時代がその人を押し出したり疲弊させたりしたというような人についてある。すると、楠のように亡くなってしまった人については、本人が既にいないから仕方なくということもあるが、その人の周辺に何が起こったかを書き込んでいくというやり方がある。(そこで楠の追悼文集に寄せられた文章を年を追って並べてみたという資料集(立岩編[2014]をまず一つ作ってみた。)
 そして人の集まりを相手にする人たちがいる。それは組織として存在する場合もあるしそうでもない場合もある。学校の教諭を辞めた後、研究科に入ってきた中村雅也も(途中から)全盲の人だが、中村は視覚障害のある学校の教師たちのことを調べている。そうした教師たちの会もある。上記した楠は日本で普通高校の教師になった最初の人でもあり、その会にも関わり、中村もその関係で生前の楠を知っていたりする。その中村が、そんなつながりも使いながら、聞き取りをして書いている。
 こういう類の書き物は、長尺になってはじめておもしろさがわかるところがあると述べたが、実際、中村の博士予備論文もそうしたものだった。ただ、投稿論文には制限字数があり、なにかしらの「起承転結」のようなものが求められてしまう。岸田にも言えることだが、それに合わせるためのよけいな――と言ってはいけないのかもしれないが――苦労があって、なかなか苦労はしている。それでも中村[2014][2015]が査読に通った。
 そのうち書かれるだろう博士論文はその人たちの教員人生をたんたんと綴るといったものになるだろうか。基本それでよいと(私は)思うが、中村のものを読んでいて、そこにはおもしろい論点が幾つかもあると思った。例えば「介助」とか「支援」といったものをどのようにするのか。「典型的な」身体障害の人の場合には、一人の人に一人がついていて、用のある時に介助するということになる。ただ中村の論文を読むと、そういうやり方より別のやり方がよいことがあることがわかる。つまり、教員たちの仕事にすこし余裕をもたせておくと、例えば採点であるとか、やってほしいことをやってもらう、中学や高校のように教科別になっている場合はその集団の中で、やりくりした方がかえってうまくいくことがあるようだ。そのように書かれるとそうかもしれない、それも不思議なことでないと私たちも思うのだが、書かれないと、実際にその場にいない人にはわからない。そんなことをわからせることは大切なことだと思う。

4 組織・運動
 さきに紹介した、研究科の第一期生で血友病の本人である北村太郎の本、関西の障害者運動界隈の人とつきあいがあった配偶者(定藤丈弘)の車椅子を押したりしている間にその人たちを知り、そしてその配偶者が亡くなった後研究を始めた定藤邦子の本にも、組織について書かれている部分がある。また堀智久は筑波大学で博士号を得て日本学術振興会特別研究員としてやってきて、センターの研究員も務めた人で、博士論文をもとにしたその著書の中でいくつかの組織を扱っているが、その一つ、「先天性四肢障害児父母の会」の(父母でない本人の)会員でもある。有吉が腎臓病の人の全国組織のことを書くことになった事情についてはp.〓に少し述べた。その有吉・定藤の本の一部が本書に引用されている。そしてこういうものは全部を読んでもらうのがよく、まずそれ以外に言うことはない(その2冊に短い解説のようなものも書かせてもらっている)。ここでは現在進行中の研究について。
 葛城貞三は、自らが「滋賀県難病連絡協議会」の事務局長を長く務めてきて、それと別に収入を得ていた勤務先を定年で退職した後、入学して、自らが活動してきたその組織について書いている(葛城[2009][2010][2011][2015])。長い歴史があるが、そんなに劇的な変化を経てきたというほどのものではない、そう派手なことをやったわけでない組織について、何を書くか。一つずつの組織について、ともかく記録があってよい、そしてそれは一つずつに一つなのだがそのことにおいて「オリジナル」なものだと割り切れば、たんたんと書けばよいし、実際おおむねそんな論文としてまとめられつつある。
 ただ、その組織は予算規模からしても相談を受けるぐらいの活動で手一杯なのだが、しかし、相談してそれが有益でもそれだけで人は生きていけるわけではない。葛城たちはその活動の中から、そしてこの場で研究がなされたことと関係がなくはないと思う、介助者派遣の事業体を作り出し、活動を始めた。博士論文がその部分にまで至るかは、結局筆者によって決められることになるだろうが、私はいろいろとやってみたあげくの一つの展開のあり方としてその部分も書いてくれたらよいと思って、そのことは伝えた。
 もう一つ、こんどは時期を過去の方に遡っていくと、各地域の難病連の始まりぐあいがわかるもかしれない。葛城によると、1960年代から70年代にかけて社会問題化したスモン病の患者、患者団体が、地域における組織化に役割を果たした、そして京都での運動が滋賀での組織化を促したところもあったということのようだ。国の政策としては、また全国的な動きとしてはスモン病がきっかけになったことは言われているが、地域レベルでどうであったかの研究は進んでいない。わかるところまで書いてくれたらよいと思う。
 そして中嶌清美は、過労死遺族の親の会について研究している(中嶌[2012])。過労死した人の家族が、家族・遺族として書いたものはあるだろう。また支援している弁護士他が書いたものもある。それらでは実態や裁判について概説がなされ、自分たちが関わった事件についても書かれる。けれど、どんな具合に家族がいっしょになって訴えていったのか、同時その仲間内でどんな話やらしてきたのか、それは想像できるような気もするが、すこしでも具体的に考えてみると、やはり外側の人間にはわからないことがわかる。だから是非書いてほしいと思う。ただ、その会に長くいても、そこに残されている文書の類は少ない。そして、文章を書くにしても、一体となってそして一点に絞るようなかたちで社会に訴えるのが仕事であってきたのだが、それはそれとして、それを分けてすこし外から見ていくのは厄介かもしれない。ただ、とくに裁判に訴えるといった場合、弁護士、労働組合、そして遺族、その各々にも複数の人がいて、どこがどのように引っ張ったり、いっしょにやったりということがどんな具合だったのかと思う。薬害・公害・医療過誤…等において様々な困難があったことは知られているのだが、それを分析したものはあまりない。だから見本になるものもなかなかない、それでとにかく思い出せることをまずは全部書き出してみてといったことしか言えないのではある。そして、中嶌とその主題についてはそうでないとしても、内部にある摩擦といったものに書きにくいところはある。ただ、そうした齟齬・摩擦・軋轢を描くことは、結局は運動も前進させるはずだ。
 以上は皆長く関わってきた人たちだが、とくにそんな長い経歴がなくてという人もいる。八木慎一はアクセル・ホネットという人について博士予備論文を書いたが、そこから後の展開をなかなか思いつけなかった。保育士の資格をとってアルバイトをし、そして病院で子どもの相手をする資格を取り、その仕事に就き、そして今はまた別の職場で介助の仕事をしながら大学院生をしている人で、子どもつながりといえばまずはそれだけなのだが、「人工呼吸器をつけた子の親の会〈バクバクの会〉」について調べることがあって、論文を書いている(八木[2012][2014])。それを続けるかもしれないし、これを一部として別の方向に進むかもしれない。ただこの会のことは、誰か書いておいた方がよい。そんなことも思って、このセンターの企画で公開インタビューをして、それは雑誌に掲載されている(人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>[2011-2012])。その会の準備を仕切ったのも八木だった。
 誤解する人がいるのだが、「わざと」批判的であるべきだとか、中立であるべきだ、といったことを私はまったく思わない。肯定されるべきもの、肯定したいものは肯定すればよい。なにかを主張したければすればよい。むしろ、そのためにどのように距離をとるか、別の見方ができる可能性を考えることが必要になってくる。その魅力を伝えたいなら、読んで恥ずかしいあるいは白けてしまうものだったら逆効果ということになる。そのことは言う。
 そして、一人ひとりが書くのは一つでよい。ただ、その距離感や別様に見る可能性を知るのためにも、周りの教員他は、その周辺のことで知っていること、どことどこは喧嘩をしていたずだといったことを、知っている限りで伝える。例えば、1970年前後、今は「難病」という言葉からは連想されにくいスモン病や腎臓病の団体が「難病」者の運動やその組織化に寄与するにあたってはこれこれの事情があったはずだといったことを言う。重症身心身心障害児施設、そこでの看護を中心に研究する窪田好恵から1960年代辺りを教えてもらい(窪田[2014][2015])、その関係の親の組織が他とどのように違いまた共通するかを言ってみる。そして、この補章の2で述べたように、他の人の研究と意外なところでつながっているはずだといったことを、考えつく限りで言い、3で述べたように、ここは混んでいるがここはすいているとか、すいているけれど難しそうだが、それでよいか、などと言う。

例:「精神」な人たち
 ある数、そして濃度で、別の立場の人たちがいることの意味があると述べた(p.17)。最後にその例をあげる。
 精神障害/精神病/精神疾患/精神医療/カウンセリング/相談支援…、その関係の社会運動、政策といったものに関係して研究してきた人たちがいる。さらに、このごろの流行ということなのか、発達障害という自己認識をもったりもしつつ、その方面の研究をしたいという人も多い。大人数がいっしょに動いているということではまったくなく、集合性といったものはほぼなく、在学の時期もずれているから互いに一度も会ったことのない人もかなりいる。それでも、あまり活発ではないの関係者のメーリングリストには30人より多い人たちが登録されている。
 精神科の看護師は大学の教員4人(大学院在学中にこの職に転職した1人を含む、すべての人に臨床の経験がある)、現在研究所の研究員を務めながらの人1人で4人。精神科ソーシャルワーカー(PSW、資格名としては精神保健福祉士)かその資格をもっている人が5人、うち在学中に教員になった1人を含め3人が大学教員、そして「現場」で「相談」の仕事をしている人、そして「本人」で資格をとった人。精神科の医師2人。そして「本人」の数は数えられないと述べたが、「病者」の組織に関わってきた人が2人、客員研究員を含めるとさらにもう少しいるといったところ。本人という自覚はないと思うが本人たちやその組織について調べている人が2人、等。
 それでその人たちは何をしているか。まずは『生存学』(2011年)の第3号の特集「精神」(→本書p.234)を読んでいだいたらよい。そこに原稿を書いた10人のうち、吉村夕里はさきに最初に出た本としてあげた本をこの時既に書いていた。入ったときに既に大学の教員だった人だが、その前に長く関西方面で働いてきた人だ。その本の大きな部分を占めるのは臨床の面接の現場におけるやりとりの観察・記述だが、そこには、過去の自分たちのような「ソーシャルワーカー」が、這いまわるようにして働いていた以前のほうが、まだまともに働けてきたのではないか、比べてなぜ今はこんな変なことになっているのだ?という思いがあった。それは手法も違うし、見ている場面も違うけれども、後の萩原の関心と仕事にもつながっている。
 次に、杉原務――彼も入学時に既に大学の福祉系の学部の教員だった――は「作業所」といった場の(参与)観察をしてきた。ただ、そこはおおよそ想像のつく場である――本書に収録された種々の文章も、その域を越え出ているだろうかという読み方で読んでもらってよい。障害者雇用を進めるといってもいくつかやり方があり、各々に長所短所がある。例えば米国の差別禁止法的な方法はどんなもので、どんな具合に紹介され評価されているのか。そうした部分を調べて、障害者雇用を巡る制度的な部分について調べて、それを大きな部分にして博士論文「障害者雇用における合理的配慮――経緯と日本への導入視点」(杉原[2010])を書いた。それがいったん終わったので、『生存学』3の論文は別の主題で書かれている。
 「児童精神医学」の方面の医師で、おもに発達障害の子どもの臨床に携わってきた片山知哉は、『生存学』3掲載の論文の方向で2013年度に博士論文「所与の選択――こどもの文化選択をめぐる規範理論」(片山[2014])を書いた。ろう者やゲイの「ナショナリズム」を肯定しようと主張し、政治哲学方面の議論、多文化主義についての文献を読み解釈しつつ、その根拠を述べている。こういうタイプの論文はここではあまり出ないのだが、重要な提起をしている論文だと思う。(ちなみにこの論文はこの論文は博士論文としては短い。なんでも長く書けばよいというものではなく、短くてすむ話であれば短い方がよい。ただここで紹介している主題は、長く詳しく書いた方がよいものが多い。)
 そして、とても長く訪問看護も含む精神看護の現場で働いてきて、提出前に大学の看護学部の教員になった阿部あかねが2014年度に「精神医療改革運動期の看護者の動向」(阿部[2015])で博士号を、精神障害者の作業所に務めたりもしてやはり提出前に大学の教員になった三野宏治が同年度「「脱」精神科病院に関する考察」(三野[2015])で博士号をとっている。まったく、「専門職」養成系の教育研究職が他に比して有利であることは疑い得ぬ事実である。この二人の博士論文は、大きくは『生存学』論文の方向を発展させたものだが、博士論文になるにあたっては苦労した。
 三野は作業所の話を続けても仕方がないと思った(p.214)後、何が気になっているのかと考えた。作業所は「地域移行」の際の地域での「受け皿」ということになっているのだが、そのような発想・仕組みをそのまま受け入れることへの抵抗感があるようだった。それで、実際に出かけて行って調べて『生存学』3掲載の論文(三野[2011])に米国経由の「クラブハウス」について書いたのだが、それが「おとしどころ」になるとも思えなかった。その行方はなかなか困難であったのだが、「脱施設」→「地域の受け皿」という「流れ」がどうも気にいらないという現場感をなんとか書いてみて話を通すということで、しまいにはなんとかなった。
 阿部の『生存学』論文も、三野の幾つかの論文も、知らない人にはおもしろいのだが、この業界は精神医療改革を言って騒いだ医師たちが多くの文章を残し本を書いている。とくに精神科の医師にはものを書くのが好きな医師が多いこともあり、狭い業界ではあっても知られていることは知られている。すると書いてないことを書くという論文の宿命的な条件から言ってそのままというわけにはいかない。論文などという以前に、誰がすでに書いてくれているなら、それを繰り返す必要はない。阿部の場合は、病院の倉庫で捨てられているような資料をさらい、また精神科の看護師の組織「日本精神科看護師協会(日精看)」の機関誌を(これはネットオークションでおとしたと聞いた)を入手し、その組織の動きを追えた。この部分の研究はない。書けるとすれば、同じくこちらの院生でもありその日精看の幹部等を務め、きな臭いところも含めて多くを知っている(関わっている)はずの末安民生(『生存学』8、巻頭特集「看護」の座談会「看護論――この30年をめぐる変容」で話をしてくれている)だが、大学の開設に関わる責任者のような仕事で超多忙であって、地方の精神病院で働いてきた古い人に話を聞いてまわるという夢を果たせないでいる。
 看護者・看護師たちは(時々入院者に乱暴したり、されたりしながら)おおむね黙って働いてきた。阿部は、わずかに残っている文字資料と70、80代になっている人に話を聞いて論文をまとめた。当初の資格化をめぐる、看護師の既に資格化されていた部分と、そこに入れてもらおうとするが、その際学歴等その条件を緩くしてもらいたい(精神看護の)側との関係が書かれていて(これはこれまで各業界でしばしば起こってきたことだ)、まずおもしろい。そして、その改革・騒乱の時期にたいした動きはなかったというのが阿部の捉え方になる。そしてそれは、職を確保し、専門性を言うのが使命であった組織にとっては当然のことかもしれない。医師たちが、免許を剥奪されるぐらいのことをしなければ、結局なんとかはやっていけるのとは違う。そうしたところを明らかにしておく意味はある。
 そして、『生存学』論文と同じテーマを通している樋澤がそのテーマ、つまり精神科ソーシャルワーカーの組織と「医療観察法」(説明略)との関係を書いている。その組織は当初、医療観察法に反対していた。しかし途中から事実上賛成に転じた。そんなことはいかにもありそうだとは思うが、その「翻身」をはっきりと説明した文章などない。あるはずがないとも言える。その上で、その変化をどのように見るのかということになる。
 こうして数えていくと、この分野に関しては、当初それほど「本人的」ではなかった。自分の職、その「コア」な部分は否定しない、けれども現状を見るとき、そう礼賛的になろうとも思えない。そんな人たちがまず書いてきた。ここはなかなか苦労が多いところだ。例えば阿部も樋澤も吉田おさみという人をとりあげている(阿部[2009]、樋澤[2014]、拙著では『造反遊理』第5章)。吉田のような思想が入いりこんでしまうと普通には論文は書きにくくなるから、けっして勧めないが、書いてしまった。そんなものに接しながら、自分たちの業界のことを書く。そういう倒錯的な営みを文章にする。そこで、担当の教員は3本続けてやっかいなものとつきあうことになる。
 こうした「専門職」の流入は、そのうち峠を越えるものかもしれない。つまりこれからの教員は学位を有していることが前提になって、既に取得している人が多くなれば、学位をとりに来ることはなくなる。それはそれでかまわないが、まだ来る人はいる。来るからには楽しんでほしいと思う。
 今まだいる人では、PSWで大阪で大学の社会福祉学の教員をしつつ、統合失調症他の本人に、小学校から大学まで、学校という場で話をしてもらうという活動を行ってきた栄セツコがいて、その活動についてまとめようとしている(栄[2014][2015][2016])。本人語りは流行っていて、それはけっこうなことだが、その舞台(裏)がどうなっているのかは、ここでも「おもしろい」と言ってしまうが、おもしろいと思う。例えばそこで何を語らないことにしているか。また、体育(館)座りをしている全校生徒を相手に体育館で話すなどというのは、人にもよるだろうが、ひどく滅入ることでもある。それをどのようにやり過ごしているのだろうか、落ち込んだとしてどのように立ち直しているのか、等。
 そしてとくに近年は忙しい教員よりさらに忙しく「現場」で働いている人がいる。萩原浩史は『生存学』3では(障害者が出てくる)ドラマについて書いてみたのだが、結局、本業について書くことになった。つまり大阪で自らが携わっている精神障害者の「相談支援」のたいへんに混みいった、そしてうまく機能していないそのさまについて、書いていくことになった(萩原[2012][2014][2015][2016])。こういう細かなこと、細かに見えることが大切だと思う。それは偶然のことでなく、むしろ社会の割合大きな部分に関係しているように思える。するとこちらでもいくらかは考えてみようと思う(『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』)。
 このかん、「職」とは関係のないところから、という人もいくらかずついた。薬を使っている人などは恒常的にいたが、その立場でものを書くという人はだんだんと、だった。端的に学費が高い、払う金がないという事情があるだろう。何人か、ここは学費が高いので、ということでより安いところへということも幾度かあった。それでも、奨学金やら学資免除やら、そして日本学術振興会の特別研究員などをあてにして、あるいは先のことは考えないでやってくる人がいる。
 松枝亜希子は、当初「うつ」の人たちのセルフヘルプグループの研究をしようかと言っていた。結局、人にじかに会って話を聞くのはあまり得手でなく好きでないことに気づいたといったことがあって――こんなところで無理はしない方がよい――向精神薬の、そして薬全般についての研究に移っていく(松枝[2009][2010][2013])。ここだったら普通に「医療社会学」の業績がありそうだ。だが、理由はよくはわからないのだが、こんなところにも穴が空いている。後期課程から入学してくる場合でも、主題は変えた方が楽なら、仕事ができるならその方がよい。中田喜一は『生存学』3に「オンラインセルフヘルプグループ」について書いた。うまくやれば一仕事できたかもしれないが、諸事情あって、辞めることになった。
 セルフヘルプグループについて書くといって書いているのは、白田浩司だ。彼は年齢制限がなくなった後の、最高齢の日本学術振興会特別研究員(DC)かもしれない(白田[2013][2014][2015])。不便を社会が補うという(普通に解される)「社会モデル」が精神病・精神疾患にどれだけ使えるかという問いを立て、限界があるとする――それに私は同意する。そして、補えない部分についてセルフヘルプグループの意義があるとする――そんな気もするが、もうすこしわかりたいと思う。また、そんな地点からは、栄が関わりまた研究しているような、PSWがうまいこと介在して難しさを緩めて運営されていくような集まりはどう見えるのだろう。
 とくに精神障害者の社会運動の研究には大きな穴が開いている。穴が開いている理由には様々があるが、この場合には、たぶん「怖い」からだと思う。「精神障害者は怖い」のだ。福祉福祉と言っている分には共に推進し前進しようということになるが、強制入院、強制医療、保安処分、医療観察法…となるとそうもいかない。意見が割れ、ときには血をみるような対立も起こりうる。ただまず本人は、当節は、遠慮なく言える、言ってもすぐには文句は言われないということがある。「全国「精神病」者集団の結成前後」(桐原・長谷川[2016])、PSWの世界では有名な、しかし有名であることしか知られていない「Y問題」について桐原[2014]、「処遇困難者専門病棟」新設阻止闘争について桐原[2016]。そして、センターの予算を使って聞き取りを冊子化したものがある(桐原・白田・長谷川編[2013][2014]、桐原・長谷川・安原・白田編[2015]、安原荘一は客員研究員)。センターの企画としても行なわれ、私も聞き手の一人だった、「全国「精神病」者集団」の大野萌子(2013年逝去)・山本眞理へのインタビュー記録もあって、その一部が『現代思想』2014年5月号(特集:精神医療のリアル)に載っている。その完全版を2016年中には出版予定。そして作業療法専攻の学部は出たけれども、あるいは出たために、(当面)その仕事に就くことにせず、研究することにした伊東香純が、本人の国際組織(WNUSP)について書くということで、そろそろとその支度をしている(伊東[2016])といった具合だ。
 そして、これは近年の流行ということでもあるだろうが、発達障害、自閉症…という自己認識をもつ人としてその関係のことを調べようという人、そういう範疇の学生にどう対したものかと考えている専門学校の教員、等々がいる。その人たちの多くは今勉強中、成果はこれからという感じなので、ここではまだ紹介しない。
 そして教員は、なすべき仕事を代わりにやってもらっていると思える時にはそれを慰めとしながら、客次第でそのときどきを凌いでいくことになる。
 以上、もう様々書いている人だがふれられなかった人も多数いる。これからという人たちのことも含めて書いていったら終わらない。活動の「一端」を示した。自分でも、と本書冒頭に記したが、その感じがいくらか伝わるようにと思い、どんな人がどのように研究に手を染めてきたのかを記した。
 あとはメールマガジン、フェイスブック、等々で、出版物や企画をその都度紹介しているし、これからもしていく。客員研究員になってもらっている人も含めたメーリングリストがある。資料、そしてこの活動を維持していくための資源の提供を常に歓迎している。



UP:2016 REV:20200528, 29
『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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