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序章

立岩 真也 2016/03/31
立命館大学生存学研究センター 編 20160331 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』,生活書院,pp.7-23

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◆立命館大学生存学研究センター 編 20160331 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』,生活書院,272p. 2500+ ISBN-10: 4865000526 ISBN-13: 978-4865000528 2500+ [amazon][kinokuniya] ※

立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』・表紙

■おもしろいかもしれない
 普通にこの本(以下本書)も読んでもらうためにある。けれど、なにより、自分もやったらおもしろいかも、と思ってもらえたらと思う。研究とか、ましてや「◯◯学」などと言うと大仰だが、調べたり書いたりすることはおもしろい、大切なことだ、自分もやってみたい。そう感じてくれたらうれしい。本書は「生存学」の「教科書」を作ってみたらと言われたところから始まっている。ここに様々記されていることに覚えておいてほしいこともある。ただ、もう一度繰り返すが、教えられたり諭されたりというより、むしろその「もと」を作る、それに参加しませんか。そのことをここでは述べる。
 それにしてもどんなことを、と思うだろう。2007年に日本学術振興会に提出した文章(応募書類、説明→p.180)の一番短い部分を掲載しておく。所詮、お金をもらうための宣伝文で大仰だし、字数の制約で短くしすぎてわかりにくいかもしれないが、言いたいことは詰め込んである。

  人々は身体の様々な異なりのもとで、また自分自身における変化のもとに生きている。それは人々の連帯や贈与の契機であるとともに、人々の敵対の理由ともされる。また、個人の困難であるとともに、現在・将来の社会の危機としても語られる。こうしてそれは、人と社会を形成し変化させている、大きな本質的な部分である。本研究拠点は、様々な身体の状態を有する人、状態の変化を経験して生きていく人たちの生の様式・技法を知り、それと社会との関わりを解析し、人々のこれからの生き方を構想し、あるべき社会・世界を実現する手立てを示す。
 世界中の人が他者との異なりと自らの変容とともに生きているのに、世界のどこにでもあるこの現実を従来の学は十分に掬ってこなかった。もちろん、病人や障害者を対象とする医療や福祉の学はある。ただそれらは治療し援助する学問で、そこから見えるものだけを見る。あるいは、押し付けはもう止めるから自分で決めろと生命倫理学は言う。また、ある型の哲学や宗教は現世への未練を捨てることを薦める。しかしもっと多くのことが実際に起こっている。また理論的にも追究されるべきである。同じ人が身体を厭わしいと思うが大切にも思う。技術に期待しつつ技術を疎ましいとも思う。援助が与えられる前に生きられる過程があり、自ら得てきたものがある。また、援助する人・学・実践・制度と援助される人の生との間に生じた連帯や摩擦や対立がある。それらを学的に、本格的に把握する学が求められている。その上で未来の支援のあり方も構想されるべきである。
 関連する研究は過去も現在も世界中にある。しかしそれらは散在し、研究の拠点はどこにもない。私たちが、これまで人文社会科学系の研究機関において不十分だった組織的な教育・研究の体制を確立し、研究成果を量産し多言語で発信することにより、これから5年の後、その位置に就く。

■調べることがあってしまっている
 人は死ぬまで生きている。ただ生きて暮らしていけばよく、何かを書く必要、書かれる必要などない。と私は思う。それでも一つ、考えたければ、書きたければそうすればよい。さらに一つ、考えたくなくても知りたくなくても、そうもいかないことがある。生きていくことがうまくいかずに、わざわざ「生存」など掲げて、争ったりせねばならないことがある。
 […]

■なぜ穴があいているのか?・1
 しかし、それにしても、である。例えば「障害者」や「病人」や「高齢者」についてはそれぞれについての学問がきちんとあるではないか。たしかにある。そこで既になされているのであれば、新たになにか名乗ったりする必要はない。けれど、すきま、どころではない大穴が空いている。だから、「学」だとか、でないとか言う以前に、するべきことがある。だからやっている。それにはわけがある。
 […]

■なぜ穴があいているのか?・2
 むろん、業界を背負うことが本業でない学問もある。例えば社会学者は社会で飯を食べているわけではない。人類学者にしても人類を食べているわけではない。何をしてもよいことになっている。ならば、そんな学がやればよいではないかとも思える。実際、私がやっている社会学の方面では、例えば「社会運動論」だとか「医療社会学」といったものには、そんな部分を見ていこうというところがあってきた。実際かなりの蓄積・成果がある。
 さらに例えば「障害学」というのは、より旗幟鮮明〓ルビ:きしょくせんめい〓に、本人――近頃は「当事者」という、幾分曖昧な言葉が使われることが多い――の立場を打ち出している。実際、私も含め本書に登場する幾人かも含め、そうした学会(日本の障害学会は2003年に設立された)に関係したり、学会誌に論文を投稿したりする人もいる。これ以上学会を増やすなど面倒なことだと思う。いろいろなところに出ていったらよい。
 しかしむしろ、既にある例えばその障害学の、すくなくとも概説書の類に書いてある話はいくらか単調であるように思えるところがある。その「社会モデル」の主張を極端に切り詰めると、それは、自分の身体でできない部分は(社会がしかるべく負担して)「補えばよい」という話である。たしかにそうして補える部分はたくさんある。普通に人が思うよりたくさんある。けれども、そんな場合だけではないだろう。
 例えば[…]

■楽できる、時間が稼げる、が結局考えることになる、それに助言する
 「自分で考えよ」と先生たちは言う。おっしゃるとおりだ。しかしそんなことを言われても…、と多くの人は思うだろう。だが、今述べたように、実際に既に考えられたことがある。多くの人たちが長い間、そしてやむをえずまじめに考えきたり、議論し喧嘩してきたその歴史がある。私たちはひとまず(あまり)頭を使わず、それを調べることができる。自分の頭を使う代わりに、あるいはその前に、人(人々)の頭を借りるわけだ。そしてその他人(たち)の方が長く、そして仕方なくまじめに考えてきたということもある。自分の頭を使ってみたって、すぐになにか出てくるなどそうはない。
 […]

■場があること、実際、多様であること+密度があったこと
 だから、一人で勝手にやってもかまわない、それはそうなのだが、動きや集まり、場があった方がよいことがある。どのように、ということがある。既に十分に調べられ書かれていることを繰り返す必要もないから、どこらへんに「あき」があるか、どんなやり方がまだ試されていないかを知っておく必要もある。それも一人でできる人もいる。だが他人がいた方がより効率的にその辺りがわかる、無駄な力を使わずにすむということがある。
 ある人とある人と、気になっていることが共通するが違う、違うようで共通するところがある。自分が気になっていること、それに関係するが別の流れのことを知っている人がいると、それを教えてもらったりできる。論文になっていればただ読めばよいともいえるが、じかに話を聞いたり話ができた方がよいこともある。
 このこと自体はあたり前のことだ。ただ、それと加えて、効率的に一つを定めるというのと別の、ときに逆の、しかし結局は役にたつ、そんなことが、場、たんなる場でなく多様性をもつ場には起こる。違うもの、対立するもの、多様であるものが現実に併存する場があることに意味がある。
 このように言うのは、実際そんなことが起こってきたからだ。誰が「生存学」なるものをやっているとか、どこでやっているとか、そんなことはまったくどうでもよいのだが、本書に集められたのは、すくなくともいっとき、同じ場にいた人たちの書きものである。本書は、「学」の紹介というより、まずは京都にある小さな場に関わって書かれたものの紹介だ。「生存学研究センター」というものがある。それと別に、学部をもたない、「先端総合学術研究科」という、意味不明な名称の研究科が立命館大学にある。「センター」は本書補章に記すいきさつがあって作られたものであるとともに、その大学院に来た人たちがいて、それで始まったところがある。
 […]

■集めること
 「文系」の場合、大人数で実験やらしないとならないというわけではなく、そのための箱・組織はいらない。大きな数の調査を継続的にしようというなら別だが、そのような分野を専攻する人材は今のところおらず、それが可能な体制もない。一人あるいは何人かが各々様々を進める、ここはそんな場だ。ここまで述べたきたようなことをしよう、せねば、というときに「センター」があることの意味は何か。そのかなりについてはもう述べた。共通性と差異のある人がいて、自らの仕事を豊かにしていける、場合がある。
 もう一つの答は[…]

■経緯について
 大学院生や修了者によってこれまで書かれた文章の一部を使って、それに短い解説を付して並べるというかたちで本を作ることが提案された。センターの活動は、ここ数年「生存の現代史」「生存のエスノグラフィー」「生存をめぐる制度・政策」「生存をめぐる科学・技術」という分け方で分けてきたので、それに対応させた4章構成とすることにし、それに若干をコラムを加えることになった。
 各章の担当者(執筆者)をまず合議で決めた。そしてセンター専属の教員(特別招聘研究教員)が各章に関係する文章をリストアップし、その文献からどの文章を使い、そのどの部分を使うかは、担当者(章・節の執筆者)の判断に委ねることにし、原稿を書いてもらうことになった。
 その前に序章を置くことはその時点での決定事項だったが、その後、全体のその部分の分量の算段のこともあり、一部を序章にもっていって、それ以外に一つ補章を置くことにした。それは締切を過ぎて決めたことで、ごく短い期間の間に書くことになった。そのせいもあって、記すべきことを多く落としてしまっていると思う。また、生活書院には迷惑をかけることになった。無理を聞いてくださった生活書院・高橋淳さんに感謝する。

■本書の体裁について
 説明したように、本書の大部分は文章の引用で構成されているのだが、その文章内にまた文章の引用があったりする。その関係がわかりやすいようにレイアウトしてもらった。
 文章の紹介者・担当者、編集者がその引用内に注記する場合には〈中略〉という具合に〈〉を用いている。原著者自身が〈〉を用いている文章もあるが、区別はつくものと判断してそのままにした。
 引用した文章の注番号は、体裁は☆12といったものに統一したが、そのまま残した。ただし注の文章は略した。もちろん注に重要な記述のある場合がある。ぜひもとの文章にあたっていただきたい。またその注が所謂文献注である場合には、基本的に〈〉内にその文献を記載した。そして参照されている文献はまとめて、巻末の文献表に並べた。ちなみに、文献表示の方法については基本的にもとの文書に従っており、統一されていない。〈〉内および序章・補章、そして文献表については、基本的に(表記法としては多数派とはいえない)「ソシオロゴス方式」――例えば「(渋谷 2014)」でなく「渋谷[2014]」のように記す――が用いられている。そして、書名等の文献名を略すためにこのような方式を用い、文献名は文献表で見てもらうのが基本なのだが、本書はどんな本・文章があるのかを宣伝・告知する本でもあるから、両方を併記している場合がある。
 以上細かなことを述べたが、学術論文や学術書というものにおけるこうした表記法にも一定の合理性がある。本書はいささか変則的な本であるために一貫性が保たれていないことをおことわりしおわびするとともに、こういうことをきちんとさせるのは大切であること、そういうことも学術機関・研究機関で学んでもらうことの一つであることを付記しておく。


■言及

◆立岩 真也 2016/04/09 「おもしろいかもしれない:『生存学の企て』序章1――「身体の現代」計画補足・140」


UP:201603 REV:
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