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二〇一五年読書アンケート

立岩 真也 2016/02/01 『みすず』58-1(2016-1・2)
http://www.msz.co.jp

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 生存学奨励賞→http://www.ritsumei-arsvi.org/news/read/id/699

 いつも五冊はあげてきたのだが、二〇一五年に出たものとなると、何冊もあげられない。まず日頃まるで本を読まないからだ。そして、今年から私も関係する「生存学研究センター」というところで、自薦・他薦の本を審査させてもらい、奨励賞を出すことになった。その結果の方はそのセンターのサイトに掲載されているのでご覧ください※01。その上で二冊。
 @寺本晃久・岡部耕典・末永弘・岩橋誠治『ズレてる支援!――知的障害/自閉の人たちの自立生活と重度訪問介護の対象拡大』(生活書院)
 とても特殊な業界の話のようだし、実際そんな部分はあるのだが、じつは社会政策/社会福祉、社会サービスを考えるうえでとても大切なところを考えるために必須の本だ。つまり、必要とされる量に応じて提供する、税金を使うとして、その必要をどのように見るのかという問題がここにある。身体障害(だけ)の場合には比較的わかりやすいように思えるのだが、認知症を含む、知的障害・発達障害・精神障害…となるとどう考えたらよいのか。そして「学問」はほとんど何も、このことについてまともなことを言えてきていない。それではいけないと思って――実際それは現実に害をもたらしている――昨年出してもらった『精神病院時代の終わり――認知症の時代』(青土社)でもいくらかは考えようとしたのではあるが※02まだこれからというところ。なので読む必要がある。
 A横田弘『増補新装版 障害者殺しの思想』(現代書館)。一九七九年に刊行され長く品切れになっていた本の再刊。横田は「青い芝の会」で活動し二〇一三年逝去。この本の「解説」で横田について、『万博と沖縄返還』(吉見俊哉編、岩波書店、ひとびとの精神史5)で同じ会で活動した横塚晃一について書いた。この三月には横田との二度の対談を含む本が出る。歴史(現代史)ものは得意でないが、大切なので、人がやらない部分はやらざるをえない。

※01 この文章を書いてみすず書房に送ったのは2015/12/28。「賞」の審査委員会は2015/12/22に行なわれた。その「総評」を、だいぶ難儀したが、書いた。
 →「総評」:http://www.ritsumei-arsvi.org/news/read/id/699
※02 立岩 真也 2015/11/13 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社,433p. ISBN-10: 4791768884 ISBN-13: 978-4791768882 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.
 第4章 認知症→精神病院&安楽死、から逃れる
  第3節 再び仕組みについて
  1 仕組みについて
  2 制度の決め方・組織の運営〜準備ができてからではないが、行なうことは行なう
  「3 不定形な仕事を仕事にする
 これではだめだ。代わりに同時になされてよい二つの方向がある。一つは、雑多な仕事に応じて払うようにすることである。一つは、そうした「対人援助」の仕事に乗りにくいものを得られたり供したりできるだけ人が暮らしていける余裕があるようにすることである。前者は第3章で述べたが、繰り返しながら進む。
 一つめから。介助他の仕事を社会から金の得られる仕事として成立させるべきことが主張され、私もそれを受けてそう書いてきた(立岩[1995a→2012]等)。その立場に基本的には変わりはない。その仕事をする側にとっては合計して暮らせるに足る額が得られるのであれば、時間あたりという単価の設定でよいとも述べてきた(上野・立岩[2009→2015])★23。
 ただ、身体障害の人の多くについては必要な時と場合が比較的はっきりしている。必要な時間、ほとんど一人、多くて二人が介助の仕事をする(パーソナル・アシスタント=PA)。その人は本人=利用者から指示された仕事を行う。その時間に応じた支払いが政府から事業所に対してなされ、働き手に払う分を差し引いた額で組織の運営そのほかの活動にまわす。ほぼこのかたちをそのまま使える場合もあるが、「精神」の人たちについては何が「仕事」なのかについて、そうはっきりしないことがある。鬱で体が動かず家事援助など決まった仕事を決まった時に頼みたいときもあるが、人がいてほしいときもあるし、いない方がよいこともある。そしてそれはしばしばあらかじめわからない。また差が大きい。その日々の生活の手伝いの仕事は不定形な仕事であって、どのように公平に配分するのがよいのかわからないとされる。これは――論じるに足りるような実際の制度がなかったからだが――あまり表だって論じられてこなかったが、考えておくべき問題である。それにどう対するか。問題の所在は感じられているのに論じられていると思えない。
 具体的にどうするか。各地でどうなっているか、フィンランドについての報告が『現代思想』特集「認知症新時代」にもあったが(高橋[2015])、これならよさそうと思えるものはなかなか思いつけない。おそらくこれでよいというあり方はどこにも存在しないはずだ。必要だが余計であり、余計だが必要なものであったりするからであり、必要の範囲も容易に定まらないからである。そして結局、多くの場合、「問題」が全面的に解決したりすることもない。言えるのはただ、その何をしても十分にうまくいくなどということはない現実の方に合わせるべきだということだ。
 「調整」「プランの作成」という流れになっていることを述べたが、それは、調整するようなものもたいしてない中で、なにほどのこともできていない。実際になされる必要があり、一部でなされてきた仕事はもっと広い。そしてそれはときに長くかかる。一九六〇年代の米国の脱病院化において作られたようとした仕組みは、疾病の急性期をしのげばあとはなんとかなるという前提のもとに組み立てられたように見える(cf.三野[2015])。それですむ場合があることを否定はしない。しかしそうはいかないこともたくさんある。基本的に「ケア」と「相談支援」などと分けられている垣根を取ることである。「世話」と言ってもよいし「支援」と言ってもなんと言ってもよいが、その仕事は不定形な仕事でよいのであり、そうした仕事をすればよい。
 事前の「計画」がそう有効であると思われない。事前にわかる部分はそれはそれとして組み入れればよいが、そのときどきに必要になったら派遣するというかたちになるだろう。それを今主流の時間あたりの積算というかたちで計算するのがよいのか、別のやり方がよいのかは一概に言えない。比率はそう変わらないのだから、一定の地域にしかじかの数の人を配置し、組織・人に対して固定して雇うという方向もあるだろう。今主流になっている組織と支払いの形態を支持する一つの理由は、人を選べること、組織を変えられることだが、別の形態の組織でも、利用できる組織を複数にするなと選択を可能にすることはできる。(現在の「身体」中心の事業所についても、「難しいケース」では実質的には選べない場合が実際にはかなり多い。そして利用者あるいは供給者、ときに双方が選択(除外)していって、結局どこも誰も残らないということもある。)
 そうすると計算と支払いの困難が言われる。それに難しいところがないとは言わない。しかし述べたように、医療には格別の制約はない。そしておおむねそれでとにかくにもやってきた。そのことを言うと、医療は特別であり、命に関わることだから、というのが公式の見解・弁明ということになるだろう。だがその説明にそれほどの説得力はない。実際になおってはおらず、そしてなおらなくとも、毎度毎度投薬などはなされている。
 医療と基本的には同じで仕組みでよい。そうすると、医療、精神医療全般と同様に、過剰供給は起こりうる。しかしこれはこれまで述べた方法でおおむね防ぐことはできる。薬剤や検査など供給側の実質的な決定によって過剰・加害が起こりうることに比べれば、むしろ危険は低く、無駄は少ないだろう。問題が起こることはなくなりはしないが、それにはかまいすぎないほうがよい。
 □4 その手前のこと
 こうして一つに、「社会サービス」として提供されるものがある。その範囲を緩めにとった方がよいことを述べた。ただそのうえでも、それで対応できない部分は必ず残る。[…]」


UP:20160120 REV:20160127 
立岩 真也 
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