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位置取りについて

「身体の現代」計画補足・87
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1665853063681674
立岩 真也 2015/11/13

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last update:2015


『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』表紙    『現代思想』2015-11 特集:大学の終焉――人文学の消滅表紙    『造反有理――精神医療現代史へ』表紙    『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』表紙 [表紙写真クリックで紹介頁へ]

 発売中の『現代思想』(青土社)11月号(特集:「大学の終焉」)
http://www.arsvi.com/m/gs2015.htm#11
掲載の連載第117回は「今般の認知症業界政治と先日までの社会防衛」。最近出た拙著『精神病医体制の終わり――認知症の時代に』を広告しつつ、一つそれと直近のことに関わることを知らせた。この回を小分けにしてここに掲載している。今回はその8回め。HP版は
http://www.arsvi.com/ts/20152087.htm


「■位置取りについて
 なにかすべてについて批判的・猜疑的であることが社会学の仕事であり、例えば医療社会学というものであるというような時期があったとして、それがいつのまにか終わってしまい、その後「臨床」が肯定的に語られるような時期がやってくる。今回の本の補章3に収録した文章の多くはそうした「移行」の時期に書かれた短文だ。医療社会学の古典や教科書の紹介から始めて、またこのごろは聞かなくなっている「臨床社会学」の本などを紹介している。
 その期間を過ごして、私が思って、行なおうとしてきたのは単純なことだ。よしあしについては立場を曖昧にしないこと、そして、言える/言えないことの根拠については慎重であること、しかし避けるよりは示すことだ。それは実践的な対処法でもある。例えばなにかを簡単に肯定してしまうなら、それに反すること欠けていることはすぐに探し出され、対置される。つまり、護ろうとしてもすぐに負けてしまう。なにかを信じたときの後の失望が大きいということもある。それを用心して、固められるところは固めておいた方がよいということだ。
 そしてこの用心の勧めは、他(国)でどうなっているのかということについても言える。日本という国は、医療という領域に関しては大略本で述べ今記したように、厄介な人たちと思う人たちに対してきたしこれからも対そうとしている。この方法はたしかに唯一ではないし、なによりよいやり方ではないが、別の場所でまた別様に「機能的に等価」なことが行なわれているかもしれない。本の第4章では、安楽死、幇助自殺の流れを紹介した。家族の負荷があり、その限界のさき幾つかが用意されるより、すっきりと独りにする仕組みになっている社会がある。それがいちがいに本人によくないとは言えない。ただこれも周囲にとっては厄介さの軽減の方法ではある。他方、精神医療「以外」については、この国においてなされていることには、まだましな、すくなとも丁寧なところがあるとも思う。
 余所がよいことにして、それを真似ようという戦略はときに足をすくわれることもになる。今度の本でも、日精協の人たちが米国にわざわざ出かけて脱精神病院化がうまくいっていないことを見て帰ってくるといったことを行なったことを見た。同じことを今でも言っている。そしてそこに報告されたことのいくらかは当たっていた。様々を「込み」で考える必要があるということだ。
 そして、うまくいっているとかいっていないとか言ったのだが、それをどこから言うのかである。単純素朴な意味では、たしかに事実から規範が導かれることはないだろう。しかし、まず私たちが集めてくる事実の中には、誰かが何をよしとし何をよしとしないのかという事実が含まれている。社会的事実の多くには既に規範的なもの、多数の「べき」が含まれているということだ。だから私たちはその事実からどうするかを考えることができる、ことがある。『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』に収録された早川一光へのインタビューを受けて考えてその本に収録した文章で行なったのもそうしたことだ。今度の本でうまくいったかはともかく行おうとしたのもそんなことだ。このとき私たちは、既にあることを踏み台にすることができる。
 『造反有利』といった本は、それに関わった人たちが書いたらよいと思っていた。ただなかなかそうはいかないようだとも思うようになった。今回書こうと思って書けなかったこと、それは記憶や記録がどのようにして欠けたり失せたりするかということだったのだが、書いてもらうことの困難は、いくらかはそのことにも関わっている。より詳しくは別に記すが、渦中にあった人たちは、書くのに適しているところとかえって書けないのと、両方がある。そして自覚的な距離をとる人であっても、個々を知っている人であっても、ときにそれゆえに難しいところがあるように思える。本来、前書に書いた時期のことを書くにふさわしいのは岡田靖雄(一九三一〜)であるだろう。ただ二冊ともに記したように、岡田はまだ六〇年代中盤以降についてまとまったものを書いていない。私は前書(『造反有利』)の手売りを始めたその日――その日の講演が本書補章1「話したこと等」に再録した二つのうちの一つ「病院と医療者が出る幕でないことがある」――山本眞理から、ついに岡田が本を出すと聞いたのだが、それから二年経ってまだ出てはいない。岡田は、敵方の人たちに対して親しみのようなものを抱いているようにさえ思われる造反側の人たちに比して、より冷たくものを見ているところがある。造反側の人たちに対してもそんなところがある。ただそれでも、あるいはそれゆえに、そして自身が長く臨床の場にいたことと合わせた時、この間のことは、実際複雑だったのだろうが、複雑であって、書きにくいのかもしれないと思った。今度の本では秋元波留夫が宇都宮病院の接待で講義を休んでゴルフに出掛けていたという話がおもしろかっので、彼が手書きの個人誌にそのことを記した部分を引いた。彼は簡単に手に入るものでない様々を有し、知っている。そうして得られるものから、実際その修羅場にいた者でない者が、重いものを背負うことなく書けることがあると思う。」


UP:20151122 REV:
『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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