last update:2015
発売中の『現代思想』(青土社)11月号(特集:「大学の終焉」)
http://www.arsvi.com/m/gs2015.htm#11
掲載の連載第117回は「今般の認知症業界政治と先日までの社会防衛」。最近出た拙著『精神病医体制の終わり――認知症の時代に』を広告しつつ、一つそれと直近のことに関わることを知らせた。この回を小分けにしてここに掲載している。今回はその7回め。HP版は
http://www.arsvi.com/ts/20152086.htm
以下に「この二つの本」とあるもう一冊はゴフマンの『アサイラム』で前回紹介した。
http://www.arsvi.com/ts/20152085.htm
『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』
http://www.arsvi.com/ts/2015b2.htm
に全文(+α)を再録したしたもとの文章(『看護教育』連載での本の紹介)は
http://www.arsvi.com/ts/2004002.htm
以下、『現代思想』「連載」からの再録はほんのわずか。
「『PTSDの医療人類学』について。この本の紹介(二〇〇四年)で、「全体に淡々とした記述の中に、ときにこんなことを「学術的」な本――ウェルカム医療人類学賞を受賞している――に書いてよいのだろうかと思うようなことが書いてあったりする」と書いて、次の部分を引用している。ちなみに文中のセンターは「国立戦争関連PTSD治療センター」。
「「彼はスター患者である。たちまち規則やセンター言語を覚え、治療イデオロギーをたちまち実行する」(三四七頁)と描かれるマリオンともう一人ロジャーという「患者」について。実際のこの2人のかけあいについては読んでいただくしかないのだが、「部外者の私からすれば、マリオンとロジャーがワークしているのをみると不愉快だった。執拗さと信心家のふりと何でも一般論にする正論との三つ組は見るのも不愉快だった。」(三五一頁))
今回の再録にあたり、「書いてあったりする」の後に「〔なにか「客観的」にしか「学術的なもの」は書いてならないという思い込みが一部にあるようだが、多数の名作はそのように書かれてはいない。〕」という一文を付した――〔 〕内は再録にあたって付加した部分で、この補章2については他はまったく変えていない。それは実際の事実でもあり、そうあってよいと私が考えていることだ。
そしてそのことと別に、またまったく同時に、「学」の名のもとに退屈なことが書けるのがよいとも思っているということだ。実際、本の全体ではないが、幾多ある本の中では退屈でないほうであろうこの二つの本にしても、ある部分はかなり退屈な――と私には思える――記述が続く。そしてそのことが――誰に許してもらっているのかわからないのだか、誰かに――許されているのとすれば、それはよいことであることもある。『アサイラム』に書いてあることの幾つかは短い文章で要約することもできる。ただその本でも紹介していることだが、たいがいの人がゴッフマンというと想起するのと異なる書き口で書かれている――中でも重要な――第4章も含め、たくさんのことが淡々と記されていく。
そしてヤングが書いているのは、そこでPTSDとされるものからの「回復」をめぐって肯定的なものとされてしまうことに対する苛立ちである。ただ距離を置いているのではない。
それは、なにかに肯定的であることと、基本的には、背反するものではない。まずなにかよしとしているものがあるから、腹が立つということもある。次に、実際うまくいっているところはあるはずだし、あるもののすべてを猜疑してまわることがよいと思わないが、しかし肯定すべきものを肯定するためにも、あるいは肯定するから、苛立ったりするし、冷たかったり、また懐疑的であり冷静であろうとするということだ。」